純粋意欲とは何か。

病気発覚当初の日記を読むと「私は死なない!」とか言っていて、いまよりよほどやる気にあふれている。

生きる気力がそれほど大きかったのかと言うとそうでもなくて、「死の恐怖」が大きかったように思う。80歳くらいまでは普通に生きる予定だったのにまさかの40代で生存率50%と言われてパニックになったとの、純粋に死を受け入れられず、恐怖に駆動されるかたちで生への気力も高まった。

今はと言うと、気持ちも落ち着き、死生観や哲学を勉強したりして、死がさほど怖くなくなった。となると、生への執着も減り、「まあ死んじゃっても仕方ないかな、いい人生だったなあ」というくらいのんびりしている。

終活もしていて、死後の契約解除の手続き、友人関係の整理とか、貯蓄のありかの記載、思い出の整理まで終わっていて、今日ぽっくり逝っても手続き上困ることは何もないだろう。

意欲とも取れることは実は恐怖からの駆動というのはこれにかぎらずよくある。

たとえば就職。これこそ、「これがしたい!!」というよりは、「落ちこぼれないために」頑張った。仕事の中身ももちろん興味があるもの、ではあるのだけどそれは二の次で、やはり安定していて、貧乏にならないように、病気をしたときなどにちゃんとした保障があるところ!!
(まさにそのおかげでいま生きながらえているとも言える)
という、人生に訪れるであろう「貧病苦」の恐怖からの駆動で選んでいる。

その前の段階の「勉強」というのもほとんどが「受験のため」で「将来のため」で「その内容にすごい興味がある」というのではなかった。

唯一たのしかったのは滑り止めで入った大学でやっていた英文学や哲学。これは「どうせ滑り止めだし」と目的がないからこそ純粋に学問として楽しめた。

恋愛、という純粋のきわみであるものに対しても「結婚願望がないひとにひっかかるのはやだな」と「将来の安定」というもくろみがあり、結婚願望ですら、「家族で生活したい!!」というよりは「結婚しないと老後不安定だしな」というこれこそ恐怖からの駆動であった気がする。

その証拠に老後がない可能性が高いいま、結婚願望がなくなり、そのついでにあまり恋愛にも興味がなくなった。
不倫する人はばかだと思うけど、恋愛への純粋欲求と言う意味ではある種純粋なのだろう。
広末は清らかなオーラで不倫をしてびっくりしたが、ほんとうに清らかなんだと思う。

「純粋意欲」ということばを最近聞いた。つまり、上記のような「恐怖からの駆動」ではなく「ほんとうにそれそのものがしたい!!」というものらしい。

好きなのは読書。本を読んで空想しているのが小さいときから好きだった。
でも「そのために生きる!!!」というほどのものではない。

職場の利用者の子どもはかわいいので毎日会うのがたのしみ。今でも職場に行きたい理由があるとするとそこかなあ。

でも自分が育てているわけではないので「あの子のために生きる!!」というほどでもない。

ホリエモンのように「300歳まで生きてロケット開発をするぞ!」というような意欲や情熱があればいいのになあ。と思う。

40代までそういうものが見つからないというのは、まあない。ということなのかもしれないし、性格的に「日々のささやかなたのしいこと」に支えられているので、いざ「生への原動力」となるのが弱い。というところもある。

まあ、死んじゃっても仕方ない、けど死にたいほどいやなこともない。
こんなかんじでいくのかなあ。

「それそのものに夢中になれるなにか」を見つけられたひとはすごく幸せだし生命力も高いのだろうなあ。とちょっとうらやましくもある。

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