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友人2

知り合いの数は増えたが友人の数は少しづつ減っていく。

日々生きていく中で知り合う人は多い。
殆どは職場だが、SNS上の出会いもある。
とはいえ、職場の関係は知り合い・同僚という感じであるし、SNS上の人間関係は友人というよりも仲間という意識が強い。

私は昨年の夏に友人を二人失った。
亡くなったわけではなく、私の中で二人を友人ではなく知人というカテゴリーに移動させたのだ。

(今や私の中で知人となってしまった)Aの声かけで県外方々に散らばっている友人たち7人が集まって食事をすることになった。
AとBは前乗りして前日から集合の土地にいたのだけど
なぜかAが当日の集合時間は「14時過ぎ頃かな」と言っていたことが気になった。
早めに来る友人もCもいた。早めに来たいけど14時からだと時間が余ってしまうと悩むDもいた。
私はDに声をかけお茶をすることにしたのだが
なんと星の数ほどあるカフェだというのに、私たちが滞在するカフェにAとBが偶然やってきたのである。
奇跡は残酷だ。やはり二人だけで遊んでいた。
その時の私の気持ちは浮気を目撃したようなもので、衝撃が走った。
私のLINEにはひっきりなしに他の友人から「早めに来ちゃった」「時間が余ってる、どうしよう」等々連絡が来ている。

これはいったいなんだろうか。この状況は。

何故集まろうとAは言ったのだろうか。
Bと遊びたかっただけなら、他の人を巻き込んで欲しくなかった。
それでちょっとした小旅行くらいのお金をかけてきている人もいたというのに。
自分がないがしろにされていることではそれほど怒らないけれど
友人がないがしろにされているのが許せなかった。

すごく不愉快だったので態度にも出してしまったのだが
帰り際にBから「なんかごめんね、Aと二人だけで盛り上がっちゃって」と言われて何も気づいていないのだなと思ったし
私が拗ねている、と思われていることにがっかりした。
それでも「気にしないで」と言ったが微妙な空気でもあったので
別れる間際にもう一度「気にしないで」と言ったら
「うん、気にしてない。さっき謝ったから」と返された。

その瞬間にこれまで数年に渡って築かれてきた信頼関係は壊れて
私はにっこり笑って「さようなら」を言った。心の中で、彼女は知人になった。

こんなことで、と思うかもしれないが
足を怪我してまでちょっと高めの靴を履いてきた子がいた。
おしゃれしてきた子もいた。
楽しみにして早めに来た子もいた。
あまりにもAが動かないのでお店の予約をとってくれた子もいた。
「みんな」で会いたいからみんなは動いてくれたのにAとBは「みんな」をないがしろにした。
それは私にとって絶対に許せないことだった。

二人がVtuberの話をし続け、そのカフェに遊びに行っていたことも知り、そしてそれを目的に日程を変更されたことも分かっている。
それ以来Vtuberのイラストを見るだけで吐き気がする。
(Vtuberの方々は何も悪くないのに、ということは分かっているのだが)

ぐちぐちとこんなところで恨み言を言ってもしょうがないかもしれないが
何でも書いておこうと思う。
この怒りが教えてくれる。「ないがしろにされること」が私にとっての地雷の一つだということを。
私の人生はあと100年も1000年も続くほど長くはない。学生時代のような閉鎖空間でもなければ、一瞬の永遠を留めておくような青い春の時期でもない。
遺された時間を私と意識の合わない人間のために費やしていく必要もない。



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