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旦那の浮気から学ぶ信頼の哲学

友達がだんなさんに浮気された。
彼女は言う。「遅く帰ってきたらもちろん浮気を疑うし、早く帰ってきても疑う。プレゼントをくれても疑うし、何もくれなくても疑う。もう何もかも疑いしかない。」と。

でしょうね。と思う。

そもそも「信用」とは「無担保」でこそ成り立つ。
「この人は優しい人だ」「人を傷つけたくないと思っている人だ」そう思って人は付き合ったり夫婦になったりするが、その根拠たるは「笑顔がやさしい」とか実にこころもとないものである。

最近はお見合いサイトより本格的に高額なお見合いクラブのようなものが再燃しているらしい。気軽なネットだと「実は既婚者」という人も多く、それを恐れた女子たちは「独身証明書」や「年収証明書」などを提出する正規のお見合いを求めるらしい。
たしかにその二つは証明書で証明を得られるかもしれない。

だけど「信頼できる人物かどうか」はまた別の話である。

「独身である」という証明が「独身証明書」によってなされた信頼は実態を帯びているので真の信頼とは呼べない。独身証明書が偽装である可能性もあるからだ。

「実態」「存在」とは何かに依存して初めて成立する。

しかし「この人はうそなどつかないひとだ」という無担保の確信こそが真の「信頼」なのではないだろうか。

なににも依存せず存在するもの、それこそが真のものであり、しかし依存先がなく実態がないので「そこに向かう姿勢そのもの」としか言いようがない。

信頼とは何か
それは端的に言うと「同じ物語を共有しているという希望を持ち続けられる心的状態」ということなのではないだろうか。

「この人ならきっとこうするはず」「こう思うはず」というその像と見ていない時間のその人の行動に大きくずれがなく、自分の物語と相手の物語はほぼ重なりあっていると思える希望の中に生きている。ということである。

同じ物語を生きている、という希望があるからこそ「愛しているよ」という言葉を受け取り、感謝をし、返すことができる。
もしかして相手は違う物語を生きていて、「愛しているよ」と言っていても「ほかの女性を思い浮かべているのかも」と思ったらまったく感動はないだろう。

現実には「そんなことない」可能性を否定する材料など持ち合わせていない。
材料を探した時点で「その人を信頼していない」というパラドックスにはまる。

しかし身もふたもないことを言うとそもそも現実的にはストーリーなど共有することなどできない。

それぞれの生活とそれぞれのまゆの中を生きていて、相手の意志や世界観をあくまでも「想定している」だけだ。

しかしそこに向かう過程そのもの、希望こそに真実がある。不可能性への希望、のようなものだ。

これがひとたび「不可能だった」と証明されてしまうと、無担保で依存先がない状態でこそ存在していた「信頼」が「依存先」を求めるようになる。

無担保で永遠不変にただよっていた「信頼」にいったんひびが入り「実態」としての様子をあらわにしてくると「傷がないか」のチェックの作業が入り、「永遠のものに対する永遠のチェック」をしなくてはいけない。
常に信頼を担保する依存先を確保しなくてはならず依存先が虚偽ではないという証明を欲し、さらに…といたちごっこのように。
これまで無担保で純粋に存在していた「信頼」というものが、追いかけても追いかけても手に入らないものへと化けていく。

「信頼」には担保などない、ただ自然発生的に起きた自分の中での「確信めいたもの」であり始まりも終わりもない、「実態のないもの」であるからこそ初めて成立していたのだと気が付く。

なんの根拠もないけれど「きっと同じ物語を生きている。」そこに向かう希望のエネルギーのようなものを愛、信頼と呼んでいいのではないだろうか。

妄想、と言ってしまえばそれまでだけれど、その希望こそが生きるちからとなりうるのだなあと思う。

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