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本について.1

村上春樹『1973年のピンボール』

アンチ・ハルキストを自称している。
物語として面白いと思った作品はある。『ノルウェイの森』と『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』。
『1Q84』と『ねじまき鳥クロニクル』は途中で投げ出した。前者は三人称の文体に耐えられなかったし、後者は物語として余りに退屈に過ぎた。
『海辺のカフカ』 は読んでいない。

自分が繰り返し読み返すのは文章として素晴らしい(と思った)ものだけで、単に物語として面白いだけのものは読み返さないから、村上春樹の作品は全く読み返さないことになる。文章として見るべきものは何もなく、場合によってそれは耐え難いものとなるし、物語として面白いにしても一度読んでしまえばそれきりだからだ。パチン…off。

そんなアンチ・ハルキストの自分が幾度も読み返している作品がある。
『1973年のピンボール』がそれだ。
この作品は『風の歌を聴け』と『羊を巡る冒険』の間に位置し、「鼠」シリーズの2作目にあたる。 人物像や時代設定がよくわかるから、『風の歌を聴け』の後で読んだほうがいいと思う。

この作品では主に語り手である「僕」から幾つもの断片的なエピソードが語られ、そのため作品前半は一種コラージュ的な様相を呈する。「ピンボール」を巡って物語が動き始めるのは後半に入ってからである。
加えて、「僕」(一人称)と「鼠」(三人称)の二人の視点が入れ替わりつつ進行するから、作品全体としてはやはり断片的な、コラージュ的な作品という印象を受ける。

作中では実に様々な断片的なエピソードが語られる。
土星生まれの人の話、「直子」の育った街の話、ピンボールの歴史、配電盤、「鼠」の思い出、電話、「ジェイ」の猫………

こうしたエピソードが好きで何度も読み返す。それらは何かを伝え、語るだけの力を持たない、「僕」と「鼠」の記憶の断片だろうが、しかし注意深く読むと、微かに掬いとれる何かがあるように思う。
恐らく村上春樹の他の作品を読んだことのある人はいくつかピンとくるものもあるだろう。この作品でもやはり「井戸」が語られ、「直子」が登場する。ファンからすればちょっとした宝探しという楽しみ方もある。

【若干ネタバレ注意】


「鼠」シリーズ全体を視野に入れれば、そうしたエピソードのなかで最も大切なものは「配電盤」だろう。「配電盤」の意味するものは『羊を巡る冒険』と特に『ダンス・ダンス・ダンス』で明確に主題化される。この「配電盤」は当然「僕」が昔住んでいたアパートの「電話」に「つながる」し、「電話」は冒頭で語られる土星生まれの人と金星生まれの人の話につながっている。


【ネタバレ終わり】

こうして読んでいくと、断片的なエピソードのそれぞれが抱える何かは、別のエピソードの何かとゆるやかにつながっていることが分かる。
何度も何度も読み返してしまうのはそういう所にあるのだろうか。

「双子」は一番分かりやすいかもしれない。何故双子なのか?双子はどこから来たのか?どこへ行くのか?……

ピンボールについて語ろう。
これはピンボールについての小説である。
実を言うと自分はまだピンボールという(名目上の)主題についてよくわからないでいる。そこから何かを掬いとれたことも無いし、何故ピンボールなのか、ピンボールとは何なのか、今一つ掴めないでいる。誰か考えがあったら聞いてみたいなあ。

村上春樹の共通のテーマは簡単に言ってしまえば「喪失感」じゃないですか。どうですか。或いは漠然とした孤独。陳腐と言えば陳腐に過ぎるが、そういった陳腐さ、親しみやすさと、水道水のような文体が多くのハルキストを生んで止まない、恐らくは。例えば『金閣寺』のように偏執狂的「美」の狂気を語られてもそんなにウケないんだろうなという気がする。

『1973年のピンボール』もそうした村上春樹的気分そのもののような作品である。「双子」のセーターが干してあるのを見て「僕」は涙を流し、「鼠」は目を瞑り耐え、或いは酒を飲み考える。夜は長い、ゆっくり考えろ。…

自分にもある種の特別な時期があったように思う。恐らく誰にでもある。それはもう二度と経験することの出来ない瞬間で、自分史がそれ以前とそれ以後に分かたれるようなある経験だ。輝かしい時代であるかもしれないし、底無しの暗黒かもしれない(自分は後者だった)。
そうした経験を経た以上、ある種の喪失感を、村上春樹的気分を覚えながら生きるのは「アリ」なのかもしれない。

『1973年のピンボール』を繰り返し読み返すのは、それが自分にとって自戒の書でもあるからである。村上春樹的気分に浸って生きることは簡単だが、それは余りに簡単すぎる。余りに容易に、日々の生活を、人生を、村上春樹的作品に仕立てあげてしまうと思う。

三木清が『感傷について』という文章の中でこんなことを言っている。

〈思想家は行動人としての如く思索しなければならぬ。〉

考え続けなければと思う。生きる以上は格闘し続けなければならぬと思う。自分は考えずにいられるという質の人間ではないから、考え続けなければならぬと思う。さあ、もういいぜ。夜は長い、ゆっくり考えろ。…

次はこの三木清『人生論ノート』のいくつかの章を取り上げようかなあ。

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