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「虚栄心がない人はいない。しかし、皆、恥ずかしがってそれを隠す。『野心』と呼ぶことで虚栄心を正当化しようとする」

誰にでもある虚栄心

「虚栄心から自由な人は誰もいない」アドラーは言っています。

そして、虚栄心はいい印象を与えないため、「大抵は、しっかりと隠されている」と言いました。

様々な方法で隠す

あえて慎み深さや謙虚さを示したり、身なりに無頓着なふりをして、虚栄心を隠そうとします。

一般的に虚栄心が強いと思われる人のスタイルと逆をつくろうのです。

私の場合は、きっと他者を優先することで、虚栄心を隠そうとしているのだと自己分析できます。

辞書で「虚栄心」の意味を調べると、「自分を実質以上に見せようと、みえを張りたがる心」、と記載されています。

周りからもっと「いい人」だと思われたい心を隠すために、他者を優先するという行動をとっているのだと思います。

言い換えもする

虚栄心は隠すだけではなく、別の言葉に言い換えることもします。

「これは虚栄心ではない。野心が強いだけだ」と。

しかし、アドラーはそれを否定します。
「野心は虚栄心だ」

強すぎる野心は虚栄心になる

アドラーは以下のように指摘しています。

「野心があるように子どもを訓練することはまったく無益である。勇気があり、忍耐強く、自信を持ち、失敗は決して勇気をくじくものではなく、新しい課題として取り組むべきものであると考えるように教育する方がずっと重要である」と。

強すぎる野心も優越コンプレックスになる

行き過ぎた虚栄心は優越コンプレックスになります。
強すぎる野心も同様です。

教育において、野心を賛美したり、野心を持つように促すことは不必要なことだとアドラーは述べています。

野心を持って他人を蹴落とすことよりも、これから勉強する「共同体感覚」の育成の方が重要なのです。

誰もが持つ虚栄心や野心を共同体感覚に書き換えましょう。


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