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各音楽の出会いと深化 ~Heavy Metal編

先月、ツイッターに上がってたネタです。私の音楽遍歴として、MTVの常連レベルを見聞きするミーハーレベルの段階を脱却し、自発的にソフトに手を出すようになった音楽がHR/HMであり、そのきっかけを記したツイートです。

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その時のことを、より具体的にプレイバックしてみます。
そのとき、その先輩R氏は、おもむろにストラトタイプのギターを取り出しを弾き出しました。エドワード・ヴァン・ヘイレン風のフランケン柄を無理やりテープで見繕ってあり、フレットは彫刻刀でスキャロップ加工してあったのを思い出します(当時のあるあるネタといってもよいだろうか)。

曲はLOUDNESSの「Like Hell」でした。
この時期は1985年のゴールデンウェーク前後だったはず。アルバム『THUNDER IN THE EAST』が同年1月の発売だから、練習期間を考慮すると合点のいくタイムラインです。彼らは当時の日本を代表するヘヴィーメタルバンドのトップであり、同作が当時のビルボードチャートに入ったことはいまだ語り草です。オリコンチャートにしても4位の実績を残していました。
最初にインパクトを受けたのが、これだったのは行幸で、ヨーロピアンスタイルも、アメリカンスタイルもバランスよく取り入れた音楽性は、以後何を聴くにも指針になりうるものでありました。
また、ロブ・ハルフォード~ウド・ダークシュナイダータイプのVo.、新井原実の声質もある意味極北だったので、今後多少癖のある声にも違和感を抱かなくなったのも、ジャンルの幅を広げていくうえで大きかったと思います。

つづいてM.S.G.の「Captain Nemo」も奏っていました。俗にいう“泣きのギター”というやつです。あとあと思うと、先にイングヴェイを聴いていなくてつくずく良かったと思うのです。結果的に、インギ―の早弾き自体にも、よりり驚きをもって対峙できたわけだし、より泣きくずれるがごときフレーズに魅了されていったわけですから。
タッピングやスウィープといったテクニックの波が、最大限にクローズアップされた時代にあって、どうしても追い求めてしまう哀愁のルーツが、なにかしらそこにはあったのです。

R先輩は確かにインギ―も教えてくれたけど、上記マイケル・シェンカー、ランディ・ローズ、ゲイリー・ムーア、ジョン・サイクスを敬愛していました。このあたりは、御大リッチー・ブラックモアやウリ・ロートを含めて、現在50代後半~60代のハード系の方々がこぞってコピーしていたものでしょう。
付けくわえれば、ラウドネスをはじめとした当時の国産メジャーバンドの多くが、このあたりの先達からどれだけ薫陶を授かったかは、個々の音を聴けば明白でした。それだけ素直な音を出していたという証左でもあるんですね。いまも、アイドルやアニソンといったJ-POP的音像の中に、“泣きのギター”がかぶさってくる展開に良く出会います。この感覚は日本人の遺伝子にこのころ形成され、組み込まれていった…と言っても、もう過言ではないでしょう。

話を戻しますと、R先輩は一学年上にしては渋すぎたわけなんですが(R先輩の同級生はその国産H R/HMや、LAメタルを聴いている人が多かった)、ゆえに自分自身のルーツ探訪癖が、このころから刺激されだしたのだと思います。

この先輩には少し年の離れた兄がいて、彼もギターをやっていました。それゆえの年齢に合わない渋さだったのでしょうが、この数年後はきっぱりメタルも聴かなくなり、ザ・ビートルズとローリングストーンズ(さらにはそのルーツたるブルースやR&R)に入れ込んでいたのはたまげました。当時バブル期でLAメタルが全盛だったことや、CD化以前の大物のリイシューブームになる前だったことを鑑みると、実に自分を曲げない凄まじい人だったと思います。

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兄(もしくは姉)というキーワードは重要です。自分で思い出しても、同級生の兄貴経由でソウルトレインを叩き込まれたり、親戚の兄貴にポール・ウェラーを叩き込まれたり、自分の姉にオフコースとチューリップを叩き込まれたり…したものです。友人を含めて周りの人からいかに音楽の趣味を形成する刺激を与えられてきたことか。冷静に考えると、過去のいろんな出会いや関係も、音楽を通して鑑みると感謝しかかばないですね。

そんなわけで、いろんな雑記に交じって、こんな音楽の思い出話も時折綴っていきたいと思います。

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