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こどもたちが生み出す遊びの”動き”と「ピアッツァ」

しばらく間隔が空いてしまいました💦
遅くなってしまいましたが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

新年最初のブログは、遊びの混ざり合い「ピアッツァ(広場)」について書いていきたいと思います。

遊びを取り巻く様々な囚われ

「このおもちゃとこのおもちゃを混ぜて遊んだらいけないんだよ!」「折り紙は折るもの!絵を描いてはいけません!」「一度始めた遊びを抜けるのはダメ!抜けるなら、もう入らないで!」…こどもと関わる現場にいると、時々このような言葉を耳にします。このような言葉が生まれる背景には、

○個々のおもちゃや物は独立・分断されているという価値観(ブロックはブロック、積み木は積み木、アナログゲームはアナログゲームといったような捉え方)

○個々のおもちゃや物には予め決められた「遊び方」「使い方」「マニュアル」があり、そこを越えるのはルール違反であるという価値観

○遊びには「はじめ」と「おわり」が明確に存在し、途中参加・途中の変容は許されないという価値観

が根深く存在しているように思います。もっというと、このような言葉が生まれてしまう根本には、意識的であれ無意識的であれ「こどもは、大人の指示や良かれと思うものに従うべき」という専制的な価値観も見え隠れしているように思います。

以前、公園にある素材を〝化石〟に見立て、それらを集めて〝伝説の生き物〟を作るワークショップをした時の写真。遊びの文脈の中で、帽子は頭に、どんぐりは目に、葉っぱは体になり、それぞれが混ざり合って〝伝説の生き物〟になっている。もちろん、違うこどもの表現や別の遊びの中では、それぞれの物は異なる意味を持つようになる。果たして個々の物は独立・分断され、文脈から切り離された永久不変の「遊び方」「使い方」「マニュアル」を持っていると言えるのだろうか。

折り紙×ポスカを使った遊びの〝動き〟〜偶然の出来事から展開した表現〜

一方で、こどもたちの遊びを見てみると、様々なもの同士を組み合わせながら〝動き〟を生み出している姿がしばしば見られます。

例えば以前、黒い折り紙にポスカで絵を描いていた子がいました。

ふとした瞬間、この子は誤って折り紙を折り畳んでしまいます。しかし、ポスカが完全には乾き切っていなかったため、折り目を境にして絵が転写されたのでした(デカルコマニーですね)。この偶然の出来事に喜んだこの子は、再び黒い折り紙にポスカで絵を描き、今度は意図的に折り紙を折り畳みました。こうして、「逆さ富士」と「水面に映る花火」が完成。

やがて、この〝動き〟は周りにいたこどもたちへと広がっていきます。

折り畳んで絵を転写させた後で新たに色や模様を付け足して鮮やかな花を表現する子や、

転写させた後に似ている形を描き加えて「間違い探し」を作る子、

黒以外の折り紙で描いたらどんなふうになるかを探求した子など、思い思いの方法で折り紙とポスカでの遊び・表現を楽しんでいました。こうしてこどもたちは、折り紙やポスカなどの具体物のみならず、誤って折り紙を折り畳んでしまったという状況や、他のこどもたちのアイディアなどといった要素ものまでも混ぜ合わせながら、遊び・表現の〝動き〟を生み出し展開させたのです。

壁を作ってボールを跳ね返らせる遊びの〝動き〟

こどもたちは他にも「カプラの蓋を使って3つの壁を作り、ボールを投げて全ての壁に跳ね返らせる」という遊びを生み出し展開させました。

こどもたちはまず、学童保育にあるものを使って上の写真のような壁を作り、真ん中にカラフルなカプラの箱を置いて壁が倒れないように押さえる仕掛けを作りました。こうして出来上がった装置の全ての壁にボールが跳ね返ると、自然と歓声が沸き起こりました。

やがて、周りで遊んでいた子達も集まり、よりグレードアップした壁が完成!新たな装置ではボールがどのように跳ね返るのか、わいわい盛り上がりながら探求していました。

このように、何気ない日常の中で生まれるこどもたちの遊びの”動き”を見ていると、「個々のおもちゃや物は独立・分断されている」「個々のおもちゃや物には予め決められた『遊び方』『使い方』『マニュアル』があり、そこを越えるのはルール違反である」「遊びには『はじめ』と『おわり』が明確に存在し、途中参加・途中の変容は許されない」という価値観がいかに窮屈であるかを痛感させられます。そして、そんな窮屈な囚われを容易く越えて、多様な物・環境・要素などを混ぜ合わせながら新たな遊びの〝動き〟を生み出し続けているこどもたちの力に、ただただ心震わされるのです。こどもたちから学ぶべきは、むしろ我々大人たちなのかも知れません。

誰かが決めた唯一絶対の「美しいもの」を作ることが「美」なのではない。様々な異質なもの同士の間で、多様なものが混ざり合いながら生まれ続けていく〝動き〟ー。その現象こそが「美」なのではないだろうか。

混ざり合いが生まれる場としての「ピアッツァ(広場)」

では、どのようにしてこのような多様なもの同士が混ざり合い〝動き〟が生まれていくでしょうか。それを紐解く手掛かりが「ピアッツァ(広場)」という場および概念にあるように思います。

2年ほど前に訪れたレッジョ・エミリア現地研修。その際に市内を散策していると、街中の至るところに「ピアッツァ」という場があることに驚きました。

レッジョ・エミリアの人々は、この「ピアッツァ」に集い、語り合う時間を大切にしているとのこと。写真にはモザイクを入れていますが、老若男女多様な人々が集まっていました。また、園内は撮影禁止だったため写真は残っていませんが、レッジョ・エミリア市内の幼児学校にも「ピアッツァ」が設けられていました。

「ピアッツァ」で生まれる人々の対話(そもそも対話という営み自体)を考えると、おそらく誰か1人、あるいはどれか1つの意見が主導権を握るようなものでもなく、予め「プログラム」「議題」が決まっていたり暗黙のうちに「こうしなければならない」という雰囲気が漂っていたりするという質のものではない〝動き〟が生まれ続けているのではないでしょうか。それはきっと、ケネス・J・ガーゲンが「まだどちらの側にも実現されていない『現実』の未来図に加わる瞬間―対話における想像的な瞬間―」を契機とした「変化力のある対話」(「『トップダウン式』の―誰かが、高いところからルールや倫理 を私たちに与えてくれるというような―考え方」とは対極をなす考えに基づくもの)という概念で捉えているものなのではないかと考えます。

(参考:ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』ナカニシヤ出版、2004年)

レッジョ・エミリア市はファシズムに対するレジスタンス運動が盛んな地域であり、それ故に第二次世界大戦時は国内外から攻撃を受け壊滅的な状態となったとのこと。戦前から大切にされている独裁政権や専制に対する民主主義観や市民観は、「Brick by Brick」という語、すなわち、「再び戦争の惨禍を起こさない市民を育む」「未知の教育を生み出す」というコンセプトを真ん中に、ナチス軍が遺した兵器の鉄屑を売って得たレンガ(物理的なレンガというだけでなく、多様で異質な人々の感性・アイディアを持ち寄ったメタファーでもあるように感じた)を人々が積み重ねて未知の教育の場を創ったという戦後復興のエピソードにも表れている。こういった協働・共創造による”動き”としての民主主義の息吹を「ピアッツァ」という場から感じた。

この考え方は「アトリエ」という場やそこで生まれる表現、「プロジェッタツィオーネ」という営みにも通ずるのであると私は考えます。

しばしば「アトリエを作れば良い」「アートはこどもたちの発達にとって良い」「プロジェクトをやったら良い」という目に見えるものや活動の表面部分だけが「レッジョ・エミリア」として捉えられ、それに対して「国や文化が違うから日本では無理!」「『アート』ではなく○○が大事!」という批判が生まれたり、「そもそもレッジョは複雑でわからない」「結局、いろんなことが大事なんだよね」「要するに『こどもの主体性』が大事ってことでしょ?」というざっくりとした捉えられ方が為されたりすることにモヤモヤしています(加えて、そのような文脈で『ゆーだいは日本でレッジョをやりたい人』と捉えられるのが悔しいです。『日本でレッジョ・エミリアをやる』という言葉が『北海道で沖縄をやる』という言葉と同じぐらいおかしいことに気付いて欲しいし、表面的な真似事をしたいorしているわけでは決してありません!)。

そうではなく、異質で多様な要素が混ざり合い未知のものを生み出し展開していく〝動き〟としてのアート、プロジェッタツィオーネ、対話、そしてそれらを生み出す原動力となる各要素間の真ん中にある「まだどちらの側にも実現されていない『現実』の未来図」としてのアトリエ、プロジェッタツィオーネのテーマ、そしてピアッツァとして捉える視点が大切なのだろうと最近考えています。

こどもたちが異質なもの同士を混ぜ合わせながら遊びの”動き”を生み出していく場面でも、きっと真ん中に「ピアッツァ」が存在しているのではないでしょうか。そして、この遊びの”動き”が生まれ、広がっていく中に、民主主義的な場や社会について考える手掛かりがあるように思います。そう考えると、こどもたちは生まれながらにして研究者・探求者であるとともに、対話・民主主義に開かれた市民であると言えるのではないでしょうか。

この写真は、ローリス・マラグッツィ国際センターにあったオブジェクト。写真では”動き”が伝わりにくいが、自然物(木の枝)と人工物(機械)、動(モーターを原動力に回転する枝)と静(粘土?で固定された枝)、光と影という異質なもの同士が混ざり合い、背面の壁に時々刻々と移り変わる〝動き〟を投影している。これらの要素同士は、しばしば対立するものとして考えられている。けれど、その異質なもの同士の間に「ピアッツァ」(物理的な「広場」というわけではなく、中間領域として)が存在することにより、それらは個々が持つ要素を発揮しながら未知の”動き”を生み出していく。果たしてこの”動き”の中で、個々の要素は「主体性を発揮している」と捉えることができるのだろうか。あるいは「ピアッツァ」そのものに誘引されて受動的に力を発揮させられているのだろうか。それとも、そもそも「主体性」「受動性」という二項対立的な枠組みで捉えること自体ナンセンスなのだろうか。

おわりに

以上、長々とまとまりない文章になってしまいましたが、こどもたちの遊びと「ピアッツァ」についての私の考えをまとめました。

折り紙やポスカ、カプラの蓋、箱、バランスボード、スポンジボール…それぞれの〝違い〟を排除するのではなく、それを生かし合い混ぜ合わせながら調和された遊びの〝動き〟を生み出す力を持っているこどもたちを見ていると、デジタルとアナログ、ハイテクとローテク、自然物と人工物、絵本と漫画、生き物とキャラクター、外遊びと中遊びなどの表面的なエッセンスだけを取り上げてどちらか片方を奉る(どちらか片方を排除する)専制・独裁的な雰囲気や、冒頭にあげたような囚われの連鎖を越えていかなければと強く感じます。

「これらが混ぜ合わさったら、より面白いものが生まれそう!」「コラボレーションしてみよう!」―。これからも、こどもたちの遊びの”動き”に見られるような、「まだどちらの側にも実現されていない『現実』の未来図」としての「ピアッツァ」を(物理的にというだけでなく、心理的・概念的にも)創り、捉え、発信すべく実践を重ねていきたいです。最後までご覧いただきありがとうございました!

〝群衆〟のプロジェクトでレッジョ・エミリアのこどもたちが表現したもの。誰一人として同じ存在はいない。けれど、そんな人々が集うことで群衆となり、対話が生まれ、社会の”動き”が起こっていくのである。こどもたちが生み出す遊びの”動き”も、この”群衆”や民主主義的な社会と重なるように感じる。

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