科学と心

どうも皆さん。今回は、現段階では心や意識を蔑ろにしてまで科学に傾倒しない方が良い、というお話をしたいと思います。

何か理論が打ち出された時、まずその理論は実験によって実証されなければ、信憑性を確認することはできません。しかし、これをあまり厳密にやりすぎると、どこかの段階で悪魔の証明や無限後退が発生してしまい、証明が不可能となって理論が否定されてしまうことになります。

そこでカール・ポパーという人物は、元々科学というものは反証可能性があって然るべきなのだ、という大胆な結論を出しました。そして現代にいたるまで、科学というモノは、いつか覆されるモノとなりましたが、そう易々と反証されては理論を否定する、なんてことをやっていれば、実証主義と何ら変わりありません。

そこで、反証が正しいとするには、実証を行ったモノとまったく同じ前提条件を必要とする、ということで反証の濫用を防ぎました。

すると何と、これによって現代の科学に対する反証を行っていく過程で、まったく同じ前提条件を整えるということが不可能だということが判明したのです。なので、どうしても同じような実験をしても同じ結果が出なくて、結構あちこちで色んな研究者が頭を悩ませているそうです。それもそのはず、過去記事「因果の盲点」でもお話したように、万物は常に流転しており、諸行無常で成り立っています。そのことは量子力学の波動関数でも表わされているように、不確定性原理が関わってくるからです。

おまけに大抵の実験は数学的なエビデンスによって成立させるため、数学の前提問題である不完全性定理まで関わってくるため、微妙なズレがどうしたって発生します。

実証しようと、その実証を反証しようと、完全無欠な数学的エビデンスを用意しようと、そのすべてが更に反証可能であり、そのくせ反証を証明するためには前提条件の証明までしないといけなくなって、そこにまた悪魔の証明がひょっこりと現れる。

実証も悪魔の証明が求められ、反証も悪魔の証明が求められるので、どこかで誰かが、ここまで!と、めちゃくちゃ主観的な断定で科学として取り扱うかどうかを決めてしまわなければなりません。

更に、宇宙の法則がいつの日か突然変化してしまうことも、無いとは言い切れません。それが極微小の変化で、いつそうなったのかすら把握出来なければ、観測のしようもありません。

それ故すべてが証明のしようがないのです。だから科学も疑似科学も宗教も、大した差は無いのですが、何故かヒトは「科学的だ」「数学で証明されている」「エビデンスが明瞭だ」「論理的だ」などと言って、科学を妄信してしまいます。確かに科学は偉大で、我々の生活水準をここまで引き上げたのは科学による力です。しかし、力は所詮力に過ぎません。

そして力に傾倒しすぎた結果、その力を維持するために多くの人が疲れ果て、挙句に自ら命を絶つという悲しい出来事が世の中にはありふれています。命を絶つまでしなくとも、精神に異常を来たす人はもはや、3~4人に一人と言われるほどとなりました。

何のことはありません。心や意識を蔑ろにした結果がこれなのです。

とは言っても、科学の進歩によってAIやVR、ARに、精巧なロボット技術、地球外からの資源調達、遺伝子の研究による人体への干渉、農作物や畜産物の改良、脳波や神経の研究による人間の精神の安定化などなど、問題解決の糸口も発見されているため、科学に傾倒するな、とも言えないのも確かですね。

つまり今は過渡期ということなのでしょう。科学が、意識のハードプロブレムを超越すれば、心や意識の心配をすることも無くなるのかもしれません。尤も、意識のハードプロブレムを超越すること自体が大間違いである可能性も否めませんが。

何にせよ、意識のハードプロブレムを科学が超越し、それによって人類の営みが安定する結果を見ない限りにおいて、科学を妄信するのは少し考え直した方が良いと思います。

そこへ到達する前に、人類すべてが精神に重大な疾患を抱えてしまったのでは元も子もありませんからね。

以上、科学も現段階では意識や心より優先されるものとは言い難い、というお話でした。

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