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「繰り返しのデザイン」と「内側から生まれる評価軸」〜「Newポケモンスナップ」や〝遊び〟についての対話から考えたこと〜

かなり久しぶりの投稿になってしまいました💦
4月からご縁あって保育現場で働かせていただいております。これまで小学生たちとの関わりが中心だったため戸惑い悩み自分の至らなさを責める日々ですが、その中でこどもたちが生み出す素敵な呟きや遊びに感動し元気をもらっています✨

新天地で働き始めて約1ヶ月半が経ち、その中で感じ考えてきたことを振り返りたいなぁと思っていた時に、noteやTwitterで繋がらせていただいている大嶋晴くんと だっきーさんの3人で「遊び」をテーマにオンラインミーティングをするという機会をいただきました。3人が共通して探究している遊びという概念。デザイン・福祉・教育や保育という三者三様の視点が混ざり合う対話の時間がとても心地良かったです✨今回は、対話を通して感じ考えたことをまとめたいと思います📝

ポケモンスナップを通して考える遊びの構造

そもそも今回の対話を行うきっかけとなったのが、先日発売された「Newポケモンスナップ」というゲームの面白さについてTwitter上で共感し合えたことでした。私は小さな頃からポケモンが好きで、1999年にニンテンドー64版ソフトとして発売された「ポケモンスナップ」でも遊んでいたことから、懐かしい気持ちで「Newポケモンスナップ」を購入。いざ遊んでみると、その美しいグラフィックやポケモンの生き生きとした動きにすっかり魅せられてしまいました。

「繰り返しのデザイン」という視点

3人で対話する中で、「繰り返しのデザイン」というワードが出てきました。「Newポケモンスナップ」は、自然公園や砂漠、火山、ビーチなどといったコースを選択→ゴールに向かって決まった道のりを動く乗り物に乗った状態(=オープンワールドではない)で撮影を行います。コース分岐やコース自体のレベルアップに伴うポケモンの増加等はあれど、「スタートとゴールを結ぶ道のりを進む」という行為を繰り返し行うことが、このゲームの基本的な構造となります。

「決められた道のりを進むという同じ行為をしているのに、なぜ面白いのだろうか?」…3人で対話する中で、このような問いが生まれました。なぜ繰り返しを重ねるだけなのに、「Newポケモンスナップ」は面白いと感じるのだろうかー。そこには、繰り返しの中にある一回性・特異性というものが影響しているように思います。それを際立たせるために360度見渡すことができる操作性やズーム機能、各種コマンドを駆使することで様々なポケモンのアクションを引き出すことができるという仕組み、分岐ルートやコースのレベルアップに伴うポケモンの増加等があるのですが、要するに一見「同じコースを繰り返している」ように見える中に、「いま、ここ」の流れの中でしか見えない特異性・一回性の連なりが起こっており、我々はそれを楽しんでいるのだろうという考えが生まれました。

↑私が好きなポケモンの1匹、始祖鳥をモチーフにしたポケモンであるアーケオス。火山のコースに登場します。1回目に火山を訪れた時には、このような勇ましいポーズを披露してくれましたが…

↑改めて火山のコースを訪れると、同じコースを辿っているにも関わらず、このような表情をしているアーケオスの姿を捉えることができました。本家ポケモンシリーズに設定されている特性「よわき」(=体力が少なくなると能力が下がる)を反映しているような、ちょっとかわいそうで愛おしくなる姿です。

この「繰り返しのデザイン」という意識、実はこどもたちの遊びの中でしばしば生まれているように思います。例えば、お気に入りのフレーズを心待ちにして何度も同じ絵本を読んで欲しいとせがむ、流れる水をただひたすらに眺めるなどなど。以前勤務していた学童保育ではクーゲルバーンが大人気でしたが、大人からは「同じことをしている」と感じてしまうような行為の中に、こどもたちは毎回新鮮で特異的な「いま、ここ」の連なりを味わっているのだなぁと感じました。

↑繰り返しビー玉を転がす。先程の「一回」は、次の「一回」とは異なる。

「繰り返しのデザイン」という視点を意識することで、こどもたちの〝わくわく〟に一歩近付くことができるような気がします。少なくとも「またおんなじことをして!」という呆れや叱責から解放され、新たな声掛けや関わり合いのスタンスが生まれていくのではないかと思うのです。大人はつい大極的な見方をしてしまいます。自戒の念を込めてなのですが、こどもたちよりも様々なことを経験してきたという自負が邪魔をしているのか、「わかっている」と思い込んでいる狭い枠組みの中で「いま、ここ」の連なりをまとめてパッケージ化して捉えてしまう傾向があるように思います。そうではなく、その一回性・特異性に目を見張り心動かされるという感性を持つことで、こどもたちとの関わり合いがより豊かに彩られていくのではないでしょうか。そんなことを、「Newポケモンスナップ」の体験や3人での対話から考えました。

↑遠くに見えている木の集合体を「山」と名付けた瞬間、一本一本の木の一回性や特異性が捨象されてしまう。全体を捉える眼ももちろん大切だけれど、それと同時に一本一本の木そのものの面白さ、異質なもの同士が組み合わさって「○○山」という特異的な構造を生み出しているという豊かさ・尊さに気付く感性も大切なのだろうと思う。

「外側にある評価軸」と「内側から生まれる評価軸」

次に話題になったのが、「他者の評価軸」と「自己の評価軸」ということでした。ここでは、具体的な「他者」を越えた枠組みからなされるという意味で「(自己や関係性の)外側にある評価軸」と、それに対比する形で「(自己や関係性の)内側から生まれる評価軸」という言葉に置き換えて考えてみます。

「Newポケモンスナップ」では、コースでの撮影終了後、毎回博士に写真を提出して採点してもらうことになります。博士の採点基準は、被写体であるポケモンが中央にいる、こちらに目線を向けていると点数が高くなり、さらに予め指定されたポーズをとっているとさらに加点されます。「博士」と言っておきながらこんなことを言うのも変ですが、要するにゲーム内に予めプログラミングされた基準=プレイヤーの意思とは関係ない外側に設定された評価軸のもとで写真が評価されるというシステムが、このゲーム内には存在するのです。

一方で、撮影をしているうちに、博士の評価が必ずしも高くない写真に愛着が湧いてくることがあります。「点数は低いけれど、自分はこの写真が好きだ!」「なんでこんなに良い写真なのに、博士は低い評価を付けるの?」という感情が湧いてくるのです。これは、「外側にある評価軸」を必ずしも参照しないことから、「(自己や関係性の)内側から生まれる評価軸」と言えそうです。

↑再び登場のアーケオス。この写真はゲーム内で加工をしたものですが、被写体であるアーケオスが後ろ姿であり画面中央にいないことから博士の評価は低いです。けれど、この後ろ姿になんとも言えない哀愁を感じ、「仕事でボロボロになった時の自分って、こんな感じだなぁ〜」という謎の共感?を覚え、お気に入りの一枚となっています。

このような「外側にある評価軸」と「内側から生まれる評価軸」とが衝突する場面が、「Newポケモンスナップ」には往々にしてあるのです。

この双方の評価軸のせめぎ合いを現実世界に置き換えて考えることは、そう難しくはありません。むしろ現実世界の中では、より生々しく感じているものではないでしょうか。例えばこどもを取り巻く社会では、「○歳までに△△くらいはできるようになって欲しい」といったような右肩上がりの階段状の発達観や、「未熟な存在としてのこどもが能力を獲得していく」という教育観が根深く存在しています。点数化された「テスト」や「成績」、それらに象徴されるような(狭義の)「学力」という評価軸が市民権を得ており、いわゆる就学前段階にあるこどもたちにまでも影響を及ぼしているように感じます。大人の世界でも、判然としたもの・暗黙のもの問わず、こうした評価軸を感じる場面が多々あります。とりわけ人間を商業・工業主義的な視座から捉えるような環境においては、自己や関係性を排除して画一的な評価軸を設定し、それに基づいて個人の「価値」を捉えようとする雰囲気が根深く存在するように感じます。

一方で、生きている中では、「外側にある評価軸」を越えた内側から湧き起こってくるようなものと出会う場面が度々生じてきます。それは誰かの言葉や価値観を契機として起こる「周りはこう言っているけれど、自分はこう感じた」という思いだったり、何らかの体験を通して生まれる「もはや他者の存在など意識することなく、心が震える」というものだったり…。そのようなものが発露するのは、大抵「能動的」とも「受動的」とも言えない、状況から引き出されていくような、いわば「中動的」なものであるような気がしています。

ある日の園庭で生まれた、年中さんとチューリップとの出会いの物語を例に考えていきましょう。

先日、園庭に咲くチューリップを眺めて素敵な発見をした子がいました。この子は「お母さんが大好きな黄色なんだ✨」と呟き、キラキラした瞳でチューリップを眺めていました。花びらは黄色。そして、その中にある雌しべの色も黄色であることを、彼は発見しました。「チューリップは、最初に雌しべだけの状態から、次第に花びらがにょきにょきと生えてくる」という仮説(自然の摂理とは異なるけれど、仮説を立てたことそのものが素敵で感激しました!)を立てた彼。ふと目をやると、そこには花びらが枯れ落ちて雌しべだけになったチューリップが数本ありました。黄色い雌しべだけのチューリップと、黄緑色の雌しべだけのチューリップ…。すると彼は、黄緑色の雌しべだけのチューリップを指差して、「このチューリップは、黄緑色の花が咲くんだよ!だって、(この黄色いチューリップの雌しべの色は)黄色だから!」という新たな仮説を立てたのです。

上記の事例を「外側にある評価軸」(=この場合、多くの人が「事実」として認識している価値観)から考えると、この子の呟きは「不正解」であり、「それは違うよ!チューリップはね、先に花が咲いてから、やがて花びらが落ちちゃうんだよ」と教えることが「正しい」指導と認識されるかも知れません。もっと言うと、黄色いチューリップを見て呟いた「このチューリップ、ぼくがやった(育てた)んだよ」という呟きは「事実」ではないため、「このチューリップは先生が育てたんだよ。嘘をついてはいけません!」という叱責の対象になりかねません。

もちろんこうしたことを伝えることも大切です。けれど一方で、この子が感じ考え呟いたことには大切な意味があり、そこには彼自身が「内側から生まれる評価軸」に基づいて心を震わせながら築いた大切なものが詰まっているように私は思うのです。「ぼくがやった(育てた)」と思うほど黄色いチューリップを愛おしく感じたこと、目の前にあるものを結びつけて仮説を立てたこと、そこから想像を巡らせて新たな説を導き出したこと…これって素敵なことだなぁ、こういう瞬間って大切だなぁと胸が熱くなります。彼の仮説や探究、新しい説は、1人でに生まれたものではありません。数本のチューリップ、過去の経験、近くにいた私や友達の存在などといったような、物・環境・状況・人…の影響を受けながら発露していったものだと言えるでしょう。

最近「(こどもの)主体性」という言葉が叫ばれ、その度にモヤモヤを感じています。理由としては、「こども主体=大人は受け身」という認識のもと、過度にこども以外の存在が無色透明なもの・無色透明でなければならないものとして位置付けられてしまうからです。そして、大人をはじめとしたこども以外の存在は無色透明になどなれないという不自然さ・矛盾からなのか、「『こども主体』を謳う→(薄い定義の)『自由』が大切だという論調が生まれる→『こどもがワガママになる!』という批判が起こる→(薄い定義の)『自由には責任が伴う』論が生まれる→『自由にしたいなら、これを守ろうね』という枠組みをオトナが先回りして設定し、それが固定化・教条化してしまう(要するに、都度対話し変更可能であるという余地がないものとして位置付けられてしまう)」という「お決まりのパターン」に陥る場面に多々遭遇してきたからです。

結局「『内側から生まれる評価軸』を大切にしよう」と謳っておきながら、こどもは未熟な存在であり「主体的」にしては危なっかしいという価値観があまりに根深いため、最終的には画一的・教条的な「外側にある評価軸」=こどもたち自身はもちろん、大人自身も自分たちが決めたはずの「ルール」を問い直す余地を見出せないアンコントローラブルなものが誕生してしまう…。この矛盾を越えていくためには、まずもって根底的な発達観・人間観をこそ問い直す必要があるのだろうと、レッジョ・エミリア現地研修で感じました。

「内側から生まれる評価軸」を持ち寄り、共構築・共創造する

やや話が脱線してしまいましたが、「(自己や関係性の)外側にある評価軸」=予め設定され、画一的・普遍的な評価軸と、「(自己や関係性の)内側から生まれる評価軸」とのせめぎあいは、「Newポケモンスナップ」の世界のみならず現実世界の中でも往々にして起こるものだと言えそうです。また、今の社会においては「外側にある評価軸」ばかりが取り沙汰され、「内側から生まれる評価軸」は科学的根拠や客観性に欠けるもの、取るに足らないものとして見做されてしまいがちです。繰り返し強調しますがどちらも大切だと思います。けれど、あまりに「内側から生まれる評価軸」がけちょんけちょんに叩きのめされてしまっている現状をなんとかしたいというのが個人的な思いです。

では、「(自己や関係性の)内側から生まれる評価軸」にフォーカスすることで、いったい何が変わるのでしょうか。その手掛かりとなる呟きを、晴くんとだっきーさんそれぞれがしていました。

学生の頃、自己紹介で「どうぶつの森」が好きなのだと話した。すると、それまで親しくはなかったコワモテの子が『お前、「どうぶつの森」やってるんだって?』と話しかけてくれ、親しくなった。当時は直接オンラインで繋がってはおらず分断されたゲームの世界。けれど、それぞれが夢中になったゲームの世界・ファンタジーの世界の体験を持ち寄ることで、現実世界の人間関係とは違ったところで新たな関係性を紡ぐことができるのかも知れない。
障がいのあるお子さんとの関わり。その子は「あ・い・う・え」は話せるけれど、「お」の発音ができない。けれど、お互いにリズムをつけて「あ、い、い、う、え〜」と言い合い、抑揚や声のトーン、間の取り方などを楽しむことができた。その積み重ねの中で、少しずつ「ぎゃ〜!」と叫ぶことができるようになった。このような関わり合いは既存のテクニックを用いたのではなく、肌感覚の中から生まれてきたもの。

上記の文は厳密な発言ではなく私が表現を変えた部分がありますが、内容としては概ねこのような主旨でした。2つの事例は「外側にある評価軸」によって成り立っているのではなく、自己や関係性の内側に新たな「いま、ここ」が共構築されていくプロセスが描かれているという点で共通しています。また、関係性の内側、すなわち「間主観的なスペース」に目を向けることにより、それまでの現実世界におけるお互いの評価軸(「ヤンキーみたいな同級生-初めて会った同級生」「発話に障がいのある子-はじめて会った援助者」)を一度フラットにし、そこから新たな評価軸を共創造しているという点も重なっています。

このような事例からは、画一的・教条的な評価軸に頼らずとも、未知や不確かさの中で遊びや関係性を共構築していくことができるという人間の可能性を感じることができます。少し壮大な話にはなりますが、こうした「(自己や関係性の)内側から生まれる評価軸」を共構築・共創造できるという可能性にフォーカスすることにより、独裁主義的な社会を越えて、民主的で対話的な社会づくりを現実のものとする第一歩を踏み出すことに繋がるような、そんな気がしています。画一的・教条化された評価軸において求められるものは同質性。誰か1人の声やどれか1つの価値観に権威や特権階級を持たせるのではなく、異質性を前提としながら個々の違いを持ち寄り、みんな違う=フラットな関係性の中で対話を通して新たなものを共に創っていく民主的な社会は、きっと1人ひとりが今よりもっと生き生きとした人生を紡ぐことができるのだろうなぁ…。

今の日本社会はあまり好きではないけれど、もともと日本に根差していた「八百万の神」や「もののあはれ」といった感性は大切だなぁと感じている。詳しくないので的外れなことを言っているかも知れないけれど、唯一絶対の神を想定するのではなく、何気ない日常や自然の中にふと立ち現れるセンス・オブ・ワンダー的な感性を忘れてはならない気がする。また、前の人が詠んだ歌を含んで越えていく歌を詠む「連歌」という文化も好き。写真は「ローリーズ・ストーリーキューブス」だけれど、こうして未知や不確かさの中で、それぞれの感性を持ち寄りながら共構築・共創造していくプロセスを楽しむというマインドは、「個」の能力発達的な価値観がとても根深い現代の困難さを緩やかに変えていく上で重要である気がする。

まとめ

長々と書いてしまいましたが、「Newポケモンスナップ」を契機として生まれた3人の対話からインスパイアされたことをまとめてみました📝 それぞれが「Newポケモンスナップ」を体験したことで生まれた感想や、知っている情報をもとに考えたことを持ち寄り、「外側にある評価軸」を越えて共構築・共創造していった「内側から生まれる評価軸」。なんだかんだで約3時間にわたるオンラインミーティングになりましたが、終始極めて民主的な雰囲気が漂っていました。興味深かったのが、「遊び」という共通項から出発したはずが、いつの間にか社会観や人間観にまで話が及んだということ。「遊びそのものより、まずは〝遊び外〟を考えることが必要かも」という素敵な言葉が晴くんから生まれましたが、結局のところ現在根深い「ベビーサークル playpens」的な価値観を越えて「遊び場 playground」的な価値観が大切にされるような社会を目指していくようなマインドやムーブメントをじわじわと起こしていかないといけないなぁと感じています。

https://ameblo.jp/yokomeyagi19/entry-12674663373.html

今回こうしてnoteにまとめ、発信するのも、こうした思いを込めてのこと。まだまだ「繰り返しのデザイン」的思考や「内側から生まれる評価軸」に光が当たりにくい世の中だからこそ、積極的にそれらを捉え、研究し、発信していきたいです。最後までご覧いただきありがとうございました😊


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