力と現実、愛と概念。

人間が思考した時、その解答に二つの状態が生じます。

形而上学的なモノと、現実的なモノです。

形而上学的なモノって何かようわからんですね、筆者もようわからんです。じゃあ使うな。

ざっくり言うと、実存的な証明は出来ないけど、人のココロやイシキには存在する概念のようなモノってことです。

そして現実的なモノとは、言うまでもなく立証実験などを通して現実的に確認され、実際の生活に活用できるモノです。

社会を運営するには、この二つのどちらが欠けても上手く行きません。

よって、便利な道具を生み出す万能の(ように見える)科学さえあればヒトは生きていける、ということにはなりません。

さて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」

聖書「マタイの福音書4章1~4節」

これは聖書に書かれていることですが、クリスチャンでなくても他のアブラハムの宗教の信者だろうと、仏教徒だろうとヒンドゥ―教徒だろうと、神道信者であろうと無神論者であろうと、食べ物と寝る場所があればOKとはならないと思います。

いつの時代も、力か愛が覇権を握りますが(実存主義かプラトニズムか)、大抵、愛の時代(プラトニズム)であっても力(実存主義)が支配している構造に変わりありません。何故かというと、力と実存は肉体を持って生活している我々に直結する問題を解決するモノであり、愛や概念は力と実存の補助の為に存在するようなモノだと考えがちだからです。

量子力学はその解釈がほとんど概念ですが、利用されるのは力と実存に関わるものだけです。なのでパイロット解釈やエヴェレット解釈のような計算が複雑で応用できないモノは捨てられ、単純で正確性の高いコペンハーゲン解釈が使われます。

力と実存という現実を生きる為のモノは必要です。言うまでもなく、我々人類は物質的に生存したいと本能的に願っているからです。

しかし物質に恵まれれば安定して生きていけるかというとそうもいかず、物質を維持するための苦痛に耐えきれず自ら命を絶つ者も少なくありません。それ故、力と現実(実存)とは別に、愛と概念(解釈)も必要となるのです。パンのみでなく、神のことば(愛、概念、解釈)が必要になってきます。

ところが愛と概念を重視すると、神のことば(愛、概念、解釈)が自分だけのモノである、自分の持つ神(愛、概念、解釈)のみが正しいのだ、と思い込む者が現れ、自分の持つ神に従わない者を滅ぼそうと考えます。

何故こうなるのか、それは神(愛、概念、解釈)を、力(現実、実存、物理)の為の道具にしてしまっているからです。しかし、現実には、道具として使っているのは力の方です。力の作用を知るには解釈や概念が必要なのに、道具の方を信仰してしまっているからです。

即ち、主客が転倒してしまっているからです。

神(愛、概念、解釈)によって力(現実、実存、物理)を支配しなくては、平和には到底及びません。しかし、概念や解釈というものは、他人と一致しなければ争いとなります。力は実際に見せれば一致してしまうため、ますますただの概念や解釈は否定されていきます。

しかし力に依存した結果人は精神を病んで疲弊し、また神を求めるようになります。ところがその理由は単に、自分が疲れてしんどいから、ということなので、そりゃあいつまで経っても力か神かの小学生サッカーに決着がつくことはありません。

残された方法はもはや解釈を捨てて即身仏にでもなるしかないですが、人間は生きて居たいと思うのが当然なのです。生きる権利があります。

さて袋小路に突入しました。

力に依存すれば疲れ果てて精神を病む。神に依存すれば人と考えの違いが発生して争い合う。一体どうすれば良いのでしょうか。

ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェはこう言いました。

力にも神にも依存するな!自分が完全な存在だと思え!そうすればすべてを超越し、超人となることが可能だ!力も愛も道具に過ぎん!貴様こそが神だ!力への意志こそが人の根源たるものだ!

尤もですが、この場合人類の大半がこの境地に立たなければならないわけでして、で、現実を維持しようと思うと大抵その境地に立とうと考える余裕はありません。明日の仕事をうまく終わらせるだけで手一杯で、んなこと考える余裕があるのは超金持ちかニートだけです。

それだから愛で力を支配し、なおかつ、他者の愛を無条件に受け入れることが必要となります。

しかしこれだと、シリアルキラーや戦争を起こしたいと考えている人の考え方も当然無条件に受け入れることになります。

これらの考えを否定すれば良いのでしょうか。

そう単純にはいかないでしょう。他者の愛を否定する者にとっては他者の愛を受け入れる者の考えは受け入れがたいモノです。

そして不確定性と不完全性が存在する限り、シリアルキラーや戦争を起こそうとする者は決して居なくなりません。さりとてそれらの存在を抹消しようと考えるなら、愛は否定されてしまうことになるでしょう。

そうなるとやはり力こそ全ての世界となります。

高水準な教育を画一的に施せば争いは無くなる、そう訴える者もいますが、現実的に考えて、たとえ高水準にしたところで教師の数は足りなくなり、親も社会を維持するのが手一杯で、子の教育まで手が伸びないでしょう。

しかし可能性は出てきたように思えます。

社会運用に関しては、AIや機械によるオートメーション化による労力の削減、すべての国民に一定の基礎収入を配分するベーシックインカムなどの考え方によって、人々の労働による負担を軽減できるようになれば、力(実存、現実、物理)への依存は終焉を迎え、神(愛、概念、解釈)に注力できるようになり、また子への教育や愛情を育む機会も多く与えられるようになるでしょう。・・・・・・上手く運用できればの話ですが。

しかし、そう出来たとしても、まだ問題が解決していません。

神(愛、概念、解釈)が他の神(愛、概念、解釈)と共存できなくてはなりません。これに関しては・・・ペセルと感情の二つさえ支配下に置けば解決するでしょう。しかし、ペセルが解釈によって生まれた概念(神の要素も持ちあわせた力)であることがかなり痛いです。

つまりその神も二つに分け、真の神(愛)と偽りの神(概念、解釈)とするのが良いのかもしれません。

しかしながら真の神(愛)はまさに、まったく証明のできない、解釈による概念とも言い難い、わかりにくい存在です。

一方、偽りの神(概念、解釈)はわかりやすく、実存とも共存し得る存在です。

それ故いつも人の内面では、偽りの神(概念、解釈)が勝利を収めます。無理もありません、理にかなっているからです。

しかし、そのコトワリによって、ヒトは他人を殺します。

愛は唯一人を殺さず、赦します。しかし、よくわからない存在であるため、受け入れられることはありません。

真の神(愛)とは何なのでしょうか。

バールーフ・デ・スピノザという人物は神について一つの解答を提供しました。その名も「汎神論」です。

汎神論(はんしんろん、: pantheism)または万有神論とは、現実は神性と同一である[1]、あるいは、すべてのものはすべてを包含する内在的な神を構成しているという信条[2]。神を擬人化した人格神を認めず[3]、一切全てをと同一視する神学的・宗教的・哲学的立場[4]創造者(神的存在)と被造物世界自然)とに断絶を置かない立場であり[5]、「一にして全(ヘン・カイ・パン)」、「梵我一如(ぼんがいちにょ)」、「神即自然」などが標語として使われる[6]。全ては創造者によって創造された ―― すなわち、「世界」は「世界の外にある神」によって創造されたとするのが有神論だが、汎神論はそのような対立を否定し、全ては創造者の現れである、または、全ては創造者を内に含んでいる、と実体一元論的に見なす[6][7]。「神」のみが実在しており、「世界」は神の流出表現展開にすぎない、と見れば無世界論に通じるが、「世界」のみが実在しており、「神」は世界の総和にすぎない、と見れば無神論唯物論に通じる[8][5]
宗教哲学では汎神論は非有神論一神教の一形態と定義されている[9]。汎神論者を自称する自然神秘主義者たちは、「自然」をスピノザや他の汎神論者が自然法則等を説明する際に使っていた広い意味での「自然」とは異なる意味で使うことで自らの信仰を汎神論だと混同するようになった[10][11]。汎神論者による崇拝(礼拝、祈り)は自分より優れた人格的存在に向けられるため適切でないと考えられている[12]

wikipedia 汎神論

少しニーチェ哲学に似ている部分がありますが、決定的に違うのは、ニーチェは個人を完全としているのに対して、汎神論はすべてを総括して完全とする、としています。

しかしこれの問題点は「自由意思の存在」が否定されてしまう、即ち決定論であるということです。確かに説明は付きますが、すると「私」とは何者なのでしょうか。

ニーチェ的な個人の絶対性で語れば「私」が保証される一方、そうなると自分以外の存在を哲学的ゾンビとでも見做さなければ成立し得ない。

しかし汎神論的な絶対性で語れば、「私」という存在が保証されない。

クオリアなどの感覚に説明が付かなくなってしまう。

ではすべてが相対であるとすれば解決か?すべてが相対であるなら、自分の存在は不確かなモノであり、クオリアとは何かの説明が結局付かず、そして悪逆非道の限りを尽くしている者が傍にいたとて、それは現象に過ぎないと無視を決め込む、凡そ人間らしからぬ思考回路に行きつく。

真なる愛とは何なのか、結局人は思考する機械に過ぎないのか、しかしそれならクオリアとは一体何なのか・・・・・・。

我々が真の愛、真の神に近付くにはまだまだ遠いようです。

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