ペルソナシリーズで学ぶ無我の境地

ペルソナシリーズとは、ゲームメーカATLUSが開発したゲームシリーズブランドのことだが、このゲームの世界観は無我の境地を識るのに役立つ。

登場人物は皆、未熟な学生であるか、或いは成人であっても子どもの頃のトラウマなどを未だ抱えており、成熟していない人物であったりする。そんな彼らは、何らかの事件を切欠に自分自身の内側に眠る超越的な能力に目覚め、叫ぶことによって現世に影響を与える。

その叫びとはこうだ。

ペルソナ!(カッ!)


あるいは、叫ぶものは自身のペルソナ名でも良い。

セイメンコンゴウ!(カッ!)
アメン・ラー!(カッ!)
ヴォルカヌス!(カッ!)
アポロ!(カッ!)
オルフェウス!(カッ!)
メサイア!(カッ!)
イザナギ!(カッ!)
イザナギノオオカミ!(カッ!)
アルセーヌ!(ブチッ!)
ラウール!(ブチッ!)
サタナエル!(ブチッ!)

別になんだって良いのである。要は自分の中に自覚した、自分の前に存在する問題と言う名の悪魔、或いはシャドウを倒せる力であるなら何でも良い。

こうして彼らペルソナという作品の登場人物たちは、自分たちにとって越えがたい何かを目の当たりにしたことで目が覚めて、自分の内側にある超越する力に目覚め、自分の障害となる悪魔やシャドウに真っ向から立ち向かい、勝利するのだ。

時には自分自身のトラウマや思い込み、コンプレックスが、悪魔やシャドウの姿をとって襲い掛かってくるが、自分自身の問題を超えようとする想いであるペルソナを呼び出し、それを倒して勝利する。

ちなみに、このペルソナというタイトルや、シャドウという敵の概念は、カール・グスタフ・ユングの提唱した心理学に由来し、作中に登場するベルベットルームの概念は、集合的無意識から個人的無意識にペルソナを降ろすという発想であると思われる。

そして、ペルソナの名前を呼ぶことで意識的にペルソナを呼び出し、眼前の問題に対処することを可能とする。

これは、実はゲームの中の話だけでなく、皆現実でも同じことをしている。何か恐怖が襲い掛かって来た時、人は何かを唱える。それは「南無阿弥陀仏」だったり「何無妙法蓮華経」だったり、「ぎゃーてぎゃーてはらそーぎゃーてぼーじそわか」だったり、「ああ天にあります我らが父よ(oh my god!)」だったり、「これは思い込みこれは思い込みこれは思い込み」だったりする。

頬をパチンと叩いたり、手のひらに人と言う字を書いて口に運ぶジェスチャーをしたり、無意味に屈伸運動を始める人もいる。ガムを食べ始めたり、はたまた目を瞑ってひたすら思考放棄する人もいる。(ペルソナ3でも、召喚器と呼ばれる銃のようなものを額やこめかみに当ててトリガーを引くという儀式によってペルソナを呼び出す。)

これらはすべて、呪文を唱えたり、儀式的な行動をとることによって、無意識からペルソナを呼び出して、シャドウや悪魔を倒す(問題を解決する)行為である。

呪文や儀式には、一時的に自分自身を無我の境地へと到った状態へと、強制的に持っていく力がある。未熟な人だろうと冷酷無比な悪人だろうと、この呪文を一心不乱に唱えたり、儀式をしたりすると心が落ち着き、穏やかになってストレスを軽減させ、思考や行動が安定する。

それ故、イエスやゴータマシッダルタの教えを受け継いだ人たちは、悟りに到れない人のため、万人向けに最速で無我の境地へ到る方法を編み出した、それが各種呪文であり、儀式である。

イエス以前であれば、旧約聖書であったり、ゴータマシッダルタ以前であれば、ウパニシャッドであったり、とにかく超古代から人々に伝わる、誰でも一時的に賢者になれる呪文や儀式だ。

そして現代ならばこうだ。

ペルソナッ!(カッ!)

何も考えずただペルソナと叫ぶだけで無我の境地へと到り、心が穏やかになり行動や思考が安定し、問題解決の糸口とする。まあ、突然ペルソナ!とか叫び出したら危険人物だと思われてしまうので、周囲に人が居る時は心の中で叫ぶことにしよう。(笑)

自分で自分のペルソナの設定を決めても良い。伝説上の生物や、概念上の神や仏や悪魔でも良いし、歴史や物語に登場する英雄でも良い。イマジナリーフレンドのようなものをオリジナルで創り出しても良いし、とにかく自分にとって「偉大な存在」を設定して、それを心の中に呼び出せば良い。それだけで心の迷いが晴れて安定するのなら、それでも良い。

これで充分なのだ。無我の境地に到らないと生きていけないというわけでもない。まぁ・・・・・・老いて病んで自分を見失うくらいなら、無我の境地に到った方が良いのかもしれないが。とにかくこの呪文や儀式というものは、忙しかったり情緒不安定だったりする人でも簡単に迷いから抜け出すことが出来る。

それにペルソナの登場人物と同じように、うまくレベルが上がれば高レベルなペルソナを呼び出せるようになり、より問題を解決しやすくなることもある。

そしてその調子で呪文や儀式を行っていると、ある日突然ハッと閃き、真の無我の境地へ到ることもある。そうなれば最強のペルソナだって簡単に呼び出すことが出来るようになって、どんな悪魔もシャドウもへっちゃらになる。

問題は、ペルソナを呼び出すには「拘り」や「執着」や「思い込み」を捨てて、自分の心の隙間を出来るだけ広げないといけない。高レベルなペルソナであればあるほど、自分自身を空っぽに近づけなければならない。それ故、最強のペルソナ(ペルソナ4で言えばイザナギノオオカミ、ペルソナ5で言えばサタナエル)を呼び出そうと思うなら、それこそ自分自身を完全に捨て、世界と一体化しなくてはならない。(ペルソナ4のイザナギノオオカミは世界のアルカナであり、ペルソナ5のサタナエルは愚者のアルカナである。無我の境地へ到った人と赤子は完全な他力本願でもある。設定を考えた人は悟ってるよなあ。)

そしてペルソナシリーズでは、自分を捨てて世界と一体化する方法として、コミュニティという概念がある。これは、他者との交流で絆を生み出し、より強力なペルソナを手に入れる手段だ。

このコミュニティをすべて集め、コミュレベルを最大まで上昇させることにより、最強のペルソナを手に入れることができる。これは仏教の基本的概念の一つ「諸法無我」を現わしたものと言えるだろう。

まず自らと向き合い、拘わり、執着、思い込みを捨て、更に次は他者と向き合い、他者を無条件で受け入れることにより、力を得る。まさに諸法無我である。だから、愛というものは幻想でもお花畑でも無い、無我の境地へ到る必須条件なのだ。

そしてありとあらゆる拘り、執着、思い込みを捨て、他者を完全に受け入れた時、人は無我の境地へと到る。

実際、自分の考えなんて別に大切にする必要は無い。自分の中にはあって当たり前のものだし、他者に適用しようとしたって受け入れられなければ意味が無いし、受け入れて貰えたとしても相手の解釈は自分の考えとは別物になっているのだ。

それに比べ、逆に他者の考えは非常に貴重だ。自分には無い視点を持っていて、意外性がある。それを吐き捨てるのは、無我の境地へ到ってない証拠と言える。当然、他者の考えを自分が解釈した時には、その考えはもはや別のモノに変化しているのだが、そんなのは関係ない。他者の力と想いを自らの知恵や力にプラス出来ればそれで良いのだ。そして人は受け入れて貰えれば嬉しくなり、受け入れてくれた人を好きになる。そうやって絆が結ばれれば、より問題解決への意志は高まる。偉大な聖人に弟子が多くいるのも、そのことの証明となるだろう。

無我の境地へと到れば、もはやその人に敵は居ない。どんなに強力な悪魔やシャドウ・・・・・・サタンだろうと、ルシファーだろうと、ニャルラトホテプだろうと、ニュクスだろうと、イザナミだろうと、ヤルダバオトだろうと、もはや恐れることはない。世界と一体化し、イザナギノオオカミ!(カッ!)サタナエル!(ブチッ!)と唱えれば、どんな問題も一網打尽である。それは自分自身だけの力ではなく、自分と付き合ってくれているすべての人の力も加わっているからだ。

だからペルソナシリーズは皆から愛され、今でも大ヒットを誇る傑作で居続けられるのだろう。ATLUSには是非ともペルソナシリーズをいつまでも開発し続けていただきたいと願う。ペルソナは、人類が無我の境地へと到るための指針と成り得るからだ。


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