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2121年Futures In-Sight展へ行ってきました

先日、現在21_21 DESIGN SIGHTで行われている「2121年Futures In-Sight」展へ行ってきました。

地球誕生から現在までを1年間(365日)に表すと、ほんのわずかな時間しか生きていない人類。そう考えると100年というスパンは、地球規模ではあっという間なのかも知れません。けれど、その中で良くも悪くも人類が様々な影響を地球に与えてしまったのだなぁと痛感しました。

人類が誕生したのは12月31日。
14時24分にようやく誕生しました。
まもなく1年が終わる23時59分に様々な出来事が凝縮されています。近現代は、23時59分59秒に起こった出来事に過ぎません。

2121年。私はおそらく生きていないとは思いますが、実現するかどうか・存在しているかどうかに関わらず「未来」について、そして「未来」を創造する人類について、今回の展示から考えることができました。こちらのブログでは、この展示から私が感じ考えたことをまとめていきたいと思います。

未来を思い描いた先人たち

展示の中で面白いなぁと思ったのが、「百年後の日本はどうなるのか」という問いに対して当時の著名人たちが回答し漫画が添えられたパネルと、SFについて紹介されたパネルでした。

これらの展示からは、「未来」が持つ「未だ来ていないからこそ思い描くことができる」という性質(「未来」の「未知」性)と、そんな「未来」に対して人類が持つ「未だ来ていないのに思い描くことができる」という能力の両方を感じることができました。

未だ来ていないからこそ思い描くことができる

当然といえば当然ですが、未来は未だ来ていないため、私たちは無限の可能性を描くことができます。しかし実際は(なんでも罷り通るという意味での)「無限」ではなく、(SFのように「今の技術の延長で実現可能」かという具体的な部分に加え、判断を下す際の倫理観や価値基準なども含め)過去や現在に根差した「未来」を思い描くことになります。インプロで大切にされているという「Yes, and…」のように、先に挙げられた事象を受け止め、それに連なる形で我々は次の一手を選び取っているのです。

しかし、だからといって次の一手の「正解」はカーナビのように案内されるわけではありません。また、それ故に(今回の展示が「Futures」と複数形の形であるように)「未来」をどのように思い描くかは個々人によって変わってきます。つまり「未だ来ていない」が故に、誰一人として「未来」に対する唯一絶対の「正解」など持ち得ることはできないのです。

このような性質を持つ「未来」。だからこそ、平等性・対等性、そこから拓かれる協働・共創造の可能性を持っていることを、上記のメッセージは示唆しているように感じました。

「わたし」という感覚は、他からの独立・分断や、他と比べた際の所有感覚を際立たせるように思います。あなたとは違う「わたし」、このような能力を持っている「わたし」、なんらかの知識を得た「わたし」など…。企業や国も同様に、他から独立・分断された集合体の固有性を示すために用いられる概念であると言えるでしょう。

こうした「わたし」的な独立・分断を越えた協働的・共創造的な世界を考える上で「未来」が持つ「未だ来ていない」という性質は重要であり、こうした「未知」性に焦点を当てることによって、誰も「正解」を持ち合わせてはいない=序列や分断を越えた接続・融合に満ちた動きが連続していくような動的な世界へとシフトするきっかけが生まれていきそうです。「未来」が持つ「未知」性は「共生社会」を創造する上でのキーとなるのだなぁと思いました。

未だ来ていないのに思い描くことができる

しかしながら、我々が生きている現代社会はあまりにも「正解」のように見えるもの・見せているものに溢れているように感じます。これはおそらく未知性や不確かさへの恐れ故であり、それらを排除すべく、数値化、見える化、エビデンスなどによる武装が行われているのだろうと思っています。詳しくは、以前私が書いたこちらのブログをご覧ください。

「未知」や「不確かさ」を排除すべく行われた武装により、「未知」ではなく「知」に、「不確かさ」ではなく「確かさ」に価値を見出すような価値観が生まれてしまったであろう今日の世の中。けれど、我々の祖先が生きてきた、そして今も我々が生き続けている世界は未知で不確かなものなのだということを、展示を通して改めて感じました。

そして、このような不確かさに満ちた世界の中で、人類は果敢にも「未知なる道」を求めてきたのだという「オリジン(起源)」を再認識することができました。

仮に生命活動の維持という意味での安定性を求めるのであれば、人類はわざわざグレートジャーニーなどせずに、もともと住んでいた場所に永住し、そこで採取や農作をしていれば良かったでしょう。必要最低限のコミュニティの中で、必要最低限の食べ物を自給自足し、必要最低限の活動をするというミニマムな生活。わざわざ生命活動を脅かすようなリスクを冒してまで変化を求める必要などなかったはずです。現在では「発明」「発見」と見做されている種々の事象でさえ、生命活動の維持だけを考えれば限りなく高リスクなことです。襲ってくる恐ろしい動物をわざわざ狩る必要もないし、毒がありそうなものを徹底的に避けて、光合成など必要最小限のエネルギーで生命活動が維持できる能力を進化の過程で身に付ければよかったでしょう。火や電気だって不要だったかも知れません。道具だって怪我のもと。極論、歩くことや動くことだってリスク以外の何物でもないから避けるべきです。

しかし、人類はこのような意味での「安定」を求めるような進化の過程を辿っては来ず、その結果、良くも悪くも様々な影響を地球に、そして人類を含めた多様な生命体たちに与えながら今日まで生きてきたわけなのです。

壮大な話になってしまいましたが、このように人類は「未知」「不確かさ」を求める性質を持っており、また本来であれば「恐れ FEAR」を越えて「未来」を切り拓く能力を持っているはずであると言えるでしょう。一見すると矛盾するようですが、不確かさに満ちた中で変化をし続けることこそが安定であり自然な状態であると言えるかも知れません。

このような視点から現代の世の中を見てみると、「不確実性」に対して「恐れ FEAR」を抱き、なんとかその恐怖心を収め排除しようと固定化・普遍化された「正解」「数値」「エビデンス」「スタンダード」などによる武装をしているように思えます。「正解」がない中で変化し続けることが安定であるなら、今の世の中はハリボテの「安定」を求めようとするが故に不安定に陥っているようにさえ感じます。しかもそのような武装を始めたのは冒頭の365日の時間軸で言えばコンマ数秒という本当に短いスパンの出来事にも関わらず、あっという間にこの価値観が世の中に浸透してしまったことは、よくよく考えれば恐ろしいことです。今日の社会に対する息苦しさや閉塞感を感じるのは、変化を求める人類からすれば至極当然であり、ストレスを感じるのは本能的に正常な反応なのかも知れません。

現代の学校教育的なシステムや価値観(学校そのものというよりも、学校化されたシステムや価値観が蔓延している社会)の中で、私たちはなんらかの「正解」が存在するということを意識的・無意識的に学んできました。「正解」を前提としたカリキュラムやテキストに則った「勉強」の中で、困ったことがあればテキストもしくは〝ググる〟ことを通して「正解」にアクセスし、その「正解」の獲得度合いをテストによって評価される…この繰り返しに曝される中では、「不確かさの中で未来を共創造する」という発想は生まれにくいことでしょう。

もちろん過去の出来事などが「ちがう方の未来」への渇望を満たし「未来を創り出したい」という願いに結び付くのであれば、それは創造的な「未来」を生み出す原動力となるはずです。しかし、それが権威化され、「未知」や「不確かさ」と対置され、「知」「確かさ」の極のみ光が当てられ、あたかも唯一絶対の「正解」のように扱われてしまったのでは、そこからは過去の再生産・〝コピペ〟的な「過去'」しか生まれ得ません。

このように考えると、「未知なる道を求める」という我々の「オリジン(起源)」を前提とした教育観・発達観・世界観が必要になるように感じます。飽くなき探究心故に次々と課題が押し寄せるある種のディストピア的な世界を(ホルツマンが「Unknowability」と述べたように)楽しみながら、「みっともないくらい未来に向かってあがき、時に挑み時に敗れ時に焦り時に希望に胸いっぱいになる」ような協働・共創造の場としての学校や保育園、コミュニティ、社会、世界…。このようなことを本気で考えていくことが重要なのだろうと感じました。このようなイメージが生まれたのもまた、私自身が「未知なる道を求める」というオリジンを持つ人類であるからなのかも知れません。

まとめ〜「未来」を真ん中に多声的な混ざり合う世界へ〜

今回の展示を通して、「未来」の「未知性」、そしてそのような不確かさに満ちた「未来」に向かい、道を切り拓くことができる人類の可能性を感じることができました。会場には「Future Compass」という作品が展示されており、来場者もQRコードを読み込むことで自分が関心を抱く「未来」について考える手掛かりとなる作品にアクセスできるようになっていました。このコンパスのように、「未来」を真ん中に多様なアイディアが生まれ、それらがまた混ざり合い紡ぎ合い…というリゾーム的・動的な世界になれば良いなぁと考えました。

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