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子どもたちとの関わりから拡がった手遊び+α


私は小学校教諭養成課程出身であり、手遊び歌にあまり馴染みがありません。が、現場の先生方が手遊びをしているのを見聞きして、自分なりにアレンジしながら子どもたちと笑い合うのを楽しんでいます✨

「いろんなめがね」ならぬ「いろんなマーク」

この日は、秋祭りで年長の子どもたちが出店するお店のロゴを考えるきっかけになればと用意していた様々な店のロゴを印刷した紙を見つけたコウくん(仮名)に、「いろんなめがね」という手遊び歌をアレンジして即興で歌いました。


「♪ズンズチャッチャズンズチャッチャ、ズンズチャッチャズンズチャッチャ、いな○や〜のマークはこんなマーク、ミ○ドのマークはこんなマーク、マク○ナルドは〜…こんなマーク🎶

それを聞いたコウくんが「○○線のマークを知りたい!」と呟きました。保育園の沿線路線ではなかったため画像は用意していなかったため、「♪○○線は〜…?」と歌うだけ歌ってコウくんにパスすることに。

すると彼は、リズムに合わせて「♪わっから〜ない!」と歌ったのでした🤣

絶妙な返に、私とコウくんはしばらく笑いが止まりませんでした笑

「ことりのうた」ならぬ「シュンくんの歌」

さて、この一連のやり取りを見ていた年長さんのシュンくん(仮名)。「僕も、いい歌思いついた!」と呟き、「ことりのうた」の替え歌を歌い始めました🎶

♪シュンくんはとっても 昆虫が好き
母さん呼ぶのも 昆虫で呼ぶ
ミンミンミンミンミン
ブンブンブンブンブン
「わっから〜ない!」
シュンくんが作った替え歌

最後の「わっから〜ない!」は、昆虫語で呼ぶシュンくんに対しての、お母さんのセリフを表したとのこと。コウくんの「♪わっから〜ない!」を引用し、かつ歌詞としても綺麗にオチがある秀逸な替え歌に、思わず「おぉ〜!」と拍手してしまいました✨

「グーチョキパーで…何作る?」

この日の朝の会では「グーチョキパーで何作ろう」をしました。幼児さんたちなので保育者が決めた型通りに手遊びするのではなく子どもたち自身が考え出す楽しさを味わえたら良いなぁと思い、コウくんやシュンくんとのやり取りの流れもあって、アレンジバージョンで行うことに。

「♪グーチョキパーで、グーチョキパーで、何作ろう?何作ろう?右手は…?」

この辺りから、子どもたちから「パー!」「グー!」などの声があがります。

「オッケー。右手はパーで、左手はグーで……何ができる??」

と子どもたちに振ることに。すると、「ヘリコプター!」「パーとグーでパンチ!」など様々なアイディアが生まれました。オーソドックスなものから、だんだんと「パーとチョキでブランコ」などアレンジしたもの?などが拡がり、みんなでわいわい盛り上がりました。

なんとなく〝よきところ〟で、

「♪グーチョキパーでグーチョキパーで、何作ろう?何作ろう?右手はパーで、左手もパーで…」

と歌い、〝あるある〟の落とし所へ持っていこうとする私。すると、そんなズルい保育者の意図を見透かしたのか、「ことりのうた」のオリジナルソングを作ったシュンくんが「♪右手はパーで、左手もパーで」の辺りから完全に私とユニゾン状態で歌い、最後のお決まり?のオチである

「♪手はお膝〜」

のところに至っては、私の歌い方とピッタリ重なるリズムで歌ったのでした🤣

これには私も笑いが止まりません笑

「え、なんでわかったの⁉️先生の心を読んだでしょ笑」

「えへへ」と笑うシュンくん。先程のやり取りもあったのか、2人の心が重なった気がしました。

まとめ

保育園で働く中で、自戒の念も込めてですが、次のようなモヤモヤを抱いています。

①手遊び・絵本・音楽などが「集まるための手段」として使われていない?
場面や状況、人数配置による難しさなどから必要に迫られる場面もあるし、気持ちを落ち着けて次の活動に移ることは大切。ただ、手段としてだけこれらを捉えるのは違うと思いますし勿体ないです。

②絵本を既存のCD音源に合わせてめくって読むだけに終始するのってどうなん?
それはそれで確かに楽しいのだろうけれど、録音された音源にペースを委ねることにより、保育者は子どもの姿を見取り、間やリズム、声のトーンなどを調整するというやり取りをする余地が少なくなると個人的に感じています(この駆け引き、やり取りが面白いのに)。その結果、子どもを見取る・子どもとの間で情動を調律し合う感覚を保育者が意識できなくなってしまうのではないでしょうか。

私は保育園の外から来た人間なので、エリック・カールさんの絵本に合わせた歌がCD化され、それを使って「読み語り」でも「読み聞かせ」(〝聞かせ〟という言葉が嫌だなぁと思うけれど)でもない「めくり聞かせ」?とも言うべき光景を目の当たりにし、正直なんとも言えない気持ちになりました。

もちろん絵本が悪いわけではなく、音楽が悪いわけでもありません。また、アナログ礼賛-デジタル批判というわけでもありません。絵本にメロディーを付けて新たなものを紡ぎ出すという発想は素敵だと思います。問題は、あくまでもそれを扱う保育者の側。「この絵本はこのCDに合わせる」がアタリマエになることにより、双方の媒体の良さを殺してしまうことに加え、上記のような、子どもと関わる者としては結構致命的な感覚の鈍りが生じてしまう気がします。

③「この手遊び・絵本・音楽はこういうもの」という固定観念に囚われてない?
②とも関連する内容ですが、〝正しい〟「読み方」「手の動かし方」「歌詞」「踊り方」などに保育者が明に暗に囚われているなぁと感じる場面があります。それは「トントントントンひげじいさん」を「アンパ○マンバージョン・ドラ○もんバージョンでやったら良いでしょう!」などという問題ではなく、保育者や子どもたちとの関係性の外側にある〝既存のもの〟に囚われ過ぎている、言わば「共受動」に陥ってしまっているような気がしてしまうのです。

もちろん〝既存のもの〟自体が悪いということではありません。ただ、そこに子どもたちのアイディアが入り込んだり日々の保育で出会ったものを取り入れたりする余地を創り出すこと、既存のものと子どもたちとの日々の文脈とを混ぜ合わせて新たな文化を織り成すことが出来たら、もっともっと面白いのになぁと思います。

例えば、『おおきなかぶ』を読んだことから、保育園にある綱を見つけた子どもたちが自然と綱引き遊びを生み出すかも知れません。また、今の時期であれば、お散歩で見つけた木の葉や木の実、生き物(虫に限らず)などを「グーチョキパー」や「むしのこえ」のリズムに取り入れてオリジナルの手遊びや歌を紡ぐことだってできるかも知れません。

至らぬ点だらけの私が偉そうに言えることではありませんが、私自身が方向性を見失わないために、敢えてストレートな言葉でまとめました。どうやって、より自分自身のイメージを実践・表現していくか、これからも模索していきたいです。

前半まったり、後半咆えるようなブログになってしまった…💦笑

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