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「遊びとは何か?」を考える~「実存的遊び」・「遊び場」という概念から~

今年も夏がやってきました。働いている学童保育でも学校の夏休み期間に伴い、朝から夜までの一日運営がスタート。約3ヶ月間の休校に伴い例年よりも短い夏休みになってしまいましたが、長い時間こどもたちと関わることができる貴重な時間です。心身のエネルギーを使いますが、普段以上にこどもたちの遊びやこどもたちを取り巻く環境について考える日々。そこで今回のブログでは、学生の頃から考えてきた「そもそも遊びとは?」ということについて、そしてこどもの遊びを取り巻く環境についてまとめていきたいと思います。

目に見える行為だけを見て「遊んでいる」と捉えて良いのだろうか?

私が「そもそも遊びとは?」ということについて考えるようになったきっかけの1つに、学生時代に行なっていたアルバイトでの経験があります。私は学生の頃、百貨店のおもちゃ売り場でアルバイトをしました。毎週土曜日・日曜日にはコマ状のおもちゃやカードゲームのイベント・大会などを開催。公式大会だけでなく、参加してくれたこどもたちや保護者の方々と一緒に大会で負けてしまった子も楽しめるような「裏大会」を開催したり、保護者の方がご自身のお子さんではないこどもたちにレクチャーしながら一緒に遊べるようなイベントを企画したり…おもちゃ売り場での6年間(学部生~修士課程まで続けたため)は、私の原点とも言えるほど充実した時間になりました。

そのようなアルバイトの経験の中で、「遊び」とは何なのだろうかとモヤモヤしてしまうような体験がありました。

【エピソード①】女の子はお祖母さんと一緒に「遊んでいた」のでしょうか?
磁気を帯びたカードに乗ると磁石の仕組みで球体状からロボット状に変形するおもちゃの体験会(自由に遊ぶことができるコーナーを設置し、私が接客をしていた)を行なった時のこと。未就学のお子さんと思われる女の子が目を輝かせてやってきて、球体状のおもちゃをひたすら触ったり、転がしたりしては時折歓声をあげていた。そこへその子のお祖母さんと思しき方が慌てた表情を浮かべてやって来て、「あぁ、ダメダメ!」女の子を制止。「『遊び方』が違うでしょ?お兄さん、教えて!…いい?おばあちゃんがやるから見ててね!ほら、パカって開いたでしょ!」と懸命に声掛けをしては「遊び方」を教えようとしていた。しかし、お祖母さんの熱意とは裏腹に、わずかばかり遊んだ後、女の子は先ほどまでの目の輝きを失くしていき、しまいには体験会の場を去ってしまった。お祖母さんが行なっていた「遊び方」は確かに本来の「マニュアル」に沿ったものであり、決して悪気があったわけではないだろう。けれど、女の子の遊びを破綻させてしまうほどのミスマッチが生じてしまっていたのは明らかである。果たしてこの女の子はお祖母さんと一緒に「遊んでいた」と言えるのだろうか。
【エピソード②】男の子は他のこどもと「遊んでいた」のでしょうか?お父さんは見守っていたのでしょうか?
 お金を入れると手に入るカードを筐体にスキャンさせて対戦するゲームの大会を行なった時のこと。この大会では優勝すると珍しいカードが手に入ることから、参加するこどもたちも燃えている様子。会場は熱気に包まれていた。ほとんどのこどもたちが楽しそうに大会に参加している中、どこか浮かない表情をしている男の子が気になった。彼の様子を見ていると、対戦中にボタンを入力する前には必ず背後を振り返っている。彼の視線の先には、眉間にしわを寄せたような表情で首を縦や横に振る、彼のお父さんと思しき男性の姿が。つまり、彼はお父さんの指示に従ってボタン入力を行なっていたのだ。他のおもちゃの大会でも、対戦中に時折後ろを振り返る子はいたが、大抵は「今の見てた?」「オレ、頑張るよ!」「私を応援してくれているかな?…よかった!ママがいてくれる!」という言葉が伝わってくるような振り返り方・視線の送り方だった。けれど、このゲームの大会に参加した男の子とお父さんとの間には、そのような微笑ましい関係性は一切伝わってこなかった。表面的な行為だけを見れば、確かに彼はゲーム・遊びをしている。しかし、果たしてこの男の子は「遊んでいた」と言えるのだろうか。

以上のような場面に直面したことで、私は目に見える行為や扱っているものだけで「遊び」を考えることに対する違和感を抱くようになりました。

もしかしたら「おもちゃ」を使った遊びや「ゲーム」そのものに問題があり、「だから最近のおもちゃやゲームはいけないのだ」という捉え方をすることもできるのかも知れません。こどもを消費者として捉え、アニメやマンガと連動して矢継ぎ早に新商品が発売されていくというサイクルの中で、過度にマニュアル化され遊び方が膨らまぬまま新しいものに取って代わられるような質のおもちゃが蔓延することに、私も危機感を抱いています。では、遊びの中で扱われるものを自然物に変え、「ゲーム」ではなく「外遊び」を行なえば万事かというと、問題はそんなに短絡的なものではないように思います。例えば「あぁ、ダメダメ!光る泥団子はこうやって作るんだよ!いい?見ててね!」と過度な干渉をしてしまったり、木登りをするこどもの後ろで鋭い視線を送ってこどもの挑戦をコントロールしてしまったりするような関わりに陥ってしまったら、結果的にそれは遊びとは言えないのではないでしょうか。

「遊び」を定義する3つの視点~ジャック・アンリオの理論から~

このようなモヤモヤに考えると、やはり目に見える行為や構造を越えて遊びを捉えていく必要性を感じます。「でも、どんな理論を用いたら良いのだろう…」と悩んでいた院生時代。偶然古本屋で出会ったのが、フランスの哲学者であるジャック・アンリオの『遊び―遊ぶ主体の現象学へ』(2000年、白水社)という文献でした。

アンリオは、「全ての行為は遊びに由来すると言いつつも、ある特定の行為を取り上げて『遊び』と定義している矛盾が生じている」として文化人類学者であるホイジンガの遊び観を、「遊びを分析の対象として、その根源にある『何ものか』を特定する手段となってしまっている」(例えば「こういう遊びをした場合、このような精神状態である」と解釈する対象として遊びを位置づけている)として精神分析学の権威であるフロイドの遊び観をそれぞれ批判しています。両者ともに「あるひとつの方法論的な態度を採用して、その結果どこにも遊びを発見することができなくなってしま」っている点に課題があるとアンリオは捉えたのでした。そして、これらの遊び観を越えるべく、アンリオは遊びを3つの段階に識別しました。ここではアンリオの理論に基づき、遊びを次の図のように「実存的遊び」「行為的遊び」「構造的遊び」という形で分類したいと思います。

遊びの構造

この3つの中で、一般的に「遊び」として認知されているものは「構造的遊び」です。これは、例えば「鬼ごっこ」や「かくれんぼ」「ドッジボール」「ドランプ遊び」「じゃんけん」など、そのコミュニティーの中で「名のある遊び」として理解されているもの、すなわち「何をするか」に関わる概念です。次にわかりやすいのは「行為的遊び」です。これは、例えば「走る」「積み上げる」「並べる」「動かす」「破る」などのような目に見える「おこない」に関するものを指します。ただし、その行為が「遊び」として認識されるかどうかは、その人を取り巻くコミュニティーの「構造的遊び」が大きく影響します。例えば、ある場面では紙をびりびり破ることは「遊び」として受け入れられますが、それをお店などの公共の場でやったら迷惑な行為として受け止められてしまうことでしょう。また、同じ親子の関わりでも、2人だけの状況でこどもがびりびり新聞紙を破ることは「遊び」として許容することができても、掃除をしたばかりだったり、お客様がいたりする状況では「どうして今それをするの!やめてよ!」と感じ、制止するかも知れません。

このように「構造的遊び」と「行為的遊び」との連関性は比較的捉えることが容易であるため、しばしば「遊び」を捉える上で議論にあがりやすいようにも思います。しかし一方で、この「行為的遊び」「構造的遊び」という2つの次元だけで遊びを考えてしまった場合、エピソード①、②で感じたモヤモヤの正体を捉えることができません。なぜなら、「構造的遊び」のレベルで見れば、それぞれ「球体状のおもちゃでの遊び」「対戦型のゲームでの遊び」として捉えることができ、「行為的遊び」のレベルにおいても「おもちゃを転がしている」「カードをスキャンし、ボタンを押して画面上のヒーローを操作している」と理解することができてしまうからです。ここで重要になるのが「実存的遊び」という視点です。

「実存的遊び」とは何か~遊びとは「わたし〔Je〕」が生み出すものである~

アンリオは、人間存在を内面的な存在基盤である《わたし〔Je〕》と、客観的に観察可能な次元に表れる《自分〔Moi〕》とに分けて捉えました。そして、《わたし〔Je〕》が数ある選択肢の中から次の瞬間に在りたい《自分〔Moi〕》を想像し、判断し、意志し、観察する営みを「主体が主体の機能を発揮しうる」ような「意識に固有の能力」であると考えました。

MoiとJe

「実存的遊び」を図示すると、上図のようになります。ハート型の内側が人間の内面を示しており、数ある次の瞬間になりたい《自分〔Moi〕》を選択し実際に目に見える行為として投企しようとする存在基盤である《わたし〔Je〕》を黄色い顔で表しました。アンリオは人間が「遊ぶ」ということについて、次のように述べています。

…遊ぶ〔jouer〕という動詞には二種類の意味作用を区別してやったほうがいい。一方は、自己の実存中にときどき遊ぶ人間の、遊ぶこと(すなわち遊戯的《プラクシス》)である。もう一方は、自己意識を構成する不可欠のものとしての、主体内の遊戯であり、だから、「実存的」と呼んでいい遊びである。それは、遊戯的《プラクシス》そのものをなりたたせるだけではなく、想像し、意志しうる自覚的実存のあらゆる形式をなりたたせるものである。《わたし》という遊ぶ存在は、遊ぶことに先立ち、それの基盤となる。
(ジャック・アンリオ原著/佐藤信夫訳『遊び―遊ぶ主体の現象学へ』1969年/2000年、P.151~P.155)

ここで「自己の実存中にときどき遊ぶ人間の、遊ぶこと(すなわち遊戯的《プラクシス》)」と述べられているものが「行為的遊び」、そして「自己意識を構成する不可欠のものとしての、主体内の遊戯」と述べられているものが「実存的遊び」として私が定義したものにあたります。「《わたし》という遊ぶ存在は、遊ぶことに先立ち、それの基盤となる」とアンリオは述べていますが、遊びを考える上で、まずもって「実存的遊び」、そしてそれを生み出す《わたし〔Je〕》という実存基盤を想定することが何より重要であると言えるでしょう。

このように考えると、エピソード①、②の事例を「遊び」として捉えることができなかった理由として、「こどもたちに『実存的遊び』が保障されているとはとても言い難い状況だったから」という1つの解が導き出されるのではないでしょうか。双方の事例は、「正しい」遊び方=構造や「正しい」操作方法=行為を求める重圧が繰り返し与えられる中で、こどもたちの内面における「実存的遊び」が極限まで狭められてしまったという点で共通しています。その結果、こどもたちは外部からの重圧により表面的には「遊びのように見える行為」をしつつ、実際は《わたし〔Je〕》が蔑ろにされ自らの意思で《自分〔Moi〕》を思い描くことも許されていないという乖離状態にあったのではないかと考えます。

スライド76

レッジョ・エミリア研修から2年…

「構造的遊び」の次元に対するアプローチ~遊び場(playgrounds)とベビーサークル(playpens)~

ここまで、遊び手の視点を中心とした遊びのレベルについて考え、「実存的遊び」および、それを生み出す《わたし〔Je〕》という実存基盤の重要性について捉えてきました。ここからは「実存的遊び」を展開することができる構造・環境の質について考えていきたいと思います。

ここで参考にしたいのは、デジタルな環境における若者の肯定的・建設的な育ちを考察したMarina Umaschi Bersが『Designing Digital Experiences for Positive Youth Development: From Playpen to Playground』(2012年、Oxford University Press)の中で示している「遊び場(playground)」「ベビーサークル(playpens)」という概念です。この2つの概念をまとめると、次のようになります。

◯遊び場(playgrounds)…主に物理的環境の探求、運動技能の発達、社会的な相互交流が生まれる場としてデザインされている。ある程度の危険(怪我やトラブルなど)もあるが、それらが全くないと発達も生まれない。達成感・創造性・自己肯定感が育まれていく。
◯ベビーサークル(playpens)…その中で遊ぶ限りはリスクがないが、そこには自律的な探求の余地がない。こどもは父母がベビーサークルの中で遊ぶために選んだ、ごく限られたおもちゃでしか遊ぶことができない。そこには想像的な遊びのための余地はない。ベビーサークルは、自由な実験・試みの欠如、探求のための自律性の欠如、創造的な機会の欠如、リスクの欠如のメタファーとして概念化。

「ベビーサークル」と対極にある概念であることから、「遊び場」という概念には、「自由な実験・試み」「探求のための自律性」「創造的な機会」「リスク」を引き受けること―これらは「実存的遊び」として考えたものと重なります―という要素が含まれていると言えるでしょう。また、これらの概念はメタファーであり、実際の遊び場とベビーサークルを比較して「屋外の公園のほうが、室内遊びより優れている」と捉えるべきではないことは、Marina Umaschi Bersがウェブ上の環境を考察する上でこれらの概念を用いたことからも明らかです。

このように「遊び場」と「ベビーサークル」という概念を用いてその質に着目することにより、「屋外vs屋内」「おもちゃ・ゲームvs自然物」「オンラインvsオフライン」という表面的な構造や行為のレベルを越えて、「実存的遊び」が生まれゆく環境や場について考えることができるのではないかと思います。

遊び環境

私が書いているもう1つのブログ「ゆーだいのアニメーターへの道」では、これらを実際の場にとどまらず、内面的な「余地(space)」にも通底するものであるという観点からこの2つの概念を考察しましたので、こちらもご覧いただけたら嬉しいです。

まとめ~《わたし〔Je〕》が保障される遊び場をこどもたちに~

今回も長く複雑なブログになってしまいましたが、「そもそも遊びとは?」というモヤモヤから「実存的遊び」という視点の必要性について考え、そのような遊びが生まれる場や環境の質として「遊び場」という概念を用いて捉えました。

固定された「ゴール」が存在し、どのように進むかが予め決められた「プログラム」的・予定調和的な「構造的遊び」(もはや遊びとも言えないように思いますが…)に価値が見いだされがちな今日の日本社会。ピーター・モスが「質とハイリターンのストーリー」と述べている社会構造の根深さを痛感しています。しかし、このような社会の中でなかなか意義や価値が見いだされにくいサードプレイス的な場にこそ、「実存的遊び」や「遊び場」としての要素、そして《わたし〔Je〕》という実存基盤が保障され、こどもたち・人々が生き生きと豊かに育ちゆく可能性があるのではないかと考えています。また、そのような場の実践や集う人々の姿を捉え、振り返るための1つの視点として「実存的遊び」や「遊び場」という概念が有益であるように思います。

私にできることは微力ですが、《わたし〔Je〕》から出発するような遊びが生まれ、展開し続けるような場が少しでも社会の中に増えていくよう、これからも実践と研究・発信を続けていきたいです。

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