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タロットと遊びの繋がり

最近タロットにハマっています。
占い師を目指しているというわけではなく(副業的な感じでなら興味はあるけれど、コーチングや発想法を伝えるためのツールとして活用したい)、私が考えている遊びの〝動き〟に似ているなぁと思っているから。今回は私の遊び観とタロットについて書いていきたいと思います。あくまでタロットに関しては素人なので、その点ご了承ください。

①単体ではなく、連なりとして捉える

タロットと遊びの繋がりの1つ目は「単体ではなく、連なりとして捉える」という点です。タロットのカードには、それぞれ番号や名前、意味などが込められています。例えば「0」番が付与されたカードは「愚者」であり、物事の始まりや純粋無垢な心などを意味します。しかし面白いのが、タロットには「正位置」と「逆位置」があり、さらに絵柄には多様な解釈が可能になるような色彩やシンボルが散りばめられています。

1枚のカードだけでもこれだけ様々な捉え方が可能になるのですが、そのカードが多様な「スプレッド」(カードの並べ方)によって別のカードと並べられることにより、カード単体では見えてこなかった新たな解釈が生まれることになります。つまり「このカードは必ずこう!」という固定された解釈はなく、あくまで他のカードとの結びつきの中で意味が生まれてくるのです。

これは子どもたちの遊びとも重なります。子どもたちが遊びの中で使う個々の物は、それぞれ特有の性質を持っています。例えばブロックなら「プラスチック製」「様々な色がある」「組み合わせることができる」、木の棒なら「細長い」「ゴツゴツしている」「折ることができる」「こげ茶色をベースに様々な色が混ざっている」といったように。この性質があるからこそ、それぞれの物は個々に独立して存在することができ、その物として認識されます。しかし、それが他の物と結び付くことにより、それ単体では生まれなかった可能性が見えてきます。例えばブロックやチェーンリングはお椀のおもちゃと組み合わさることで食材に変わり、木の棒は『鬼滅の刃』のストーリーと出会うことで日輪刀に変わります。このように様々なものに「絶対」などなく、他の要素との関係性の中でしなやかに意味が変容していくのです。こうしたしなやかさが、タロットのカードと遊びとに共通することだなぁと感じています。

↑例えば「ペンタクルの6(左側)」と「ワンドの3(右側)」はそれぞれ独立していますが、カードを2枚並べることにより、何らかの結び付きを紡ぎ出すことができます。

②教義・教条よりも文脈

2つ目は「教義・教条よりも文脈」という点です。タロットは(詳しくないので適切かは分かりませんが)まず第一に占いを受ける相手の悩みや相談事があり、それに結び付ける形でカードの解釈を紡ぎ出していきます。あくまで大切なのは文脈であり、それを無視して「このカードとこのカードが出たから、絶対にこうだ!」という解釈を読み上げただけでは「なんかこの人、私に寄り添ってくれていないなぁ」というズレやモヤモヤが生まれてしまうことでしょう。

遊びも同様に、大切なのはあくまで文脈であると考えます。例えば目の前で、ブロックをクッキーに見立てて料理ごっこをしている子どもたちがいたとしましょう。この時に「ブロックは組み合わせるものです!使い方が違う!食べ物じゃありません!」と伝えた場合、致命的な遊びの破綻が生まれてしまうのは想像するに難しくありません。あるいは、ブロックを組み合わせる手順や最終的に出来上がるものを示すマニュアルやプログラムが存在して子どもたちの行動が縛られていた(=文脈が蔑ろにされていた)場合、もはやそれは遊びと言えるのか怪しくなってきます。近年過度にマニュアル化されたおもちゃが登場し、それに伴って遊びの世界にまで「ねばならぬ」「べき」が入り込んでいるように感じます。遊びを文脈の中で捉える感覚と、タロットのカードを文脈の中で解釈する感覚は、どこか今の世の中だからこそ忘れてはいけないように感じます。

↑学童保育に勤めていた頃、子どもたちが小さな木のおもちゃとスポンジボール、廃材を組み合わせてフルーツポンチを作っていました。子どもたちが生み出す遊びの文脈の中で、しなやかに意味や役割を変容させていく、その変容に耐え得るものこそがおもちゃなのではないかと考えています。

③理解すること・解釈することとは…?

3つ目に、これまでの2つとも重なりますが、理解すること・解釈することへの問い直しを常に要するという点です。タロットは、カードに存在する「正位置」「逆位置」や基本的な解釈、様々な色彩とシンボルが散りばめられたイラストがあります。そこに相手の悩みや相談事、それらを総合して占い手が紡ぎ出す解釈、そこから展開するやり取りが複雑に混ざり合いながら一連の流れが生まれていきます。したがって「占い」と呼ばれるこの一連の流れは特異的なものであり、絶対的・普遍的な理解や解釈などあり得ないはずです。故に、常に「いま、ここ」で蠢く文脈に心を向ける意識が求められるように思います。

これは子どもたちとの関わりでも同様に重要です。遊びの場面に限らず、子どもたちと関わる現場にいると、しばしば「この子はこういう子だ」というレッテル貼りが為されてしまうことがあります(大抵ネガティブなもの)。しかし、その子自身は「常にこうだ!」と固定化されているはずはなく、文脈や状況の中で多様な姿を見せているはずです。もちろん都度都度見立てを持つことは不可欠ですが、あくまでそれは「その時、その状況、その文脈、その関係性の中で、私が捉えたもの」という特異的なものであり、次の瞬間には新たな理解や解釈が生まれるということを意識する必要があるのではないでしょうか。理解・解釈とはプロセスであり〝動き〟である…タロットも子どもとの関わりにおいても大切なことであるように思います。

↑以前屋外でワークショップをした際、小学生のある子が自然物を組み合わせて〝伝説の生き物〟を表現しました。木の枝や木の実、葉っぱなどは個々に独立していますが、「いま、ここ」の文脈の中で1つの意味(この場合、ウサギのようなフォルム)が形成されています。しかしこれが解体され、再び個々の独立したものに還元されることで、それらはまた新たな意味生成へと開かれることになります。

まとめ

少し長々と書いてしまいましたが、以上、私のタロット観と遊び観についてまとめました。

・個々の独立したもの同士を結び付けて新たなものを生み出す
・教義化・教条化を越えて、文脈に意識を向ける感性を持つ
・プロセスや〝動き〟の中でこそ理解や解釈が生まれる

ということを忘れずに、これからも遊びについての学びや実践を深め、タロットも楽しんでいきたいです✨

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