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「ひらめき」「創造性」から考えた〝動き〟〜『コミュニティ・オブ・クリエイティビティ』と出会って〜

様々な視点や具体的な事例を交えながら「ひらめき」や「創造性」について考える扉が開かれていく『コミュニティ・オブ・クリエイティビティ』(編著:奥村高明、有元典文、阿部慶賀、日本文教出版、2022年)に触発され、私も「ひらめき」や「創造性」についてあれこれ考えてみました。

2022年9月9日に発売。とても読みやすく、様々な視点から「ひらめき」や「創造性」について考えることができます。


この文献でも大切にされている、「ひらめき」や「創造性」は個人の頭の中で生まれるというよりは協働・共創造のプロセスにおいて創発的に生まれるものであるという視点に共感。加えて、「因果論」を越えた「縁起」の領域から事象を捉えるという新たな視点の可能性を感じることができました。では、私自身の「ひらめき」「創造性」観とはどのようなものか。長くなってしまいましたがまとめてみました。

捉えたいのは「遊び」ではなく〝動き〟なんだ!〜いろいろな「遊び」観とのズレや違和感〜

私は学生の頃から、子どもたちが即興的・共創造的に生み出す〝名のない遊び〟に関心を抱き、修論では後述するセラピー理論を基軸に据えて考察。このような経緯があり、私は「遊び」を捉える人として自分自身の役割を認識していました。

ただ、現時点の私としては、これまで何気なく使ってきた「遊び」という言葉を使わないか、新たな表現にするかが妥当なのではないかと考えています。理由としては、これまで直面してきた「遊び」観に対するモヤモヤがあるから。例えば次のようなものです。

【文化人類学的視点】「遊び」について考えたいなら、まずは世界各地や日本の各地の遊び(伝承遊び)なんかを比較検討してみたら?→面白そうだけれど、私が捉えたいのはそこではない。

【発達心理学的視点】「遊び」は、最初は〝ガラガラ〟など視覚・聴覚から入り、そこから手を伸ばして操作をし始め…→「個」の能力発達的観点からの「遊び」観には興味がなく、むしろそれとは異なるものを紡ぐために模索している。

【教育的視点】「遊び」を通して「学び」を!算数をゲームの中で学んだり、国語を演劇や漫才の中で学んだり…→「答え」が予め決まっている従来の教育観から脱却できておらず、その危うい土台の上に築かれた「手段として遊び」観に対しては鋭く批判する立場をとる。

【現場の視点】「『外遊び』が大切だと思うんです!」「いや、『中遊び』も大事です!」「このおもちゃが『発達』を促します!」「遊びを通して『非認知能力』が…」→表面的なカテゴライズに伴う二項対立的な解釈や手垢が付いた言葉を使って薄らぼんやりと、しかし強引に「遊び」を定義しようとすることにモヤモヤする。

同様に、遊びを予め構造化されているものとして捉え、その要素を分解して「遊びとはなんぞや」ということを考える視点も、私が捉えたいものとは違うと感じています。私は様々な異質な要素が複雑に影響し合うことで〝動き〟が生まれ、それが結果として(本来であれば異質さ故に反発することもあり得るのに)「楽しい」「面白い」と感じてしまうという一連の現象の不思議さに興味があるのであって、それが「遊び」なのか「学び」なのか「教育」なのか「保育」なのかというジャンル分けには大した興味を持っていません。

修論を書いてから数年後にレッジョ・エミリアの実践哲学と出会い、現地研修にも参加させていただきました。異質なもの同士の混淆や〝動き〟というイメージはレッジョ哲学の影響を大きく受けています。

『解釈を越えて』〜〝動き〟を捉える上で大切にしている視点〜

脱線してしまいましたが、こうした価値観を持つ私が「ひらめき」や「創造性」を考える上で、やはり院生の頃に読んだ『解釈を越えて』(ボストン変化プロセス研究会、岩崎学術出版社、2011年)は切っても切り離せません。

指導教官に勧めていただき、夢中になって読み進めました。ダニエル・スターンの理論や丸田俊彦先生の文献などにも出会う中で考えが深まっていきました。

私の稚拙な理解ですが、セラピストの「解釈」に治療効果があるとする従来のセラピー理論を越えるべく、乳児-養育者との交流のプロセスの中でとりわけ見られるミクロレベルのやり取りを捉え、そこから見えてくる視座を通して成人のセラピー理論を創造していくというチャレンジがボストン変化プロセス研究会の研究であると思います。

そして、この研究で述べられている理論はセラピー場面に限らず、子どもたち同士が・あるいは子どもたちと大人とが「名のない遊び」の〝動き〟を共創造する場面においても応用することができるのではないかと考えたのが10年ほど前の私であり、基本的なスタンスとしては今も変わりません。

ブログを書いている今現在、手元に文献がないのであくまでざっくりとした箇条書きですが…


①乳児−養育者の交流は「今のモーメント now moment」におけるミクロレベルのやり取りが数珠繋ぎのようにして「進んでゆく moving along」プロセスとして捉えることができる。そしてそれは、これまでフロイト流の「解釈」が重要であるとされてきたセラピー観を越えた新たな視座を与える。

②乳児−養育者の交流においては「フィットしている感じ」などをテーマにした間主観的なゴール(そこに辿り着けば終わりというものではなく、進んでいく中の道標として)が都度設定され、そこに到達するために両者は様々なストラテジーを用いていることがミクロレベルの観察により明らかになった。

③これをセラピーの場面に応用すると、セラピストは厳密に、忠実に手法を用いているわけでは必ずしもなく、仮にそうであったとしても、このセラピストと、このクライアントとの、このセラピーにおける、この瞬間という特異的な瞬間において繰り出される一手が治療効果を持つことも大いにあり得る(それが結果的に「解釈」という形をとるかも知れないし、そうでないかも知れないというのがポイントである)。

④このような、両者が間主観的に出会う意味ある瞬間を「出会いのモーメント」と定義し着目する。これは事前に予測できるものではないが、セラピストが常に、この特異的な治療場面の中で、コンテクストと可謬性を意識することが重要である。

⑤セラピーのプロセスにおいて「今のモーメント」は見過ごされたりズレが生じたりすることがある。しかし、だからといって必ずしもそこでセラピーが破綻するが生じるわけではなく、修復されていく可能性もある。

⑥「出会いのモーメント」はセラピーが終わった後も内面に残り、セラピー後にも連綿と続く生の中で出会う他者との関わりにおいて発揮される新たな「関係性をめぐる暗黙の知」へと繋がる可能性がある。


ここまで文献の中で述べていたか記憶が怪しく、個人的な見解を多分に含みますが、私なりにこの理論からインスパイアされた価値観をまとめると、

・「人間とは?」…過去や無意識に多分な影響を受けながら生きていたり、成人から逆算されてつくられた発達像を階段を登るがごとく辿ったりする存在というよりは、連綿とした〝動き〟の中で生きている…というか〝動き〟=生であり、〝動き〟を動かす存在。

・「セラピーとは?」…既に「正解」(何故このような状態になったかという「原因」を過去や無意識の中に見出し、その「解決」方法となる手法や「解決」するための「解釈」までも)を知っているセラピストと何も知らないクライアントの一方向的な関係性ではなく、〝動き〟としての生を新たな方向へと動かす可能性を持つ要素を共創造していく営み。

・「セラピーを通して何が変わる?」…症状が治るというゴール指向的なものではなく、プロセスの中で共創造的に生まれる「出会いのモーメント」によって、それまでの生の〝動き〟では進み得なかった方向ーおそらくより良い方向ーへと向かうであろう新たな〝動き〟が生まれ得る。

という形になるかと思います。

この理論を通して、遊びの場面における〝動き〟はどのように捉えることができる?

ではこれを、学童保育や保育園などで、子どもたちが、あるいは子どもたちと〝動き〟を共創造する場面を捉える上で、どのように援用できるでしょうか。

・「フィットする感じ」=緩やかに、間主観的に定められる、参与者たちが共有可能かつ意欲的に没入したくなるコンセプト(おままごとをする前提となる場面設定や役割分担、鬼ごっこ的な遊びをする前提となるルールなど)を創ったり崩したり新たに設定したりしながら「進んでいく」〝動き〟がある。

・その〝動き〟を動かすプロセスの中で、そのコンセプトを実現させるために、あるいはより面白くさせるために、参与者たちは様々なストラテジーを用いる。この方略が多様であるからこそ〝動き〟が動く。

・この〝動き〟の中で、そのコンセプトが実現できたと感じたり、より面白くするための新たなコンセプトを思いついたりすることがある。先述のセラピー理論における「出会いのモーメント」的なものが「ひらめき」や「創造性」などと表現される現象なのではないか。

・また、このような場面では、おそらく遊び手たちの間で何かしら「おぉ!?」と〝動き〟の変化が感じ取られるように思う。つまり「ひらめき」「創造性」と「出会いのモーメント」は同時に起こる可能性がある。

・このような連綿とした〝動き〟の中では、時に面白いアイディアがスルーされたりズレが生じたりすることがある。しかし、それらが起こったからといって直ちに〝動き〟が破綻するとは限らず、むしろ新たな〝動き〟へと修復、昇華する可能性がある。

という具合になるでしょうか。

したがって、〝動き〟の中で都度都度間主観的に設定されるコンセプトやその中で混ざり合い〝動き〟を動かす要素は常に特異的であり、故に一連の事象を一括りに「遊び」と定義することは難しいのではないかと最近感じています。それよりも、

○どのように様々な異質な要素が複雑に影響し合うことで〝動き〟が生まれるのか=異質なモノ同士が混ざり合い新たな〝動き〟を生み出す理論

○そして、何故それが結果として(本来であれば異質さ故に反発することもあり得るのに)間主観的に「楽しい」「面白い」と感じてしまうのか=〝動き〟そのものが「楽しさ」「面白さ」を帯びる所以

○こうした〝動き〟の特異性と了解可能性を担保すると共に、新たな〝動き〟に繋がるきっかけを生み出すことは可能なのか=その1つとしてドキュメンテーションに着目している

という3軸を今後考えたいと思っています。

埼玉県の公園で行ったワークショップの写真。公園にあるものは全て〝伝説の生き物〟の化石であるというストーリーのもと、子どもたちは〝化石〟を集めて組み立て〝伝説の生き物〟を〝復元〟しました。
ブース展開だったため、入れ替わりで様々な参加者が訪れてくださいました。この子は被っていた帽子を〝動き〟を動かす要素にするという工夫をしました。
偶然落ちていたパイプも〝化石〟となりました!
やがて、ある子のアイディアで「図鑑」創りが展開。
その〝動き〟を受けて、これ以降にブースを訪れた子たちは夢中になって〝復元〟した〝伝説の生き物〟を「図鑑」に登録していました。

で、「ひらめき」「創造性」をどのように考えるの?


かなり長い前置きと脱線?をしてしまいましたが、「ひらめき」「創造性」に立ち返ると、先程箇条書きの中で述べたように〝動き〟のプロセスの中で共創造的に生まれるものであると考えています。

ただし個人的に光を当てたいのは「ひらめき」「創造性」単体ではなく、あくまでそこに至るまでに続いていた、そしてそれらが生まれた後も連綿と続いていく〝動き〟。また、「ひらめき」や「創造性」に至ることを目的とするのではなく、人間−非人間の異種混淆状態の中で新たな方向に〝動き〟を動かす営みそのものを捉える視点を大切にしたいと考えています。

この視点を外してしまうと、バラエティー番組で「アハ体験」として取り上げられているような、予め「正解」が決まっておりそこに辿り着くような質のもの=〝動き〟というより直線的でゴール指向的なものだけが「ひらめき」「創造性」であると認識されてしまう気がします。

これらを踏まえて、改めて前回ブログに書いた琥珀糖の話を振り返ってみましょう。

この事例において、子どもたちは共に琥珀糖を探究するプロセスの中で「ひらめき」、様々な呟きや「実験」を「創造」しました。が、「ひらめいた」ことは決して「ゴール」=〝動き〟を断絶することにはならず、むしろ「今のモーメント」の数珠繋ぎにおいて「出会いのモーメント」的な役割を担い、新たな〝動き〟を導く役割を果たしました。したがって「ひらめき」や「創造性」という表現で捉えられるもの自体を切り取って取り上げるのではあまり本質的ではない気がします。

また、しばしば人にのみフォーカスされ、人が持つ力として位置付けられる「ひらめき」「創造性」ですが、一方で琥珀糖やヨーグルトカップ、冷蔵庫、太陽光(あまり陽は差していなかったけれど)、熱などといったモノも〝動き〟を動かす要素となっている点を無視するわけにはいきません。「ある子(たち)がひらめいた」ことと「『ひらめき』を導いたモノの可能性」には同じだけの大切な意味がありますし、それらの「意味」も、あくまで「特異的な〝動き〟の中において」という前提があってのこと。万人に琥珀糖を提示すれば同じような〝動き〟が生まれるわけではありませんし、ヨーグルトカップや冷蔵庫を用意したところでこの事例と同じように活用されるとは限りません。

だからこそ、「どうやって『ひらめき』や『創造性』が生まれるのか」というよりも〝動き〟にこだわりたいのです。

まとめ…られない

結局「ひらめき」「創造性」について考えるはずが、個人的に関心がある〝動き〟論になってしまいました💦

けれど、これもきっと、それまでの私の生の〝動き〟と『コミュニティ・オブ・クリエイティビティ』との特異的な出会いがあり、そこから創発的に「ひらめき」が生まれ、新たな〝動き〟が溢れ出た結果なのだろうと思います。感想だけにとどまらず、そこから生まれた〝動き〟を綴るほうが良いなぁと思って、長くなってしまいましたが考えたことを書いてみました。綺麗にまとまっておらず、自分でもまだまだ雑な考察だなぁと思う部分が多々ありますが、それが今後の〝動き〟の布石となることでしょう。特にモノをも含んだ混淆の〝動き〟を捉えることの可能性や「遊び」という使い古された概念に変わる何かを生み出すこと、そのプロセスを捉える方法については、しっかり考えたいです。

まとまらないからこそ〝動き〟は動き続ける。探究って面白い!

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