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北根室ランチウェイ(KIRAWAY)の歩み

(話す)佐伯雅視
略歴
1950年12月6日 岡山県で生まれる
1960年 父の開拓で中標津(なかしべつ)町第二俣落地区に入植
1957年 西竹(にしたけ)小中学校入学
1974年 父の経営する佐伯農場の敷地内に「むそう村」開村
1978年 父の経営する酪農業に従事
1985年 「むそう村」との関係を持つ
1989年 酪農家5人で乳製品製造とミルクレストラン牧舎運営
2002年 荒川版画美術館開館
2004年 写真館「帰農館」開館
2005年 「北根室ランチウェイ」構想スタート
2006年 ギャラリー倉庫開館
2011年 北根室ランチウェイ全線開通
2012年 マンサードホール開設
2018年 日本アートメダル協会アートメダル展にて造幣局理事長賞受賞
2020年 キャンプサイトむそう村 開村
現在に至る

(訊く)小田康夫
略歴
1985年6月26日 北海道標津郡中標津町字上標津(かみしべつ)で生まれる
1998年 3月 中標津町立計根別(けねべつ)小学校卒業
2001年 3月 中標津町立計根別中学校卒業
2004年 3月 北海道中標津高等学校卒業、札幌へ
2005年 4月 1年の浪人生活を経て北海道大学法学部進学
2009年 3月 北海道大学法学部修了
2009年 4月 北海道大学法科大学院進学
2011年 3月 同院修了
2013年 9月 司法試験合格
2013年12月 司法修習(第67期、修習地である旭川へ)
2014年12月 弁護士法人荒井・久保田総合法律事務所(釧路弁護士会)
2018年10月 同所中標津事務所 所長就任
現在に至る


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まえがき

「なかしべつ町の中高生に、この街の魅力を知ってもらいたい」
「自然を生かした地方の街づくりを発信したい」
「地方の街でも、工夫次第で、面白いことができる」

この本で伝えたいことはこの3つです。特に、将来どうしたらよいか迷っている、この街の高校生に、この本のメッセージが(ほんの1文でも)刺さればいいなと思います。

ところで、なかしべつ町の人を取り上げた対談本をつくりたい、と考えたきっかけがありました。なかしべつ町の「町民アンケート(中高生向け)」の内容に衝撃を受けたからです。このアンケートには「なかしべつ町に今後も住み続けたいと思うか?」という質問があり、半数が、「住み続けたい」と回答する一方、「住み続けたくない」という回答も、およそ半数(!)に上っていました。

「住み続けたくない街」と言われると、実際に住んでいる側からすれば、「言い過ぎでは?」「アンケートのやり方に問題があったのでは?」「中学生や高校生の理解が足りない」などと考えてしまうかもしれません。しかし、将来、この街を担う若者の半数が街に魅力をあまり感じていないという事実を冷静に分析してみる必要がありそうです。というのも、客観的にどんなに魅力的な街であったとしても、若者に魅力が伝わらない街は、若者がどんどん街から出て行ってしまう可能性が高いからです。若者の半数がいなくなってしまう街に希望はあるでしょうか。

偶然と言いますか、私も、このなかしべつ町で生まれました。なかしべつ町にある計根別(けねべつ)小学校、計根別中学校、中標津高校を卒業した後、札幌などで生活をした後、数年ほど前に、この街に戻ってきました。
思い返してみると、私自身、中学生や高校生のときに、「この街から出たい」と考えていた記憶があります。当時、自分の地元であるなかしべつ町の魅力をほとんど知りませんでした。「自然しかない」「この街には何にもない」「東京や札幌で暮らしたい」と考えていました。

しかし、この街に戻ってきて暮らしてみると、都会では普段見ることが出来ない山の稜線が遠くにそびえて、大自然の雄大さを普段から感じることができますし、街の機能もそこまで不足はなく、都会の満員電車や狭苦しい生活とは段違いの「豊かな」暮らしがココにはありました。とりわけ、コロナ禍で、人口過密地帯がリスクとなる時代、田舎暮らしは、都会暮らしよりも、贅沢な暮らしの選択肢の一つになったように思います。ちょっと街を離れれば、大自然に囲まれ、人が誰もいない世界は、人間が人間らしく生活する上で必要な環境ともいえるかもしれません。

こんなにも「豊かな暮らしがある」にも関わらず、地元の若者には、その魅力が伝わっていない。それは端的に、この魅力を、発信していないことが大きいように思います。そこで「本を書こう」と思いついたわけです。

時を遡ること2020年10月。あるニュースを見ました。全国的に有名ななかしべつ町にあるロングトレイル、「北根室ランチウェイ」(略称:KIRAWAY=キラウェイ)が同月をもって、閉鎖となるというニュースでした。この時は、そうか残念、という感想だけで、スルーしていたのですが、あとあと調べてみると、このようなロングトレイルは世界各地に存在し、歴史は古く、「歩く文化」というのは、巡礼に向かう、ある種の宗教的なものであることがわかりました。また、長い距離を歩くことは、排気ガスを出さず、環境への負荷が少ないエコロジーな運動であり、心身ともに健康を整えることができます。「持続可能な社会をつくろう」と今、世界中で取り組みが始まっているSDGsにも共通する哲学があります。そんな面白いことをやっている人(後々わかったのですが、それが「佐伯さん」という方でした。)が中標津町に住んでいることがわかり、早速アポイントを取ってみると、偶然にも私の父親と同い年で、同じ酪農家、そしてゴルフ友達でした。不思議な縁も感じながら、じっくり話を聞きたいと伝え、色々な話を聞いてみたのが本書です。

KIRAWAY事業を10年以上、継続していた佐伯さん。
苦労や失敗も多かったと聞きました。
時には、そんな経験が若者にも勇気を与えると感じます。

「失敗してもいい」
「挑戦が大事」
「面白いことを自分もやってみよう」
 
地方の街と地方の街をつなぐロングトレイルという事業そのものは、世界的には有名な取り組みであっても、地方の街で、それも数人の仲間だけでやってみよう、と思い立ち、70㎞以上の道を構築し、維持管理を長年継続したのは、佐伯さんくらいではないかと思います。ありそうでなかったクリエイティブな発想で、少人数でも、できる取り組みを継続的に実践してきた人がこの街にいる。ロングインタビューをしたら、なかしべつ町の魅力や可能性がなにか見えてくるのではないか。

やや違った観点から言えば、ビジネスの世界では、人口減少という“脅威”や社会的なインフラの未整備、「財源がない」などの“弱み”と、どう向き合うかが問われます。しかし、脅威も弱みも、自然の多いわが街の優位性の一翼だと考えることが出来るのではないか。

「ちょっと不便なところが良い」「何にもないがある」

不便なところを生かす逆転の発想。その意味で、佐伯さんが創り上げたKIRAWAYというロングトレイルは、「開発されていないことを楽しむ」というか、「なにもないことを生かす」という画期的なアイディアで、街づくりのヒントにあふれているように思います。 

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北根室ランチウェイ(KIRAWAY)の歩み
2005年10月 ルート探索 開陽台~モアン山へのルートを歩いてみる
2006年02月 「中標津に歩く道をつくる会」設立
         メンバーは酪農家、公務員、自営業など7名でスタート。
2006年05月 メンバーの伊藤肇、佐伯雅視がスコットランド(ウエストハイランドウェイ)イングランド(ペナンウェイ)など先進地を視察
2006年05月 開陽台~牧舎間モニターツアー(60名参加)。
2006年07月 根室中標津空港~開陽台の間、開通
2006年10月 中標津交通センター~開陽台間開通
2007年05月 開陽台~牧舎の間、開通
2007年07月 開陽台~牧舎の間、開通記念ツアー(120名参加)
2008年07月 牧舎~養老牛の間、開通記念ツアー(100名参加)
2011年11月 北根室ランチウェイ全ステージ開通
2012年02月 日本ロングトレイル協会加盟
2012年07月 トレッカーのための宿泊施設「マンサードホール」完成
2012年08月 山と渓谷社月刊誌「ワンダーフォーゲル」誌に掲載
2012年11月 期間限定モアン山コース開通(道標、マンパス設置)
2013年01月 「中標津に歩く道をつくる会」を「北根室ランチウェイ」に名称変更
2013年04月 観光庁「ロングトレイルを基軸に観光振興」事業開始
2013年06月 佐伯農場内キャンプサイト設置
2013年07月 NHK総合テレビ「昼ぶら」ロングトレイル放映
2013年10月 日本ロングトレイルフォーラム中標津開催
2013年11月 モアン山牧場外側ルート整備
2017年01月 クラウドファンディング募集開始目標額300万円達成
2018年    酪農家の敷地内ルート全面的に廃止
町有林ルートの一部徐々に変更
2018年10月 北海道大学観光学高等研究センター主催の事例報告「北根室ランチウェイの取り組み」(「歩く滞在交流型観光の新展開」CATS叢書;第12号)
2020年02月 朝日新聞週刊be「みちのものがたり」掲載
2020年04月 新型コロナウイルスの影響を考慮し当面通行閉鎖を決定
2020年10月 北根室ランチウェイの全面的閉鎖を決断

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〜第1章~なぜ、いま、道(トレイル)なのか

(「中標津町と弟子屈町を結ぶロングトレイルを創設しよう」という大きな夢を語り、それを実現させた佐伯さん。その距離、なんと、71.4km。ロングトレイル創設という夢になぜ挑戦したのか。社会変化が目まぐるしいデジタルの時代に、こんな地方の街に、そんな道を創ることにどんな意味があるのか。KIRAWAY事業は、2020年10月、コロナショックもあり、閉鎖を決断したということでしたが、アフターコロナ時代を踏まえ、何やら新しい取り組みを始めているようです。終わりは新しい始まりとなる。佐伯さんの思考を追うことで、これからの地方都市の生き残る戦略が見えてきそうな予感がします。地方であるからこそ、アフターコロナ時代に見えてくるものがあるのではないか。物理的な空間を繋ぐだけではない「道」を作る意味を探ります。)

(小田―以下略)なぜ、いま、トレイルなのですか。
(佐伯)「効率性に追われる時代だからこそ、自分を見つめ直しながらゆっくり歩く旅のスタイルが大切になっています。」

(佐伯)「欧米では『歩く旅』が一番リスペクトされています。長く歩いて旅をする行為が人間にとって足の裏から脊髄を通って大脳を刺激する事がいかに心理的に良い作用するかが分かっているからだと思います。」

日本でも全国的な組織ってあるのですか。
(佐伯)「日本ロングトレイル協会という組織があり、北根室ランチウェイはこの組織に加盟していました。」

※編集者注―日本ロングトレイル協会HP
↓↓↓
https://longtrail.jp/

この動きをもっと展開して、最終的には何を目指しますか。
(佐伯)「毎年全国各地で開かれるフォーラムに参加して『歩く旅』の啓もう活動をしてきました。年に一度は長野県小諸市にある安藤百福記念館で開かれる全国規模のシンポジウムに役員として参加し、そこでの事例発表で北根室ランチウェイの紹介の後、ぼくが以前から構想していた道東3空港のトレイル構想の実現をしたいとの問いかけに全国から集まるハイカーやトレイル関係者に喝采を浴びたのを覚えています。」

道東3空港のトレイル構想?
(佐伯)「道東と呼ばれる地域には帯広、紋別を含めると5空港あります。
とりわけ、近くの釧路空港、女満別空港、中標津空港は100㎞前後の位置関係です。この3空港を結ぶトレイルが出来たなら日本各地はもとより世界からハイカーが来るようになると思ったからです。」

心残りは。
(佐伯)「この構想を早くから希望していましたが少数の人しか耳を傾けてくれなかったことです。」

車で5分の場所なのに、歩いて1時間かける。この意味を地元民は理解し難いようです。
(佐伯)「非日常の絶景は登山と同じでも、そこに日常生活者がかかわる。登山ならわかる、しかしロングトレイルになるとまだまだ理解を得られないところがあります。」

そもそもロングトレイル構想を思いついたきっかけを教えてください。
(佐伯)「弟子屈町の山奥に森の中の出版社『バルクカンパニー社』の編集長伊藤肇さんとの出会いでした。彼は、東北海道の小さな出来事や、そこに暮らす人々を日本の東の端っこから全国へ発信する季刊誌媒体『East side』を2000年に創刊しました(が、雑誌不況の折、2010年に廃刊になりました)。伊藤肇さんの出会いから『歩く旅』への発想、構想、実現まで、こぎつけられました。」

(佐伯)「それから山浦正昭著の『歩く道は、僕たちの学校だぁ』と『旅は歩くことなり』という書物の出会いがありました。その本の中にウォーキング大国イギリスを踏破したことも書かれています。」

※編集者注―山浦正昭『歩く道は、僕たちの学校だぁ』(アマゾンサイト)
↓↓↓
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A9%E3%81%8F%E9%81%93%E3%81%AF%E3%80%81%E3%81%BC%E3%81%8F%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%A0%E3%81%81-%E5%B1%B1%E6%B5%A6-%E6%AD%A3%E6%98%AD/dp/4794804903)

具体的な話はいつからですか。
(佐伯)「2005年秋から道東地区に『歩く道を』を作るべきだと伊藤肇さんと構想を練って、開陽台から佐伯農場までと、モアン山周辺を探索しました。2006年5月スコットランドエジンバラに住む女性の縁で英国のフットパスを歩きに行くことになりました。」

モアン山というのは、標高356メートルの低山ですね(「East Side」(2007年5月10発行/伊藤肇/有限会社バルク・カンパニー)。中標津町市街からだと、養老牛の集落を抜け、清里町に向けて車で走ると、右手の山肌に、「牛」という字が大きく描かれているところですね。
(佐伯)「『モアン』とはアイヌ語で『静かな川』という意味です。モアン山を歩く人のために開放しようという動きがあり、そこも通って、中標津空港と弟子屈町美留和駅を結ぶ全長70キロに及ぶフットパスができないかと考えました。」

(佐伯)「伊藤肇さんは、自身の雑誌『East Side』の記事のネタに、『歩く旅』の啓蒙と人の歩くことの必要性を感じていました。彼と私は意気投合し、雑誌の取材も兼ねた視察旅行に、2006年5月、英国へ出かけました。」

(佐伯)「ちなみに、伊藤肇さんは、その後の2007年2月にニュージーランドのミルフォードトラックを踏破しています。」

※編集者注―編集者注―ミルフォードトラックHP
↓↓↓
https://milfordtrack.net/

(佐伯)「伊藤肇さんは若いころアメリカに暮らし、英語も堪能で、英国への旅行の詳細の計画、航空券の手配を全部してくれました。」

なぜ英国(イギリス)なのですか。
(佐伯)「英国を選んだ理由は、世界の中ですべてとは言いませんが、ほとんどの文化やスポーツは英国が発祥の地だからです。」

※編集者注―英国のフットパスについて
↓↓↓
北海道大学「歩く滞在交流型観光の新展開」(CATS叢書;第12号)
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/73766/1/CATS12.pdf
↓↓↓
塩路有子「英国におけるパブリック・フットパスと地域振興Walkers are Welcome タウンの活動~」から以下引用する。
↓↓↓
(引用開始)「英国におけるパブリック・フットパス(Public Footpath、以下フットパス)は、18世紀の囲い込み以前から存在し、現在は『歩く権利』(Right of Way)が法的に認められている公共の自然道である(平松 1999、2002)。19世紀末以降、英国では民間の環境保護運動が活発化し、カントリーサイドなどにおいて自然環境の保全が行われてきた。人々は日常的に自然と触れ合いながら、その環境を維持管理してきた。それを可能にしているのが、英国内に網目状に広がるフットパスである。」「英国には、国指定の長距離フットパス『ナショナル・トレイル』だけでも15本あり、全長約3800㎞に及ぶ。一方で、地方や市町村にも大小さまざまなフットパスがある。英国人が数世紀にわたって発展させてきたフットパスは、それ自体が人と自然を結ぶ文化遺産といえる。」(引用終わり)

(佐伯)「英国全土に何万キロに及ぶ歩く道が整備され、私有地を誰でも歩いても構わないという法律まであります。歩く道はランブラーズ協会という組織が地図も含めてすべて管理しています。」

※編集者注―ランブラーズ協会のHP
↓↓↓
https://www.walkingforhealth.org.uk/get-walking/walking-works

(佐伯)「スコットランドは荒涼とした岩肌にそれほど高い山はないですが、谷間をぬうようにトレイルが整備されていました。廃線になったローカル線をトレイルにしたところもありました。今も使われるウエストハイランド鉄道にはたくさんハイカーが乗っていた。中部のピーク・ディストリクト国立公園は南北に横断するトレイルであるペナンウェイの拠点になっています。この地の開陽台に似たような丘陵地帯に羊飼いの農家が点在している。コッツウォルズについては日本でも有名ですね。」

※編集者注―ピーク・ディストリクト国立公園のHP
↓↓↓
https://www.peakdistrict.gov.uk/

(佐伯)「旧根室本線の狩勝線などに行き、歩く旅の楽しさを体感しました。」

(佐伯)「伊藤肇さんといつも話すことは、健康的に歩くことは大事だけど、『歩く旅』なんだよなと。高い山を登るピークハントでもなく平地をだらだらと長~くあることが、人の足の裏から脊髄を通って脳を刺激する、このことが人にとって考えることを与え、なおかつ癒しの効果があることを二人で熱く語っていました。北海道でフットパスブームが先行する中、英国で観たコッツウォルズ周辺のパスを北海道に造っても仕方がない。」

※編集者注―コッツウォルズ(ウィキペディアへのリンク)
↓↓↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%84%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%BA

※参考―登山ガイド沖本浩一氏のHP「コッツウォルズのフットパスを歩いてきた」
↓↓↓
https://yama-guide.com/2019/06/07/cotswolds-footpath/

たしかに、コッツウォルズは美しい街並みを楽しむ「散歩道」というイメージですね。中標津町~弟子屈町を結ぶ道は私も歩きましたが、山に分け入る「トレイル」という言葉がしっくりきます。
(佐伯)「北海道にも、各市町村には遊歩道と称してたくさんの散歩道がありますが、無用の長物になりつつある今、スコットランドのウエストハイランドウェイや中部ピーク・ディストリクトのペナンウェイのように、100㎞以上の道を作りたい。自分たちのスタンスで『歩く旅』すなわち移動するための道、北海道を横断するような『トレイル』を造ろうと思いました。」

※編集者注―ウエストハイランドウェイ(公式)のHP
↓↓↓
https://www.westhighlandway.org/

確か、この近くにも、根室フットパスがありますね。
(佐伯)「当時、北海道で先行していた根室フットパスには私も何度も出かけました(ちなみに手書きの地図を自分が担当しています)。」

編集者注―運営者:酪農家集団AB-MOBIT/根室フットパスHP
↓↓↓
http://www.nemuro-footpath.com/

(佐伯)「そういうやや短いフットパスも点在しているのですが、なかなかそれらが結びついていません。歩くために道東にまでやってくるという場合、フットパスだけじゃやはり物足りない。フットパスのほかにロングトレイルとして長い一本道を作りたかったのです。」

(佐伯)「ちなみに、私は札幌から日本海側の増毛までの一部にある濃昼山道にも行きました。」

※編集者注―「増毛山道と濃昼山道」(石狩市のHP)
https://www.city.ishikari.hokkaido.jp/soshiki/kikaku/42922.html
↓↓↓
(引用開始)「両山道開削の背景には、1854年(安政元年)日露和親条約で、日本・ロシア間で北方における国境の問題解決を得たことを機に、幕府が北辺の防衛と開拓に力を注いだ事があります。1857年(安政4年)幕府の命により当時の場所請負人伊達林右衛門が石狩市浜益区幌から雄冬岬を迂回し増毛町に至る増毛山道を、また濱屋与三右衛門が石狩市厚田区安瀬から同区濃昼に至る濃昼山道を開削し、最北の宗谷に至る日本海岸線沿いの道が1本の線で結ばれました。」「増毛山道は、江戸末期に急峻な断崖によって交通の難所とされた幌~増毛~雄冬間を迂回すべく、幕府の命を受け、増毛の漁場を請け負っていた商人『伊達林右衞門』によって1857年(安政4年)に開削されたものです。海岸線における国道整備などにより、山道の通行者が減り、遂にはその痕跡が分からないほどに笹藪に埋もれていましたが、地元の有志などが平成20年から山道の位置を特定し、復元活動を開始し、平成28年10月16日に山道全線が開通しました」(引用終わり)。

濃昼山道は二つの山道が北海道遺産となっています。北海道各地で「歩く文化」を広げようという取り組みがあります。根室にもフットパスがありますし、ニセコでも同様の取り組みがあるようですね。

※編集者注―ニセコ会議資料/第6分科会地域資源活用型まちづくり「フットパスを通した観光と環境~町内フットパスを巡り、身近な環境から考える」
↓↓↓
https://www.town.niseko.lg.jp/resources/output/contents/file/release/913/13970/af7bf89c258646f3fbf8b17bca828f47.pdf

ガソリンや電気を使わず環境負荷をかけない、持続可能な文化・地域振興として、ロングトレイルやフットパスの構築は今の時代に合った取り組みです。今後、地方の街に必要なことはなんでしょう?
(佐伯)「世界の中で有数の企業が小さな町にあることをご存知でしょうか。adidasの本社はドイツのバイエルン州ヘルツォーゲンアウハラという人口2万人余りの町に兄弟会社プーマと共にあります。自動車のウォルクスワーゲン社の本社はヴォルクフスブルクという人口12万人の町にあります。NIKEの本社はアメリカのオレゴン州ポートランドの近くのビバートンと言う街にあります。その街の人口は9万人余り。世界的なメーカーが小さな町に存在します。中標津空港の近くのゆめの森公園に隣接する町有地があります。積極的に空港近くの町有地に企業誘致をしたらどうかなと思っています。」

※編集者注―ドイツのバイエルン州ヘルツォーゲンアウハラについて(ウィキペディアへのリンク)
↓↓↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%84%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%83%8F

※編集者注―ドイツのウォルフルスブルクについて(ウィキペディアへのリンク)
↓↓↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF

※編集者注―アメリカのオレゴン州ビバートンについて(ウィキペディアへのリンク)
↓↓↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3_(%E3%82%AA%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%B3%E5%B7%9E)

(佐伯)「空港近くのKIRAWAYの道沿いにもJA中標津の土地も存在します。折しも2020年、パソナは本社を東京から兵庫県淡路島に、紅茶の販売会社ルピシアの本社も同年、北海道のニセコ町に移転しています。住み良い町と自負するなら、若い人が働く場所を確保するのが、議会や町長の役目だと思います。その事が結果的に中標津~東京便の恒久的に存続する手立てでしょう。」

根室中標津空港についてですが、街に空港があることについて、どう考えたら良いでしょうか。
(佐伯)「来春北海道7空港の民営化になる空港には中標津空港は含まれていません。道東の3空港の中で女満別空港、釧路空港は拡充されますが、中標津はこのままいくと取り残されてしまいます。各航空会社は、コロナ禍の影響で不採算路線はたぶん切っていくでしょう。中標津~東京便もこのままだと復活はしないと思います。7空港の民営化もコロナ禍の影響でスタートの暗雲が立ち込める中、この7空港に入っていない中標津空港独自のやり方や他の空港との連携を考えて行くことで生き残りを考える必要があります。コロナが収束すればすぐに中標津~東京便が当然に復活すると考える人がいれば、それは甘いと思います。この町やこの地域で何をアクションすればいいのか、みんなが知恵を絞る必要があります。」

ランチウェイのほか、佐伯さんは新たな取り組みをされていると伺いました。
(佐伯)「サバイバルキャンプ場『Camp siteむそう村』をオープンさせました。イメージとしては、
① 焚き火のできるキャンプ場
② ガスは持ち込み禁止、薪で煮炊き
③ ボットントイレ
④ ガチャポンプでの水の汲み上げ
⑤ ファイヤーのできるキャンプ
⑥ テント泊が基本
⑦ 不便な体験を授業料として支払い
アフターコロナ時代、人間がしぶとく生きるための技術を習得することをコンセプトにしています。」

佐伯農場を訪問すると、キャンプサイト以外にも、イロイロな小屋がありますよね。
(佐伯)「佐伯農場の小さな小屋だけで以下のものがあります。
①パンスタンド
②スモークハウス
③野菜畑の倉庫
④昔の焼肉ハウス
⑤昔の牛乳の処理室
⑥キャンパーの水汲み場
⑦外トイレ兼洗濯小屋
⑧一人マンハッチ
⑨トレイルの消毒小屋
⑩芝刈り機の格納庫」

レストラン「牧舎」もあり、キャンプ場も新設される。衣食住が一体化した凝縮された空間です。
(佐伯)「佐伯農場の敷地内には、
○今あるレストラン『牧舎』
○コロナ禍に対応したパンの無人販売所『パンスタンド』
○『マンサードホール』と名付けられた宿泊施設などを備えた多目的施設
○版画美術館
○ギャラリー倉庫
○写真館「帰農館」
○野外アートスペース
○KIRAWAY
○いま紹介したサバイバルキャンプ場『むそう村』
○マウンテンバイクのコース
○野菜畑
などがあります。ほかにも、構想段階ですが、
○サテライトオフィス
の建設を予定しています。本格的な始動はまだですが、現在構想中の事業もあります。」

「むそう村」も含めて、のちほど詳しく教えてください。

(第1章終わり KIRAWAYの巨大構想/夢を語ることの重要性/KIRAWAYが終わってしまったが、また新たな始まりがある、終わりは始まり/これからの地方都市の役目/中標津町の進むべき道/生き残る戦略/地方都市が消滅都市と言われ、人口減少をマイナスとしてとらえることが多いが、その視点を変える/地方でより良く生きること/「道」は物理的な空間を繋ぐのみならず、人と人をつなぎ、希望や未来をつなぐ/「道」は未来への序章となる)

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~第2章~『道』は世界に繋がる

(夢を語るのは誰でもできます。実際に夢を実現するプロセスはどんなものだったのでしょうか。ランチウェイ事業を創設した人だからこそわかる、具体的な事業構築の方法論を探ります。ビジネスの世界ではPDCA(Plan→Do→Check→Act)が業務を継続的に改善する手順などと言われています。しかし、その具体的な中身はあまりよくわかりません。事業創設時の苦労話、事業創設の具体的プロセス、創設当初の具体的課題など、事業を始めるにあたって、どこに焦点を当てたのか、どこに焦点を当てるべきなのか。事業創設当初の調査研究をどうするのか、ブランディングにおいて何が重要なのかなど詳しく聞きました。)

KIRAWAYのコンセプトは、「小さな町から小さな町へ」ですが、それはどのような想いからつけたのですか。
(佐伯)「道東地域は豊かな自然と、広大な大地には農作物があふれ、牧草地が広がります。諸外国には歩くためだけの専用道が様々なかたちで存在し、歩く文化も成熟しています。それに比べると日本はまだ『歩く旅』への理解は少ないと感じます。比較的なだらかな丘陵地帯の多い東北海道は、そんな歩くための道づくりに最適な地域といえるでしょう。クルマ優先の社会にあっても、せめて1本、歩くためだけの専用道がほしい。それが私たちの願いです。旅としての歩く道が道東地域にできることを願って、私たちは中標津の中心部から北根室の広大な牧場(ランチ)地帯を通り、摩周湖の外輪山をほぼ半周して弟子屈町のJR美留和駅までの全長71.4kmのロングトレイル(長距離自然道)を創りました。」

北根室ランチウェイ、通称KIRAWAYというロングトレイルを創設した当初のことを教えてください。
(佐伯)「KIRAWAYは全部で6ステージに分かれていてステージ5は環境省の管轄なので草刈りはしなくても歩けます。残り5ステージを1年に1ステージずつ、5年で全線開通させる予定で始めました。しかし、2008年の宮崎県の口蹄疫発生で酪農地帯全面進入禁止を余儀なくされ、2010年開通が1年延びて2011年に全線開通にこぎつけました。」

(佐伯)「当初、酪農家は僕一人で、皆さんそれぞれ職場があり、休みの時にルート探索、シルバー人材センター(編集者注―公益社団法人中標津町シルバー人材センター/HP:https://www.nakashibetsu-sc.jp/)の力を借り、手の作業でした。2009年ころより、高校の同期の長正路君が加わり、乗用型の刈り払い機を購入して画期的に作業効率は上がっていきました。」

(佐伯)「悔やまれるのは、シルバー人材センターの一員のIさんをKIRAWAYの草刈りの最中に亡くしてしまったことです。開陽台の真向いの丘、武佐岳と展望台の見える丘の上でIさんは僕の目の前で息を引きとりました。病名は心筋梗塞でした。後に、人材センターの仲間の方々とその場所で供養の会をしました。印象的だったのが奥さんが『お父さんこんな素晴らしい見晴らしのいいところで亡くなってよかったね』と言ってくれたのが僕への救いの言葉でした。」

事業は順調に進んでいったのですか。
(佐伯)「最初から順調であったわけではありません。少しずつ延伸して5年でやっとつながったのですが、誰も来なかったのでいっそのこと辞めてしまおうかと思ったんですけど、6年目くらいからポツポツと歩く人が来るようになりました。さらに、僕の知り合いで朝日新聞の論説委員の浜田陽太郎君というのがイギリスのシェフィールドの大学に留学していたとき、毎週ウォーキングを楽しんでいたところ、僕のところにしばらくぶりに遊びに来たら(彼は子ども時代に夏キャンプで佐伯牧場に来ていました。)、佐伯さんがそんなのを作っているなら面白いから新聞に載せてもいいかと朝日新聞の『窓』というコラムに、2011年、載せてもらったきっかけで全国的に知られるようになりました。」

(佐伯)「2011年に全線開通したKIRAWAYを日本ロングトレイル協会に加盟申請すべく、2012年2月に全線の地図やパンフレットを送付しました。2012年9月25日(この日はなぜか鮮明に覚えている)日本ロングトレイ協会の重鎮方がこのトレイルを視察に訪れてくれました。協会の役員は元『山と渓谷社』の編集長やカラコラム登山の隊長、信越トレイルを立ち上げた方、高島トレイルの創設者、そうそうたるメンバーにこのトレイルの魅力を、口から泡が飛び出るほど喋りまくりアピールしました。面々からの評価は非常に好評で、その4月の理事会で加盟を決定。その時に次回の日本ロングトレイル協会主催の全国フォーラムを中標津で開催を打診されました。」

(佐伯)「2013年10月に日本ロングトレイル協会全国ロングトレイルフォーラムin中標津が開催されました。加盟後は協会の役員として全国のフォーラムに毎年参加しました。信越、国東半島、塩の道、美ヶ原、高島、金沢、佐渡、小諸、みちのくなどなどたくさんロングトレイルに行きました。この協会は、日清食品の文化財団が全面支援してくれていますので、日清食品ホールデイングスの会長安藤宏基氏ともたびたびお逢いしていました。日本ロングトレイル協会の方々は日本山岳会の重鎮たちばかり。磯野剛太氏もいました。」

※編集者注―磯野剛太(いそのごうた)氏は著名な登山家・山岳ガイド。「山の日」の制定に尽力した。

(佐伯)「2014年5月、元『山と渓谷社』のライターでフリーランスの堀内一秀氏の紹介で、プロのトレイルランナー奥宮俊祐氏が全国からトレイルランナーにお精鋭たち7人を連れてKIRAWAYにやってきました。5月といえば、酪農地帯(の牧草地)に糞尿を一斉に散布する時期。そのウンコのにおいの中を精鋭たちは2日間で71.4kmを全線踏破しました。西別岳山頂まで糞尿のにおいがあったとか。その年の8月には奥宮俊祐氏プロデュースのKIRAWAYトレランツアーを実施しました。2020年の冬のスノーシュートレランレースまで続きました。この時のメンバーをKIRAWAY7(セブン)と呼んでいます。」

(佐伯)「山の日制定の立役者磯野剛太氏は2020年3月、コロナ禍の最中に他界してしまいました。コロナ禍で通夜もお葬式にも出席できませんでした。合掌。ロングトレイル協会の方々には本当にお世話になりました。」

(佐伯)「ほかにも、山岳家の岩崎元郎さん、あの有名な植村直己さんの同期の中出水(なかでみず)勲さんも何度も一緒に歩かせてもらいました。」

※編集者注―植村直己(うえむらなおみ/1941年生まれ、兵庫県出身、冒険家)。著書として「新装版 極北に駆ける」「新装版 青春を山に賭けて」「エベレストを越えて」いずれも文春文庫がある。

※編集者注―中出水勲さん著作の「植村直己冒険の軌跡」(ヤマケイ文庫)がある。
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https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%82%B1%E3%82%A4%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A4%8D%E6%9D%91%E7%9B%B4%E5%B7%B1%E5%86%92%E9%99%BA%E3%81%AE%E8%BB%8C%E8%B7%A1-%E4%B8%AD%E5%87%BA%E6%B0%B4-%E5%8B%B2/dp/4635048896

KIRAWAYのえんじ色の看板は印象に残ります。
(佐伯)「マンパス(僕が考えた造語:牛はくぐれないが人は通れるくぐり戸)や川にかかる橋、廃物を利用した道標など、KIRAWAYのデザインはえんじ色に統一しました。僕自身がスコットランドに行ったとき、不安になった人間は、ふとそこにある標識に救われることに気が付きました。KIRAWAYにもそういった歩く人に寄り添う道標をつくりたいと思い、統一感のあるえんじ色にこだわりました。」

(佐伯)「やはりイメージカラーを統一することは重要です。名前は出しませんが、清涼飲料水といえば、テーマカラーは青色ですよね。あの青色とちょっとした白のラインを見たら、『ああ商品だ』とわかります。デザインにこだわるというか、私は、カラーにこだわりました。刷り込みに近い。このえんじ色を見たら、『ああ、ランチウェイだ』とわかってくれるようになりました。」

(佐伯)「事業発足当初の時期に、看板づくり、マンパスの制作と設置を行いました。KIRAWAYのメンバーは酪農家、公務員、学芸員、雑誌編集者、看板業、民宿経営者、自営業それぞれ持ち場持ち場で仕事のできる人が集まってくれました。看板業の佐藤秀男さんは青年時代からの付き合いで映画館の前の大きな看板を描ける日本でも一番若い画家兼看板屋でした。」

(佐伯)「彼は北根室ランチウェイには欠かせない存在でした。道標の作り方、看板の埋め方、看板の作り方のすべて(糸のこで切り取る、カッティングシートでの抜き取り、ステンシル)を彼からすべて教わりました。KIRAWAYのイメージカラーのエンジを基調にデザインを考えいろいろな看板を作ってきました。師匠の彼は北根室ランチウェイにたくさんのハイカーが訪れることを見届けず、若くして僕より先に逝ってしまいました。」

KIRAWAYには多くの人が集まり、歴史を刻んできました。
(佐伯)「KIRAWAYは次世代の子供たちのために造ったのが本当の狙いでした。北海道大学メデイア観光学院木村宏(きむらひろし)教授の生徒が過去4年間、毎年現地研修でKIRAWAYを研究テーマにしたそうです。」

(佐伯)「北海道教育大学岩見沢校のアウトドア学科山田亮(やまだりょう)教授この道を使っていました。」

(佐伯)「元の、道立青少年の家、現在はネイパルですかね。ネイパル北見や、ネイパル厚岸の子供たちも夏の全線踏破と冬のモアン山スノーシューの耐寒訓練や木工体験のワークショップをやっていました。また、西竹小学校(現在は計根別学園に統合)も統合前に全校生徒で、使っていました。その後の計根別学園の全校生徒も、毎年各ステージの学年に合わせ9年間で全線踏破を目指していました(が、その前にKIRAWAYが閉鎖になっていしまいました)。」

(佐伯)「自衛隊の訓練の一環でこの道を60名くらいの隊員が隊列を組んで行進したこともあります。」

日本に限らず、世界中から人が集まりました。
(佐伯)「スウェーデンから訪問してくれたり、アルゼンチンなど地球の裏側から来てくれる人もいました。自家製のスウェーデントーチでピザを焼きました。」

(佐伯)「KIRAWAYという道の利用頻度は増してきていた矢先のコロナでの2020年の当面閉鎖でしたが、その後、完全閉鎖となってしまいました。このコロナ禍の後に一番先に復活するのはこのようなアウトドアでしょう。」

(第2章終わり 事業創設の具体的な方法論/事業の始め方/具体的プロセス→事業創設時の苦労話/事業を創設当初の調査研究手法/デザインにおいて重要な要素としてのテーマカラーの設定など)

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~第3章~『道』は人を繋ぐ(佐伯さんの「人となり」に人が集まる)

(ゼロからイチを作ってきた佐伯さん。災害が多く、毎年のように異常気象がニュースになっている現代で、何が必要なのか。アフターコロナの時代に求められる生き方とは何か。新しいようで古い。古いようで新しい。佐伯さんが作ってきたものは、人間にとって根源的・本質的なもののように感じます。なぜ、佐伯さんのところに人が集まるのか。佐伯さんが受け継いできたむそう村とは何なのか。佐伯さんが現在創り出している空間(むそう村を含む。)の現在のカタチに迫りました。)

佐伯さんのフェイスブックを見ていると、なんでもラクラク軽く作ってしまうことにびっくりしました。
(佐伯)「むそう村には、サウナ小屋も作りました。工法は荷物をリフトで持ち上げる時に使うパレットの組み合わせ、誰でも作れますよ。同じ寸法のパレットがあると作りやすいです。」

そしてそれを公開してしまう。
(佐伯)「私ももう70歳です。何かを次世代の為に残したい、という思いがあります。」

ガチャポンプってなかなか今の時代、見ることも作ることもない。その発想がありません。
(佐伯)「井戸堀、4メートル位の深さまで掘り、土管と古タイヤを積み重ね、その上にコンクリートの台を作りました。ガチャポンプの配管を入れて汲み上げるだけにしたものです。屋根もつけることにしました。2020年7月からこの地に住むKさんが手伝ってくれています。なんでも出来る有能な相棒が見つかりました。彼のお陰で仕事がはかどります。」

キャンプサイト「むそう村」には、「サバイバルキャンプ」というコンセプトがあるも伺いました。温故知新、それを体現されている。
(佐伯)「まさにそれがサバイバルキャンプ場を作る意義ですね。2011年の東北大震災に始まり、新型コロナ、毎年のように豪雨による大災害、人がいかに傲慢に生きていたツケが、今、降りかかってきているような気がします。自分の子供の時の体験や大正、昭和、戦前に生きて来た先人に学んだ事は僕の人生で最大の武器です。この事を次世代の子供たちに少しでも教えていかなければならない。そんなコンセプトで、このキャンプ場を作ろうと2020年3月頃から考えていました。焚き火の火の付け方から、薪で煮炊き、水はポンプで汲み上げるボットントイレ、どんな時代にも対応出来る子供たちを育てる意味合いもあります。」

コンセプトも発想もありそうでなかったものですね。最初でも話にでましたが、サバイバルキャンプ場『Camp siteむそう村』のコンセプトは、
① 焚き火のできるキャンプ場
② ガスは持ち込み禁止、薪で煮炊き
③ ボットントイレ
④ ガチャポンプでの水の汲み上げ
⑤ ファイヤーのできるキャンプ
⑥ テント泊が基本
⑦ 不便な体験を授業料として支払い
まさに時代にマッチした事業だと思います。私もデイキャンプで、利用させてもらったことがあります。デザインされたスウェーデントーチや、薪(まき)が積み上げられていて、隣には川が流れていて、横には美術館もある。空間そのものがアートでした。どんな利用客が多いですか。

(佐伯)「意外かもしれませんが、女性のソロキャンパーが多い印象です。海外からもキャンプをしに来る方もいらっしゃいます。」

(佐伯)「札幌や帯広、根室、北見からそれぞれソロテントで集まり、佐伯農場のレストラン牧舎のスタッフも加わり、石窯ピザパーティーと大キャンプファイヤーをしたこともあります。」

私も行きましたが、見るたびに進化している気がします。
(佐伯)「石窯を作ったり、炊事場を作ったりしています。石窯と炊事場を屋根付きで繋げました。野地板(のじいた)を張り建築紙(コールタールで出来た油紙)を貼り、その上に波トタンを張ります。」

キャンプサイトができる前から、「むそう」「むそう村」というものがあったと聞いていますが、「むそう」につい教えてください。
(佐伯)「1974年から佐伯農場の一角で首都圏の子供たち、学生の夏キャンプが始まりました。主たる目的は高度成長期の日本、コンクリートジャングルに暮らす子供たちに少しでも不便な生活を自然の中で1カ月近く寝食を共に体験してもらいます。」

「むそう村」の事業は、ネパールでの旅の経験も生きていると聞きました。どのような旅だったのですか。

(佐伯)「青森大学の留学生ゴビンダという青年と知り合って、彼の故郷ネパール・モクタントール村への旅が実現しました。観光目的ではない、本当のネパールの人々の生活の姿を見たいという一心でゴビンダにネパールに連れて行ってもらいました。」

どんなルートで行ったのですか。
(佐伯)「彼の故郷モクタントール村への道は、以前は車が行けるところからさらに2日間歩いて行く山間の村です。現在は一番近いバス(バスといっても写真のようなピックアップワゴン車)から歩いて2時間ほどのところ。山あいの尾根を重機で崩し道路を作っています。測量をして計画的に作るのではなく、重機の運転手の気分次第で作る道路はうねうね曲がって、一度では曲がりきれず、バックして何度も切り替えして進んでいきます。バネパというカトマンズの隣の町からバスは出ています。そこで必要な物資を購入して車に積み込み、人も中に6人乗りに8人、車の上にも人が乗ります。行く先々の道にはバスが来ると子供たちがそのバスに乗りたくて群がってきます。子供たちを振り払ってバスは進みます。赤土と石がごろごろの道路を延々と7時間、距離して100kmは優にあります。」

(佐伯)「モクタントール村へは夕方日の暮れる寸前にバスは到着。」

(佐伯)「ゴビンダの兄の子供と奥さんが2時間かけバスの降りるところまで迎えに来ていました。奥さんは食糧の20kgある袋をひもで頭にかけ軽々と歩いて村まで行きます。私といえば兄が私の歩きを見て不安に感じ、私のリュックを担いでくれました。暗い道は足を踏み外すと、数100m転がり落ちるといいます。村に着く前に日は暮れ、暗い中を延々と歩きます。日本からのお客さんにけがをさせたら大変と片手で私を支えながら進みます。村に着くころ村人たちが灯りを持って迎えに来ました。モクタントール村へ着いたのが19時ころでしょうか。村へ着くと、きちんとお客さんを迎えることと、自分の家族が無事に帰ってきたことを意味する儀式が待っていました。」

なかなか経験できないことですね。
(佐伯)「タマン語でネパールの国花パーダメンドという真っ赤な花の首飾りをかけてくれ、ゴビンダのお父さんが儀式のお祈りをして村人たちみんなで迎え入れてくれました。」

(佐伯)「村人が遠くに働きに出るとき、帰ってきた時、身の安全の願いを山の神に動物をささげる(やぎ1歳、鶏3か月)儀式を村人の長老が行う。血をとり、その血で米粒をまぶし額につけてくれ、いけにえの儀式の後は肉を解体してみんなでその肉を食べます。村人たち(子供たちも見守る中)その儀式は行われます。どこからも食料を調達できない村社会ですから自給自足が原則。そしてタマン族の文化や伝統をいつまでも絶やさず引き継いでいます。食べて生きることを身を持って子供たちに教えていきます。仏教からくる『いただきます』は『命をいただきます』からきています。」

(佐伯)「村の生活でも一番大事なのは水の確保です。村への水は上流から湧水をホースでひいて食事やトイレ、洗濯、家畜に使う。何軒かの集落への供給は溜めを作り共同利用です。身体を洗うのは家の冷たい水で洗う場合と、川まで降りて行って川シャワー。この日は気温26度くらい、入るときはちょっと冷たいですが、水温は12~15度くらいで、意外に気持ちよい。石に体をこすりつけ背中を洗ったり、石鹸でシャンプーをしたり、すっかり温泉気分。大きな石の上に下着を置くとすぐに乾く、体を温めるのも石の上。ちなみに日本の温泉のように全身何も身に着けず入るのはだめです。私がパンツを脱いで入ろうとしたら、みんな目をそむけました。ここでも文化の違いを感じました。」

(佐伯)「川の水を、石を積み上げ引き込み水車の原理で石臼を回す。この石臼は考案した人の持ち物だそうです。誰が使ってもいい、引いた粉の少しを袋に入れて使用料として置いていくのが村の掟。山の尾根の部分に山を崩し車が村の近くまで来るように道路が作られてから川の水量が以前に比べ半分になったと聞きました。魚も以前はたくさんいましたが、今は少ないということでした。便利さとは裏腹に村の生活に影響が出ないか心配です。」

「むそう村」のコンセプトにもつながっていますね。本当の豊かさとは何か、考えさせられます。
(佐伯)「朝夕は10度~12度くらいの気温と思うが、村人たちに『いま何度くらいですか?』と聞いても答えは返ってこない。温度計がないからです。ちょっと寒ければ外でたき火をし、みんなで談笑をしてチャイを飲んで一日がゆったりと始まる。日が上ると気温は上昇し25~28度くらいまで上がり暑いくらい。それぞれが今日は何をすると決まっているわけではなく、自分の好きな時間にヒツジの放牧、畑お越し(トウモロコシの播種)先の地震で壊れた住宅の再建、大工仕事、バッファローのえさ(木の葉を捕りに行く)、朝食と夕食は村の女たちがそれぞれ空いている人が当番らしい。朝食は空いている人から9時半10時ころ食べている。そんなにあくせくと働くわけでなく、時にはみんなで議論も交わす。大きな声でけんかをしているかのような喧々諤々な議論もたびたび。とにかく一日がゆったりと成り行きに任せで終わってゆく。自給自足の生活、物とかお金がたくさんあると豊かな生活と思いがちですが、このような生活が本当の豊かさかも知れません。」

表面的な利益を追求するビジネスの世界とは一線を画する世界が、佐伯さんの作る「ビジネス」には存在する気がします。
(佐伯)「北海道にもロングトレイルを造ろうという機運が盛り上がってきています。摩周湖外輪山にはトレイルはありますが、屈斜路湖のカルデラ(外輪山)には歩く道はありません。」

(佐伯)「冬期間、藻琴山から美幌峠までスノーシューで何度か踏破したことがありますが素晴らしい景観です。そこに、いまトレイルを造る案が浮上しています。以前にも、私はセミナーに参加してきました。感想を言わせてもらうと、観光振興のためにトレイルを作る話に終始している感があり、『歩いて旅をする道を造ろう』という概念に欠けているような気がします。人間は、本来は歩かねば脳は退化していくし、大都市圏の人の脳には自然の中を長く歩くという要求があります。まずは、道東に歩く文化を普及させるという大きな目標を持つべきです。その結果の後に観光振興につながるかもという発想の転換が必要です。」

カントなどの有名な哲学者もよく歩きながら、考えていたと言いますね。今後、日本全国で、新しいトレイル事業が続々と企画されると思います。事業を成功させるには何が必要でしょうか。
(佐伯)「某企業では、北根室ランチウェイを活用した企業研修が2017年度から実施されています。2018年からは東京の某企業が社員研修に中標津を訪れています。今後は、サテライトオフィスを開設し、中標津に部屋を確保して若手の開発チームを滞在させ涼しいところで能力をいかんなく発揮できるように企画しています。ほかの企業でも企業研修を短期間ですが実施されました。」

(佐伯)「都会で仕事をする中で、無駄と思われるボーっとした時間がいかに次の仕事にいい影響を及ぼすか、そして自然の中を自分の足で歩く行為がいい発想と想像力を醸し出すか、『歩くこと=考えること』という理解が広まってきたということでしょう。」

(佐伯)「北根室ランチウェイは、大都市圏の欲する要求を満たすべく、たくさんの人が長く歩く旅に訪れるようなりました。国有林、環境省の許可等ハードルは高いと思いますが、ぜひ実現へ向け頑張ってほしい。そして既存の登山道やトレイルに延伸していくことも視野にいれていく。環境省の方との話の中で、自然への負荷を考え50センチの幅の道しか許可しないそうです。50センチの幅の道なら作らないほうがいいと思います。なぜなら、50センチの幅で両方から笹が生い茂ると、どこに道があるかわからないからです。もっと実態に合わせた対応を望みます。」

ゼロからイチを作るというのは簡単にはできません。ただ、不思議なんですが、佐伯さんを見ていると、なんだか、自分にもできそうな気がしてきます。ゼロからイチをつくる、何もないところから、何かを生み出す原動力って何でしょうか。
(佐伯)「もう亡くなってしまったけど小田実(まこと)なんでも見てやろう!が好きでした。何かをやる時に必ず見に行きたい。僕の好奇心が原動力です。」

これまでの佐伯さんの事業を整理すると、どのようなものがありますか。
(佐伯)「①レストラン『牧舎』
②パンスタンド
③マンサードホール
④版画美術館
⑤ギャラリー倉庫
⑥写真館「帰農館」野外アートスペース
⑦KIRAWAY
⑧むそう村
⑨東一条ギャラリー
⑩むそう村キャンプサイト
ざっと数えても10個程度になりますかね。」

「ほかにも、⑪MTB(マウンテンバイク)コース
⑫計画中のサテライトオフィスの建設
⑬野菜畑
とかも入るでしょうか。」

事業を起こすにあたって必要なことってなんでしょうか。
(佐伯)「次世代に何かを残したいという熱量かな」

むそう村のコンセプトは、アフターコロナの時代の生き方や世界が注目するSDGs「持続可能な社会」にも共通していますね。
(佐伯)「佐伯農場がもつ立地条件を活かすワーケーション。ワーケーションとは『働くと遊ぶ』を合体した造語だとか。コロナがあっても何か面白いことができるはずです。焚き火の出来るキャンプ場、マウンテンバイク用のコースも完成しました。自然災害が増えている時代やコロナ禍があっても、やれることはあります。先を見越して、畑地を何にでも活用出来るように高額な測量代をかけ地目変更をしました。総務省の事業で過疎地域への光回線の設置申請もしています。アフターコロナ時代に向けての準備を着々と進行中です。」

(第3章終わり ゼロからイチを作る発想/むそう村の歴史やネパールの歴史から見えてくる本質的な価値/人間にとって根源的・本質的なものとは何か/人があつまるむそう村を含む芸術的空間/現在、そしてアフターコロナ時代・SDGsにもつらなる壮大なストーリー)

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〜第4章~『道』は芸術にもつながる~

(佐伯牧場につくと、芸術が出迎えてくれます。芸術や自然が調和した世界に魅せられ、吸い寄せられて、人が集まってしまう。そんな世界を創り上げてきた佐伯さんに、芸術について聞いてみました。)

ランチウェイは「一つの芸術作品」として成立していると思っていて、芸術家のつながりが、人を呼び、街の魅力につながっていると思います。
(佐伯)「この道を歩きに京都から来たシンガーソングライターTOMOKOさんが、うちにある建物のひとつ『マンサードホール』でひょんなことから佐伯農場のスタッフたちと音楽セッションをしました。道が音楽もつなぎ芸術になる。KIRAWAYスルーハイク後、偶然に宇登呂に行ったときにTOMOKOさんとばったり会って、もう一度佐伯農場に寄って行きなよと声掛けして、お酒が入った勢いでまたもや音楽セッション。TOMOKOさん自作の『ありがとう』という曲がとても気に入りました。僕が詩を書くからTOMOKOさん曲をお願いしました。冬に京都トレイルにトレランのお手伝いに行った際に詩を持っていき、できたのが『みんなの一本道』でした。京都、関西方面でのTOMOKOライブでは『みんなの一本道』を唄ってくれているそうです。」

※編集者注―北根室ランチウェイ公式チャンネル(YouTube)「みんなの一本道」
↓↓↓
https://www.youtube.com/watch?v=JpkSrBrJzDQ

農場にも、芸術作品が沢山おいてありますね。
(佐伯)「佐伯農場にはステンドグラス、彫刻家、版画家、油絵、革製品作家、毛織作家、パステラ画、家内もステンド、僕は抽象の造形をやっています。発表の場として中標津市街に『東一条ギャラリー』もありました。」

(佐伯)「佐伯農場のラウンドマークとして薪を積んで、オブジェにしています。」

佐伯さんの芸術の原点には、どんなことが関わっているのですか。
(佐伯)「父が開拓団でこの地に入植し、開拓者たちの子供たちの教育をする為、開拓農家の一員として農業を営む松本五郎氏に教師をお願いし地元の校長になってもらいました。」

(佐伯)「私の小学と中学の計9年間、同じ校長というのも不思議な縁です。版画や図画教育を主にした西竹小中学校は松本五郎氏が創設したといっても過言ではありません。松本五郎氏は旭川師範学生時代に生活図画事件で不遇の体験をした方です。」

(佐伯)「僕自身、小さい頃の岡山県倉敷市の大原美術館に行きました。」

(佐伯)「それと、佐伯農場は、父の時代1970年代から東京の子供たちの夏キャンプを受け入れていました。多い時には学生、子供合わせて50人以上が佐伯農場の一角に1ヶ月近く生活する体験です。そんな自分が、『むそう村』の人と付き合うようになったのは短大を卒業してからでした。40年以上続く佐伯農場むそう村は、その時々の学部の違う大学生で構成されていましたが、芸術系の学生の影響力が大きかったようです。ちなみに、むそう村が長年引き継いでいたのは摩周湖へのロングハイキングでした。この地に車が普及し始めた頃からもむそう村は歩くことへのこだわりがありました。2005年、北根室ランチウェイという歩く道が生れたのもこれがきっかけです。」

(佐伯)「前置きが長くなりましたが、佐伯農場の敷地内に美術館やギャラリーを開設したのは、先の松本五郎氏やむそう村の人々、そして小さい頃の大原美術館の影響力が少なからずありました。」

(佐伯)「地元に活躍する版画家や恩師、松本五郎氏の作品を展示する『荒川版画美術館』を2002年に開設したのを機に、地元の学校に赴任して子供たちの写真を撮り続けた前田肇氏の写真を展示した『帰農館』や、『ギャラリー倉庫』という施設も開設しました。こちらは彫刻家宮島義清氏との縁によるものです。隣町標津町で創作活動を10年、佐伯農場に展示創作を始めて12年もの間の現代アート作品を展示しています。」

芸術家のつながりも多い。
(佐伯)「我が家に10年以上創作活動する彫刻家宮島義清氏は知っていますか。彼の同期には、岩見沢教育大学の美術教師の坂巻さんがいますね。」

佐伯さんは、若いころに海外に行った経験が、KIRAWAYや今の「むそう村」、美術館開設などの挑戦につながっているということでした。
(佐伯)「若い時、といっても25歳くらいだったかな。『地中海青年の船』という全国から青年を募集し40名くらいの団体旅行に参加しました。1ドル360円に限りなく近い時代に46万円以上の渡航費の半分を町の財政から支出して旅行に行かせてくれました。地中海沿岸の国々を船で訪れ、その地方の文化に触れる旅は私の人生に大きな影響を与えてくれました。当時、欧州に行くには北回り北米アラスカ州のアンカレッジ経由でした。ロンドン、ローマという経路でイタリアに到着。イタリア半島の付け根の部分のジェノバの港町からナポリ、シチリア島、アテネ(ギリシャ)、イスタンブール(トルコ)、イズミール、マルセイユ(フランス)各港に到着するとすべて自分たちで自由にその町を散策します。船の中はたくさん外国人が一緒に乗っています。イタリア語も少し覚えて楽しい時間を過ごしました。芸術の都フィレンツェは特に印象深く残っています。フィレンツェからローマまでの列車の旅も楽しかった。すべての見るものが初めて。数千年の歴史の中に都市が形成され、侵略や戦争を繰り返しながら成熟した国々がそこにありました。歴史、文化、芸術、人々に会い、触れ合ったことが今の自分の財産です。文化活動の支援、美術館、芸術家との接点、北根室ランチウェイという歩く旅のできるロングトレイル、すべてがこの旅が発想の原点になって、佐伯農場の今ある姿はこの旅で培われたといっても過言ではありません。」

佐伯さんも創作活動をしていると伺いました。
(佐伯)「自分も宮島氏の影響で創作活動を始めています。」

富田美穂さんの牛もありますね。
(佐伯)「富田美穂氏の牛版画の作品ですね。荒川版画美術館で常設展示しています。2018年岡本太郎賞の最終選考の一人に選ばれました。昨年度は北海道銀行文化賞を受賞しました。」

(佐伯)「2010年には作家さんたちの作品を販売する目的で、中標津市街に『俵真布(たわらまっぷ)』というアート&クラフトショップをオープンした。後にその二階に『東一条ギャラリー』を開設し、その運営にステンドグラス作家浅沼久美子氏が加わったのもその頃からです。」

※編集者注―「俵真布」は現在、閉店。

(佐伯)「北根室ランチウェイの拠点にもなる佐伯農場内にあるマンサードホールは宿泊もできますが、近隣の酪農家の奥さん方のステンドグラス教室にも使われています。」

(佐伯)「農業、歩くこと、創作活動、一見関係はないように思えますが、それぞれが文化の源みたいなものです。人は歩くことで創造力を養い、芸術作品を見て癒され、天候でその年の収穫物の出来高を知ります。北海道の東の端っこで静かにみなさんを応援できる環境と、人と人とのつながりと出会いを糧に、これからも歩く文化の啓蒙と芸術家の支援をしていきたいと考えています。」

(第4章 終わり 芸術という恒久的価値/芸術が作り出す独特の雰囲気・自然と調和した芸術に魅せられ、吸い寄せられる/ランチウェイの道や風景が一体としてアートを形成している/農場や歩く文化、創作活動はすべてアートの世界/その世界観=面白い地方の未来?)

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〜第5章~事業成熟段階における問題点、課題解決の手法~ 

(課題にぶつかった時、佐伯さんはどうしてきたかを聞きました。ランチウェイを含め複数の事業を複数進めてきた佐伯さんには、挫折もあったはずです。その挫折を解決するには何が重要だったか。本当の課題は何か、教えてもらいました。)

事業を継続するには、やっぱりお金が必要ですよね?
(佐伯)「KIRAWAY事業の費用としては3000万円くらい投資したでしょうか。ただ、事業を継続するにはお金よりも、熱量のほうが大事です。次世代に何かを残したいという情熱。一人でもやれることはいくらでもあります。」

コロナ対策として何か作ったことはありましたか。
(佐伯)「新パンスタンド建設しました。久しぶりの大工仕事、設計図は頭の中で。ワクワクして作りました。進化は最大の武器になります。」

基礎工事もご自身で?
(佐伯)「はい。新パンスタンドは、基礎コンクリートから自分でやりました。コンクリートを練って、型枠に流し込むんです。昔はサイロや牛舎も自分で作った。農業って、秀でた技術は要らないけれど、そこそこなんでも出来る人が生き延びています。」

KIRAWAYについてですが、事業を継続することはやはり大変な道のりですよね。
(佐伯)「毎年春から相当なエネルギーを使って地権者の交渉、草刈り、道標の架け替えをしてこの地域からのKIRAWAYに対する要望事項を解決してきました。春から総延長10km以上の変更をするなどです。酪農家の庭先はすべて通らないルートと農作業に支障がある農道は極力避けるルートを地権者と綿密に打ち合わせ選択しました。率直に、『存続を希望する観光協会や町はどのようにしてこのトレイルが作られているのかを理解しているのだろうか』とは思っていました。」

事業が軌道に乗って新たな問題も発生してきたという事ですか。
(佐伯)「一定の予想はしていましたが、予想以上の問題が発生していました。少ない人数だと勝手にやっていればいいのだろうという段階から、目につく人数になってきたということが実感です。農家さんにとっては、団体が歩いているとこれはなんか変だぞ、これは自分たちにとっては何も得な事がない、作業の邪魔になる、そういう状況になってきてしまいました。そんな状況になっていても、行政に何でもかんでも解決してもらうというという気持ちはありませんでした。私たちの団体に対してきたクレームは出来る限り私たちで対処していくという姿勢が重要です。継続的に農家に対する説得、説明はしていました。現実的には気休めかもしれないですが、消毒槽を作りました。道路標識など自分たちで作っていましたが、相当な費用がかかっていました。観光振興に使うのであれば多少その費用をどこかで捻出してもらえればありがたいとは思っていました。中間のカーヘルパーについては鍵をどこに置くかという問題もありました。開陽台のところに預けておく等が有効ですが、それはできませんでした。ひょんなことから縁があって、旭観光さんにタクシーでやってもらいました。そういう産業が成り立つのはいい事だと思います。また、トランスポート(荷物を次の目的地に運ぶサービス)というサービスをやっていますが、それも例えば運送業者に委託する事で新しい産業が成り立ちます。若い人たちの働き場としてはガイドや宿泊施設が生まれてくればいいかなと思っています。地権者とトレイルを歩く人の熟成が少しずつ進めばいいですが、急に進んでいくと軋轢を生むことにもなります。」

完全閉鎖前に、一度「閉鎖宣言」をしたこともあったんですよね。
(佐伯)「2016 年くらいから町への要望事項として酪農家さんたちからたくさんの怒りが示されました。要望事項の中には、『農作業の邪魔になる』とかマナーの問題とかいろんな問題が提起されました。それも受けて一度、閉鎖宣言をしたのですが、辞めるのも大変だしやるのも大変という状況でした。それだったらあと何年か頑張ってみようということで、再開を決断しました。それでルートを大幅に変更して、酪農家の庭先は歩かないルートで新設してみました。苦情が出たときはすべて対処してきたつもりですが、それでもなかなか酪農家のメリットがないんですよね。こういう農場内では作業車両の後方には近づかないでください。農場主は自分の農場にはどこに何があるか分かっているから後ろもみないでバックしちゃうんですね。人がいたということがたくさんあって、そこでもし事故が起きたらお互いに大変です。」

KIRAWAYでは、クラウドファンディングを成功させたという話も聞いています。
(佐伯)「北根室ランチウェイの道の整備は、自分と高校同期の長正路(ちょうしょうじ)清さんの2人でそのほとんどをやってきました。整備の際に2人で弁当を食べながら『2人であと何年できるかな。このあと誰か受け継いで整備をする人いるかな』『こんなことやる人誰もいないべ』という会話になることが増え、当時は2人とも67歳。『頑張ってもあと2~3年かな』と思い始めていたところです。」

(佐伯)「そんな折、40年程前から佐伯農場に夏になるとキャンプに来る団体『東京むそう村』の一団から連絡が来ました。『自分たちは40年もの間佐伯農場にお世話になってきました。今、都会では北根室ランチウェイのように長く歩いて旅をする需要が年々増えてきている。是非長く続いてほしいと思っています。』ということで色々な方法を考え、支援を申し出てくれたのです。それは高齢な私たちを見かねてのことだったかもしれません。」

(佐伯)「最初、2人ともこの申し出には『みんなの世話にならなくても何とかなるだろう。』と思っていました。しかし、その前年、2人ともちょっとしたところから落ちて怪我をするなど体力の衰えを実感しているところでもありました。そこで二人相談の上、この申し出をありがたく受けることにしたのです。」

(佐伯)「その手法は、『この世界の片隅に』という映画がたくさんの方の出資で映画製作がされたり、いろいろな地域活性化や新商品の開発プロジェクトなどで利用されているクラウドファンディング(不特定多数の人が通常インターネット経由で他の人々や組織に財源の提供や協力などを行うこと)です。今回、国内のクラウドファンディング大手であるサイバーエージェントという会社の「Makuake」というサイトで支援を呼びかける運びとなりました。首都圏応援団は、この手法で資金をある程度調達し、整備や道標の更新等を外部に有料で委託に出すという考え方です。また、首都圏応援団は事務的なことも一手に引き受けてくれました。昨年中から企画書の提出や会社との打ち合わせ等をずっと続けてきて、インターネットで企画を公開しました。自分たちが勝手にやっていることにみんなの力借りることはとても心苦しいのですが、首都圏応援団の考え方に賛同していただき、存続できたことはとてもありがたい体験でした。」

※執筆者注→Makuake(マクアケ)HP:「おじさんたちが拓いた北海道の歩くための道70km『北根室ランチウェイ』を未来に」
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https://www.makuake.com/project/kiraway/

ランチウェイ閉鎖前に、佐伯さんが行政に対する懸念を表明していました。閉鎖が確定した今となっては、非常に重い指摘です。2019年5月5日のフェイスブックへの投稿内容にはこんな記載がありました。
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(佐伯)
「酪農家からの病気の心配、農道の農作業の支障、ハイカーのマナーの問題によるたびたびのルート変更、我が家のマンサードホールの寄付による整備費用の捻出も禁止、酪農家が朝どりの牛乳を無料で飲ますのも禁止、地元保健所の誠意のない対応に苦慮する日々。国民の財産国有林の開放禁止、環境省の国立公園内の道標禁止、西別山小屋の自由すぎる使い方、到着地美留和駅にトイレのないこと、JR北海道の釧網線の便数減、どれをとってもKIRAWAYの魅力を半減する材料ばかり。そして今回のホテル養老牛の廃業で1軒だけの旅館になってしまった。
養老牛温泉、カラマツの湯、西別山小屋のキャンプの禁止
存続するには懸念材料が多すぎる。車社会の当地域において歩く文化を根付かせるには相当無理があると判断せざるを得ない。

一方、この道を歩いて人生観が変わった。
この道のおかげで自分の生きる元気が出てきた。
などなど都市には病んでいる人が相当いることは確かだ。
地方と都市が互いに足りない部分を補うように、日本の隅々まで毛細血管が体の先端までいきとどくような社会が理想だが、地方にはそんな余裕すらないのが現状だ。

もっと言わせてもらうならば2、3年で結果が出るようなことばかり求めすぎる。
観光協会、町、政治の世界も創造力がないことと首長を選ぶ資質の問題。
KIRAWAY 今年で14年目を迎えるが、そろそろ終焉を考える時期かもしれない。」
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KIRAWAYは面白いコンセプトで自然と調和した生き方を広める価値もありました。しかし、現状、完全閉鎖となり、永続的な事業になりませんでした。そこには何か根源的な問いがあるように思います。
(佐伯)「関係する人々に『歩く旅』について医師の疎通ができなかった部分があります。山の管理者、酪農家、周辺施設や行政。多くの人々と関わり、調整を試みてきました。人間が歩いて美をすることの大切さをもっと伝えていきたかったし、理解してもらいたかったのです。どんな生き方をしてもその多様性を認め合う社会であってほしいと願っていました。欧米では歩いて旅をする人たちが一番リスペクトとされています。そういった文化をこの土地でも根付かせていきたかったのです。

(佐伯)「しかし、街の人に『歩く旅』の魅力がうまく伝わらなかったのが大きな誤算でした。」

(佐伯)「ちょっとみなさんに問いかけなんですけど、この道が中標津の町民にとって将来の財産として必要なのかどうかと言うことも考えていただきたい。それからたくさんの人が中標津に歩きに来ることをどう思っているか。そのことが町に有益なのか迷惑なのかそのことを僕は問いたいと思います。海外では歩いて旅をすることが一番尊敬されていると言いました。歩いて旅をすると、その街には『トレイルエンジェル』というのがいて、道ばたにお茶を出したり、町に買い出しに行ったり、そういう文化が育っています。そういう文化を育てるには相当な時間がかかると思います。『歩く旅』がもっともっとリスペクトされるようなことになっていければ、ランチウェイも持続するのではないかと思います。」

2020年10月のKIRAWAY完全閉鎖にあたって、『もったいない』と思っている方が少なからずいます。
(佐伯)「やはり、歩く文化をつくっていかないと存続は難しいのかもしれません。あとは、何がこの地方で必要な資源なのか、官民が共同で考えていく必要があります。」

(第5章終わり 課題に向き合うこと/本当の課題は我々自身の生き方にある/「未来がどうなりますか」という受け身の姿勢ではなく「未来をどう描くか」を主体的に考えること)

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〜第6章〜中標津の歴史と佐伯さんの生き方

(佐伯さんの歴史に触れる前に、まず、中標津町(及び周辺の標津町、別海町)の歴史について、時系列でまとめました。国後島を望む道東沿岸の街である標津町が発展し、その後内陸に開拓が進みました。それが現在の中標津町です。そして、中標津町を開拓したのは、徳島県や静岡県からの移民でした。その移民の中には、国家の政策の下に満州へ渡り、大変な苦労をした方も含まれていました。戦後の食糧難の時期に苦労があり、それが今のこの街に繋がっています。私自身、今回の書籍制作を通じて、初めて知った内容が多くありました。やや長くなりますが、根釧台地の開拓の歴史と佐伯さんの歴史について深めていきます。)

※参考 北海道 標津町 
https://www.shibetsutown.jp/shisetsu/art_culture/po_river/1366/
※参考 北海道別町長郷土資料館
https://betsukai.jp/resources/output/contents/file/release/2202/41678/rekishishizen0.pdf
※参考 “北海道を探しに行こう”をコンセプトにする北海道マガジン「カイ」│特集│「鮭の聖地」の物語~根室海峡1万年の道程
http://kai-hokkaido.com/feature_vol44_story4/
※参考 道庁HP「北海道農業の歴史」
https://www.pref.hokkaido.lg.jp/ns/nsi/nouseihp/topics/agrihistory.html
※参考 白木沢 旭児/「満洲開拓」における北海道農業の役割(札幌大学総合研究第2号(2011年3月)/
https://core.ac.uk/download/pdf/230307229.pdf
※参考 玉 真之介/「満州開拓と北海道農法」/1985/北海道大学農經論叢、41、1-22)
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/10988/1/41_p1-22.pdf
※参考 「中標津町史補完編」中標津町役場
http://www.nakashibetsu.jp/kyoudokan_web/file/inuisekihi.pdf

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時は、約2万年前の旧石器時代、氷河期でした。
マンモスゾウなどの動物が、北から北海道へ移動してきました。この動物を追ってきた人たちが野付(のつけ)郡別海町周辺に住み始めたと言われています。

その後、間はだいぶ空きますが、今から1000年ほど前の中世から近世にかけて、アイヌの人々がポー川周辺に竪穴住居を作成し、集団で生活していました。現在、発見されているくぼみの数は、4400を超えており、その竪穴住居跡は、日本最大の竪穴群=標津遺跡群を形成しています。当時、人々は、この標津遺跡群に集まって集団生活をしていたようです。それは、根室海峡沿岸に残るチャシ跡の存在から推測できます。チャシ跡は、中世から近世にかけての頃、道内各地に暮らすアイヌによってつくられた施設の遺跡です。なお、チャシ(chasi)は、アイヌ語で「砦・館・柵・柵囲い」という意味です。別海町には、8か所チャシ跡が発掘されています。根室海峡は、古代から国境とは無縁の交流の舞台となり、文化風習の異なる人々が絶えず往来を重ねていましたようです。古代北方文化のオホーツク文化の人々もその一つで、最盛期には根室海峡から千島列島を北上し、カムチャッカ半島周辺の北千島にまでその活動範囲を広げていました。

江戸時代(西暦1603年~1867年)に入り、根室海峡沿岸に進出した和人は、当地の鮭の質・量の豊かさに驚き、ここに鮭漁の漁場を拓きます。

18世紀以降、千島列島周辺では、鮭を求め北上する和人と、ラッコの毛皮を
求め南下するロシア人の衝突が繰り返されます。

1789(寛政元)年、飛騨屋の苛酷な使役虐待にクナシリ・メナシのアイヌが蜂起して、支配人・番人・船乗りなど71人を殺害しましたが、松前藩により鎮圧され蜂起の指導者37人が処刑されました。

1792(寛政4年には、ロシア使節ラクスマンが日本との通商を求めて、バラサン・ニシベツ(別海町)に来航・上陸、その後根室へ向かい越冬するなど、こうした状況に幕府は、蝦夷地に強い危機感を抱くようになります。
寛政11年(1799年)幕府は蝦夷地を直轄し、陸路・海路の整備を行います。根室・国後・択捉に会所を開き、野付半島先端部には、国後島へ渡るための要所として野付通行屋を設置しました。

1800(寛政12)年、伊能忠敬がニシベツ(別海町本別海)にて蝦夷地最東端の測量を行いました。また、西別川の鮭を将軍に献上したのもこの年からでした。

1821(文政4)年~1854(安政元)年は、蝦夷地に復領した松前藩の支配する時代となります。

1853(嘉永六)年、アメリカ使節ペリーが黒船で浦賀に来航した同じ年、ロシア使節プチャーチンもまた長崎に来航し、日本列島北辺での国境画定と、ロシア船補給のための開港を迫りました。これを受け、翌1854(安政元)年12月には日露通好条約が締結され、千島列島の択捉島とウルップ島との間に国境が定められました。
それまで明確な境界の無かった蝦夷地が、この条約により二国間で取り決めた国境の内に組み込まれ、「日本」の一部となっていきました。そして1855(安政2)年、江戸幕府は従来松前藩の管轄下にあった蝦夷地を直轄地とし、東北諸藩に沿岸警備を命じます。しかし蝦夷地警備は多大な財政負担を強いることから、警備地を各藩の領地とし、開拓権を与える方向へと転換していきました。こうして1859(安政6)年11月、広大な蝦夷地を分割し、仙台藩、秋田藩、津軽藩、南部藩、庄内藩、そして会津藩に領地として分け与え、各藩分割統治による開拓と警備が始まりました。

1855(安政2)年~1867(慶応3)年は、アメリカ・ロシアへの開国、国境の確定など、松前藩の蝦夷地支配に危機を感じ、再び幕府が蝦夷地を直轄するようになります。

1875年(明治8年)、樺太・千島交換条約
1869年(明治2年)、新政府は、開拓使を設置し蝦夷地を北海道と改称しました。

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海岸から内陸へ
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北海道は、11国86郡に分けられ別海町は根室国野付郡と根室郡の一部となりました。

1878(明治11) 年、北海道開拓使が西別川河口に《別海缶詰所》を開設します。開拓使は、本別海に缶詰工場を設置、缶詰を輸出し外貨を得、漁村に住民を定住させることを目的としていた。

1882(明治15)年 開拓使を廃し、函館、札幌、根室の3県を置きます。

1886(明治19)年 3県1局を廃し、北海道庁を置きます。

1891(明治24)年、西別川に根室水産組合により初めて人工ふ化場が建設され、翌年に標津川、羅臼川、忠類川にもそれぞれ施設が完成しました。

1897(明治30)年、北海道国有未開地処分法により土地の無償貸与・無償付与による大地籍(開墾150万坪・牧畜250万坪)の売り下げにより、別海村内陸部への入植が開始されることになりました。明治30年以降に鮭鱒資源が減少した際、水産業の多角化と共に図られたのが、内陸に広がる広大な根釧台地の開拓でした。

1910(明治43)年、別海村中春別地区に北海道庁根室農事試作場が設置されました。

1910(明治43)年 奥行臼駅逓所が設置されました。別海の《旧奥行臼駅逓所》や標津の《旧根室標津駅転車台》など、根釧台地の内陸交通遺産は、持続可能な産業の確立を目指し、海から大地へと展開した先人達の、内陸の「道」の歴史をいまに伝えています。

※YouTubeチャンネル:umiboze/「20210429奥行臼の国指定史跡と別海町指定文化財」
↓↓↓
https://www.youtube.com/watch?v=sPtnXvkChMI

1911(明治44)年、徳島県民と静岡県民によって構成された「徳静団体」13戸が、中標津へ移住しました。このとき、中標津開拓がはじまります。乾定太郎(1857年~、徳島県出身)もその一人です。

1913(大正2)年以降は、大正十、十二年の豊漁をのぞいて不漁の連続でした。
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まず、佐伯さんのお父さんの話を聞かせてもらえますか。
(佐伯)「父は岡山県牛窓町(現在瀬戸内市)前島というところで大正2年に生まれました。近くに長島というハンセン病の隔離病棟のある島があると言っていました。前妻の実家が岡山の北海道と呼ばれる蒜山高原に近い現在の新見市草間にしばらく住んでいたそうです。井倉という伯備線の駅から丘の上に上る道は細い一本道で曲がりくねった丘の上は開けた台地でした。父はいつ行ったか定かではないですが、妻と二人の子供連れ満州に開拓団として入植しました。満州は肥沃の大地で食料は何でも獲れ、たくさんの日本人が入植したそうです。戦前、日中戦争で占領した満州国は日本の食糧基地として開拓されていったといいます。なぜ、満州に行ったのかは定かではないですが、戦前、食料難の時代少しでも食糧を生産できる土地を求めて外地に出向いた次男坊以下の子供たちです。満州で第2次世界大戦が勃発し、召集され南方には派遣されず満州国で戦いを強いられたようです。この辺のことは父親自身あまりしゃべりたくなかったようで、僕も聞いてはいません。」

(佐伯)「ただ、終戦でソ連軍に捕まり捕虜になりシベリアに抑留されたことはいつも話をしていました。妻子とも生き別れ(妻はソ連軍から追われ逃げ惑う中亡くなったようです)、二人の子供は中国の人に育てられました。いわゆる残留孤児として、しばらくは日本には帰れませんでした。残留孤児の姉と兄の消息が分かったのは昭和45年ころだったと思います。高知の藤田トメイさんという方から姉と兄の居場所を知っていますとの連絡が父のもとに届きました。」

※編集者注―シベリア抑留時の生活がわかるインターネット上の資料として「シベリア抑留の日々」(北海道阿部吉蔵)
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https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/yokuryu/13/S_13_309_1.pdf

(佐伯)「父はソ連シベリア抑留から昭和23年ころに岡山に帰ってきたようです。新見の近くの草間村に帰ってきたら前妻の妹の夫が戦死して草間に暮らしていました。戦死した夫の間に一人の女の子がいた。その女の子は、後に私の姉になります。父は前妻の妹と一緒になり、北海道に入植しました。シベリア抑留では酷寒の地での生活は悲惨な状況だったようだ。寒さと飢えに苦しみ、毎朝何人もの人が死に、冬は永久凍土のような大地に冷凍状態で春まで外で保管をして、春になると50センチも掘れないので、浅いところに死体を並べその上に土をかき集め、おまんじゅうのように盛り土にする、饅頭墓地です。やがて死体は腐って平らになっていきます。父は、戦争のことはあまりしゃべりませんでしたが、シベリア抑留がよほどつらかったのかよく話をしました。あるとき、真冬の北海道で鉄に水の付いた手で触ると鉄に手がくっついて皮がむけてしまう時のように、鉄砲(捕虜で鉄砲を持っていたのが不思議)に雪がついたので舌でなめて落とそうとした時に舌が鉄砲にくっついてしまった話をしていました。隙間風の入る寝室で冬はまともに眠られず立って寝たそうです。昼間の暖かい時に少しだけ睡眠をとる生活。シベリア抑留生活の話も全部は家族に話はしていませんが、それでも戦争のことよりはよく話しました。満州にどうして渡ったのかも詳しく話はしませんでした。満州での妻と生き別れたいきさつも僕にはわかりません。ただ山崎豊子の『大地の子』の小説と同じ運命をたどったことだけは真実でしょう。」

(佐伯)「いずれにしても、先の大戦で戦死したりシベリア抑留の寒さで死んでいれば、また、シベリア帰還後に前妻の妹と出会っていなければ、この世に僕は存在しません。のちに草間村に僕が行ったときに聞いた話ですが、父は、草間村の平坦な大地に満州のような広大な牧場を夢見て構想を練っていたようです。しかしシベリア抑留生活から帰った者に対して冷たく、村の大半の人たちに猛反対にあい、その地で大牧場計画は断念しました。北海道に来たきっかけは、先に父の甥っ子が中標津に入植していたこと。甥っ子はいろいろな事情で岡山にいれない状況で、やむなく新天地北海道を求めました。戦後、食料難、農家の次男、三男は新天地を求めて北海道の開拓団に志望して津軽海峡を渡ってきました。だから北海道は、福島、広島、群馬、新十津川など本州方面の名のつく地名が多いのです。北海道に開拓に入る手段といいますか、この地第二俣落地域に戦前に開拓に入った俣落地区の農家に、まずは実習に入り、そこで実績を積み上げ自分の土地を取得するという方法でした。国から支給される土地は1町、2町(1町1ヘクタール)の土地を自分で大木を倒し、根を掘り起し1反いくらかの開墾補助金を国から支給されます。そうして耕作面積を増やしていきます。父は、甥っ子の家で数年手伝い、運よく荒川の畔のこの第二俣落地域に入植できました。」

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1919(大正8)年 パリ講和会議 ドイツに対する多額の賠償
1923(大正12)年、関東大震災の罹災者救済と、北海道開拓の労働力確保のため国の救済措置がありました。

1924(大正13)年、厚床~中標津間に日本初の殖民軌道が開通しました。

1925年(大正14)年、厚床~標津間の鉄道建設について国会で決議されました。

1925(大正14)年、「中標津の酪農のパイオニア」とよばれる後藤卓三が初めて集乳所を開設しました。

1925(大正14)年 治安維持法施行
1927(昭和2)年、北海道第2期拓殖計画において試験研究機関として旧北海道農事試験場根室支場庁舎の建設が開始されました。当時コンクリート2階建ての建物は道内でも珍しく、見知らぬ土地で心細い思いをする移住者たちに安心感を与える存在でした。この建物は、「伝成館(でんせいかん)」と名を変え、現在も事務所などに使用されています。なお、根釧台地の格子状防風林は、このころ、大正末期から昭和初期にかけ北海道開拓使らによって造林されたものです。

1929(昭和4)年 株価大暴落、世界恐慌へ
1931(昭和6)年 中標津周辺、冷害凶作
1932(昭和7)年 中標津周辺、冷害凶作。畑作を基本としていた中標津周辺の農村は2年連続の冷害により大打撃を受けました。

1932(昭和7)年 標津線工事開始
1933(昭和8)年 「根釧原野開発五ケ年計画」実施。数年続く冷害は、五か年計画策定という運動となり、畑作農業から畜産農業への大転換がなされます。

1933(昭和8)年 厚床~西別の標津線開通。標津線開通を皮切りに、翌9年の西別~中標津、さらに中標津~標津、標茶~計根別、そして昭和12年の計根別~中標津の開通により全線が開通することになりました。昭和初期の冷害凶作により打ちひしがれていた農村にとって、鉄道開通は希望でした。なお、知っての通り、1989(平成元)年、モータリゼーションの影響を受け、全線廃止となります。
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戦争の影響を受ける根釧台地
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1936(昭和11)年2月 2.26事件 政府部内で強固に満州移民に反対していた髙橋是清が殺害されました。政治が軍部主導になりました。関東軍はこの年の5月、「満州農業移民百万戸移住計画(案)」を策定します。
1937(昭和12)年7月 日中戦争
1938(昭和13)年 国家総動員法
1938(昭和13)年12月 「満拓公社が三谷正太郎(石狩琴似)、小田保太郎(根室標津)の2戸の農家を嘱託身分で第1次弥栄村と第3次瑞穂村へ実験農家として入植させることに決め」ます(玉真之介「満州開拓と北海道農法」/1985/北海道大学農經論叢、41、1-22)。

1939(昭和14)年12月 「満州開拓政策基本要綱」の策定。「昭和14年以降における日本国内の食糧の逼迫化によって食糧増産が至上命令となっていた。」(玉真之介、同書18頁)

1941(昭和16)年 満州における北海道農法の採用(行政主導)
1942(昭和17)年 食糧管理法制定
1944(昭和19)年 北海道農業会中標津厚生病院設置
1945(昭和20)年8月 ソ連参戦。満州移民の撤退。シベリア抑留。
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戦後~
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1946(昭和21)年 標津村から内陸部の中標津村(現中標津町)が分村
1947(昭和22)年 中標津、計根別、武佐、開陽、俣落、俵橋、養老牛に新制中学校開校
1948(昭和23)年 村立中標津高等学校開校
1948(昭和23)年 佐伯雅視の父、シベリア抑留から帰国
1950(昭和25)年 佐伯雅視 岡山県において誕生
1956(昭和31)年 町長選挙、尾崎豊氏3代目町長に就任(~昭和45年まで)
1956(昭和31)年 西竹小中学校開校、初代校長に松本五郎氏
1957(昭和32)年 佐伯雅視、同校に入学
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佐伯さんが生まれたのは昭和25年。というと終戦5年後ですよね。生活は大変でしたか。
(佐伯)「僕は岡山県で生まれました。昭和25年生まれの僕が開拓団として昭和30年にこの地に父に連れられて第二俣落地区にきました。」

(佐伯)「この地には俣落小中学校の分校の第二俣落小学校が新生地区にあり、計根別小学校の東西竹分校が須崎牧場の前にありました。その地域に入植した松本五郎氏が東西竹小学校の前身の寺子屋的存在の学び舎に地域の人たちの教育の場として教員として招かれました。」

(佐伯)「昭和31年、この地区の分校を統合してその中心的な北光地区に新しい学校が誕生しました。それが、西竹小中学校です。昭和32年に西竹小中学校に入学した僕は、初代校長の松本五郎さんの9年間、最後の校長でした。」

(佐伯)「小学校時代のことですが、我が家から学校まで3.5km位、冬はスキーで通い、高学年になってから自転車が普及し始めました。今では車で5分も、当時は、30分~40分かけて歩いて通っていました。僕はまだ近い方で片道7km以上ある家もありました。夏は道草を食いながら、春はスカンコ(酸っぱいが美味しい)イタドリの小さい芽も皮をむいて食べました。秋は帰り道、農家の野菜畑の大根やニンジンを失敬していただきました。10月に入るとコクワやブドウが川のふちにたくさんなっています。帰り道に腹いっぱい食べます。コクワの食べすぎは舌(べろ)が切れて痛い、治るのに2、3日かかります。」

(佐伯)「それでも食料難の時代。食べられるものは何でも食べました。春は川の大きさによって釣れる魚の時期が違います、一番先に釣れる川がポン俣落川、上流部は小さい川、ヤマメやユワナがいくらでも釣れました。その次に釣れ出すのが鱒川です。まだ雪のあるうちからスキーを履いて釣りをします。その時期に一番困るのが魚のえさのミミズがいないことです。一番先に目を付けたのが住宅の流し水の排水溝は暖かいお湯を使うのでよくミミズがいました。雪を掘り起し何匹か見つけたときの感動は忘れない。5月の中旬荒川が釣れ始めるとヤマメはいくらでも釣れました。ミミズのエサがなくなると釣った魚の目玉をくりぬいて餌にして釣りました。朝早く出かけてリュックに釣った魚を入れるのだが帰るころには下の魚がつぶれて鮮度が落ちてしまいます。持ち帰り、母にてんぷらに揚げてもらいました。干して保存食にもしていました。」

(佐伯)「今も敷地内を流れる川は荒川というだけあって、毎年大水が出て川の氾濫がたくさん。1m以上の深見もありイトウもたくさんいました。当時、木脇で鏡という道具を造りヤスで突く、ヤスも鉄を熱して戻りカギを造りも手作りです。僕が捕ったイトウの最大は90センチくらいあったかも。イトウは白身の魚で刺身にすると本当においしい。」

(佐伯)「隣のおじさんが猟師なので冬はウサギをよく捕ってくれました。自分でも細い針金でウサギの通り道に罠をかけよく捕りました。『遅くまで寝小便をする奴はウサギの肉を食わせろ』というのは、本当かどうかわかりません。春はヤマドリやシギをよく捕ってもらって食べました。夏は桜鱒がたくさん登ってくるので父と夜に網をかけに行きました。氾濫した荒川は小さな小川がたくさんあり網をかけるのには最適な場所がたくさんありました。夜には一度木の葉がたくさん網にかかるので取り除きに行きます。カーバイトライトと言っていたと思いますが、硫黄みたいな黄色いものを入れてポンプで圧力をかけそこから出るガスに火をつけます。朝早く鱒がかかっていないか見に行くのが楽しみでした。」

(佐伯)「隣のおじさんは熊討ちの名人でした。まだライフルがない時代に散弾銃で熊を仕留めるのはよほど勇気としとめる技術が必要です。あるとき親子熊を見つけ親は撃取りました。小熊は家の庭先に金網を地深く埋めて飼っていましたが、その土を掘り起し逃げてしまいました。熊討ちの一番の目的は熊の胃です。一匹の熊からほんの少し取れるだけ。腹痛や胃薬にいつももらっていました。ほんの少しオブラードでくるみ飲み込む。そのままだととても苦くて飲めません。」

(佐伯)「学校に行く途中に馬小屋がある農家がありました。当時、鶏はどこの農家も放し飼いで飼っていました。学校途中の馬小屋に鶏の産卵場所を一緒に通う同級のA君と見つけいつも失敬させてもらっていました。学校の近くの町田商店で卵一個5円か10円で買ってくれました。そのお金で飴玉やお菓子を手にしていました。また、我が家の川向にMさんという家にはイチゴを川のふちの肥沃な土地にたくさん作っていました。川向から倒木の一本橋からイチゴ畑までイチゴ狩りの道が出来上がっていました。それが見つかり五郎先生の奥さんのミドリ先生にしこたま怒られました。そんな悪いことばかりの子供時代の話は封印しておこうと思っていましたが、この年齢になったら残しておいた方がいいのかと思っています。」

佐伯さんの原点は。
(佐伯)「松本五郎さんは、西竹時代の恩師です。私の恩師松本五郎さんは2020年10月24日100歳の天寿を全うされ、旅立ちました。」

(佐伯)「中学を卒業してしばらくしてから松本五郎先生の生立ちを知ったのは隣の片岡さんのおばさんが妹だったからです。」

(佐伯)「戦前、治安維持法という法律のもとに一般市民の教師たちが思想教育をしたという罪で拘束されました。松本五郎さんは勉強好きだったそうです。俣落にあった本家は旭川師範学校にいれたそうです。松本五郎さんは共産党員でもなく、ただ勉強が好きで旭川師範で学び子供たちの教育のために尽くそうと思った人でした。そこで出会った美術教師、熊田真佐悟先生に絵を教えてもらいました。しかし、なぜか働く労働者や日常の生活風景を描いたのが思想教育とみなされ、熊田先生とその教え子数名は投獄の身となりました。」

編集者注―「獄中メモは問う」作文教育が罪にされた時代(佐竹直子/道新選書)198頁「松本五郎さんは、旭川師範学校在学中の1941年(昭和16年)9月、特高に逮捕され厳しい取り調べを受けた。人々の生活を写実的に描こうと取り組んでいた『生活図画』活動が、治安維持法に違反するとされた(中略)26人が逮捕された生活図画事件は、綴方事件と並び北海道で起きた大規模弾圧として知られる」

編集者注―同書184頁「旭川出身の作家、三浦綾子さん(1922年~1999年)が(中略)綴方事件を題材にした小説『銃口』が、闇に埋もれかけていた事件を広く世に知らしめた」

(佐伯)「三浦綾子さんの『銃口』は作文を書かせて思想教育とみなされ投獄された小説です。松本五郎先生の一番の思い出は炊事遠足や、写生、山登り、川遊び、など自然の中で学ぶことでした。2020年10月24日小学校高学年の時に連れて行ってもらった摩周湖外輪山を僕は仲間と歩いていました。携帯電話に五郎先生の訃報が入った。奇しくもKIRAWAYが誕生したのも五郎先生がこの道に連れてこなければ誕生していなかった道をまさに歩いていたのです。いろいろな思いが脳裏から蘇るその場所で涙が止まりませんでした。1世紀近くを生きた証は僕にとって一番の教えでした。」

佐伯さんと佐伯さんの父親との関係は良好でしたか。
(佐伯)「父はこの地区の世話役のような存在で川向に共同経営の『白樺農場』という群馬県からの団体の牧場がありました。その牧場も4人で共同だったが仲間割れか何かして分裂し、我が家がその牧場の半分くらいの土地を引き受けることになりました。そこにいた山口一布さんというおじさんが、我が家で4、5年は家族ぐるみで働いていました。山口さんは何でも作ってしまう人でした。川に水車を入れて、発電する。電牧の電気、水車を造って賄ってくれました。そんなわけで離農した人が増える中、次々とやめる人の借金を父が背負い土地を取得して一番多い時には160町部(160h)くらいの土地を所有していました。あるとき、毎日新聞の日曜版に当時では珍しいカラーの一面で佐伯農場が全国版で紹介され、あこがれた母とも相性が良かった金輪美代子さんが毎年夏の時期に来ていました。美代ちゃんの知り合いで沢藤巌さんが大自然のなかで子供たちを体験させたいと父に申し出て『むそうの会』が佐伯農場に来るようになりました。たくさんの女性の実習生も来ていました。涼ちゃん、美恵子さんは北海道で酪農家の伴侶として住み着きました。夏の間は牧草収穫。特に乾草を収穫に人手が必要なので、常に4、5人の大学生や高校生が我が家に居候していました。群馬から来た高校生栄ちゃん、毎朝夜明け前にトランペットを吹く子たくさんの人たちによって佐伯農場は成り立っていました。父は民生委員や里親協議会という組織の長もやっていて、我が家には親が酒飲みで全部お金を使って子どもを育てられず、児童相談所に預けられた子供のあっせんもしていました。」

学生時代はどんな生活をしていたのですか。
(佐伯)「僕は酪農学園短期大学2部に進学しました。2部という学部は3年間の期間を要しますが、11月から3月いっぱいの授業で夏場は家業の酪農の仕事をしながら行ける学校です。現在はこの学部はないようです。短期大学といっても農業高校の延長線上のようなもの専門科目は農業高校で学んだことで及第点はとれます。一般教養は、少し勉強をしなければならないのですが、夜は麻雀、昼はパチンコに明け暮れる毎日でした。札幌オリンピックの始まるころで、江別の酪農学園希望寮で冬場は生活していました。オリンピック需要でアルバイトはたくさんありました。当時で一日2、3000円のアルバイト料だったように思います。雪まつりの雪像つくりのバイトにも旧北海タイムスという新聞社が募集するバイトに毎年働いていました。僕の人に使われたのは後にも先にも学生時代だけですね。現在、彫刻作品を手掛けていますが、この雪まつりの雪像つくりが原点なのかもしれません。」

酪農学園短期大学を卒業後はどうしたのですか。
(佐伯)「僕は昭和47年に酪農学園短期大学2部を卒業して家業を継ぐことになりました。」

佐伯さんの手本となる人はどんな人たちでしたか。
(佐伯)「この地区の昭和一桁世代ですかね。僕は昭和47年に酪農学園短期大学2部を卒業して我が家の酪農を継ぐと、父は町議会議員をしていて家にいることは少なく、実習生という形で働いていた人が毎年入れ替わりいたような気がします。中でも長く我が家にいてくれた菅野さん(僕はその時お兄さんと呼んでいた)お兄さんから学んだこともたくさん。我が家の父はこの地区では年配の方で、共同作業があれば、僕が必ず出なければなりませんでした。歳でいうと15歳以上違う昭和一桁世代の人たちと、牛舎の建設や、サイロのコンクリート練を毎年のように作っていました。鉄製の型枠は確か農協かどこかで貸してくれたような記憶があります。型枠を組んで一段づつ時間をかけて積んでいく。最高、6、7段まで積んだら見上げる高さは落ちると速死に至るほどの高さです。ある日、何日か固まったのちに型枠を外す作業で遠藤直行さんがサイロの6段目から型枠ごと中に転落、もうみんな完全に死んだと思ったのですが、運よく型枠のうえに落ちて両足のくるぶしあたりを複雑骨折しただけで九死に一生を得るなんてこともありました。サイレージの詰め込み作業やたい肥の散布作業もすべて共同でやっていました。隣の片岡宅次さんはアマチュア無線やラジオの部品を自分購入し組み立て、カメラが趣味でした。鉄砲も散弾銃を早くから持っていました。晩年はライフル銃で鹿狩りをしていましたね。片岡おじさんがラジオを組み立てて大相撲放送を初めて聞いたのもこのころだったと思います。高度成長期になってトラクターの大型化が進んでも、機械の修理や部品の取り替えは片岡おじさんがすべてやっていました。僕はその傍らでいつも見ていました。

そういう周囲の環境が佐伯さんの物づくりに生きている。
(佐伯)「昭和47年に卒業して帰ってきてからまず一番先に作ったのは、父が作った牛舎にT字型に50坪の牛舎を基礎コンクリートからほとんどみんなに手伝ってもらって自力で作りました。ブロックの積み上げと屋根のトタンだけは本職の人に頼みましたが、それ以外のものはすべて自分です。その牛舎を造ったおかげと、みんなでの共同作業で見よう見まねで建物を造る技術を習得しました。現在のマンサードホールは僕の一番先に作った建造物作品です。地域の大正、昭和一桁世代には自分の人生でたくさんの知識や経験をさせてもらって今があります。父の世代の町の世代にもずいぶん学ぶことが多かった。青年団活動では特徴ある吉沢虎三という公民館長、部下の横内建夫社会教育係(のちの教育長)三ケ田紀夫社会教育係、平松英次青年担当、その方々のおかげで「地中海青年の船」の団員として参加できました。そんなことで社会教育委員会の委員を委嘱され何年かやりました。現西村町長のお母さん西村サダさん、菊池養之助さん、広木正さんも一緒でした。その年代が今の中標津を支えたのも確かだし、いい時代だったのも確かです。戦前戦後を生き抜いた生命力は時代を支える原動力になったことは間違いないと思います。」

佐伯牧場で映画撮影も行われたことがあったと聞きました。
(佐伯)「1970年代、日活映画が全盛期のころ『戦争と人間』という映画のロケが佐伯農場敷地内で撮影されました。旧満州の舞台をこの根釧台地にセットを造ります。釧根開発の先代の社長が『俺が全部準備する』と会社のブルドーザー、ダンプ総動員して全面的に協力して2カ月近くのロケの現場を我が家の父と仕切ったらしいです。『戦争と人間』の原作は、五味川純平の長編作を日活の社運をかけて制作に入りましたが、映画産業衰退の影響で最後のほうは尻切れトンボになったとか。また、ロケハンの弁当は『菊寿司』の石田社長が全部仕切っていました。この地区の人たちは馬を持ってエキストラで参加2か月近くのロケで一日6000円~7000円の馬込みの出演料をもらいました。冬期間収入の少ない中、貴重な収入源だったことは間違いありません。当時の町長は尾崎さんだったか次の村田雄平さんだったかと思います。昭和一桁世代は心意気がありました。先代の広木建設の社長は、北海道農事試験場根室支場(のちの北海道立根釧農業試験場)の付属施設のひとつ、標本や図表を展示する施設『陳列館』を昭和58年に森林公園内に移築復元しました。また、2002年の開館した佐伯農場荒川版画美術館は広木建設の次の社長の万屋氏の一言で建設を引き受けてくれました。」

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1955(昭和30)年代 「根釧パイロットファーム建設事業」
1962(昭和37)年 開陽台展望台完成
1965(昭和40)年代 「新酪農村建設事業」開始。
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「根釧パイロットファーム建設事業」「新酪農村建設事業」を経て、根釧台地は、広大な草原と、冷涼な気候を生かし、日本一の酪農王国へと進んでいきました。
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1972(昭和47)年 佐伯雅視、酪農学園短期大学2部卒業
1974(昭和49)年 「むそう村」開村
1985(昭和60)年 中標津町は国勢調査で人口21、675人に
1989(平成元)年 標津線 全線廃止
1991(平成3)年 「根釧台地の格子状防風林」 北海道遺産に選定
2000(平成12)年 「East Side」(イーストサイド)創刊
2002(平成14)年 荒川版画美術館開設
2006(平成18)年 「中標津に歩く道をつくる会」設立
2011(平成23)年 北根室ランチウェイ全ステージ開通
2013(平成25)年 佐伯農場内キャンプサイト設置
2017(平成29)年 クラウドファンディング300万円達成
2018(平成30)年 酪農家の敷地内ルート全面的に廃止
2020(令和2)年 朝日新聞週刊be「みちのものがたり」掲載
2020(令和2)年10月 北根室ランチウェイの全面的閉鎖を決断
現在に至る
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その後、佐伯牧場ではどんな人との関わりがありましたか。
(佐伯)「1990年、昭和55年ころより日本の法務局の研修制度で中国からの研修生を5年間ほど受け入れました。ほとんどうまくいっていましたが、文化の違う土地に来て日本になじまずつらい思いをさせた研修生もいました。当時は日本で働いたお金の一年分で中国の家族が5、6年生活できるほどのレートの違いがありたくさんの中国研修生が日本に来たがっていました。日本語もかなり堪能で研修中にはほとんど会話に支障はありません。ただ、日本人の僕が中国語を一つも覚える事がなかったのは後悔しています。中でも陳宇華さんは日本で言う外務省のような部署に勤めており日本語は堪能で研修終了後も何度も中国の日本視察団の通訳として来日しています。僕は、兄、姉が中国の残留日本人孤児として中国人に育てていただいた恩返しのつもりで受け入れていました。というわけで、1990年ころまでは常に我が家には他人が同居していました。その後、新しいフリースストール牛舎を新築した時から我が妻と二人で仕事が出来るシステムにしてきました。現在は息子の代に移譲してパートさん一人を雇って少数で仕事ができるような環境を今でも引き継いでいます。それぞれの人たちによって佐伯農場が今まで継続できたのは感謝しているしその時々の人たちは脳裏にこびりつくほど覚えています。」

ランチウェイを立ち上げた頃は、どんな人とのつながりがあったのですか。
(佐伯)「歴代の町長は中標津農協の参事か助役、根室振興局長など行政や農協に関わる人が町長の席に着きましたが、僕が北根室ランチウェイを立ち上げた時は、民間(甘太郎という食堂)からの町長だった西沢雄一町長はずいぶん応援してくれました。道つくりのルートを決めるモニターツアーに3回も参加してくれました。藪漕ぎも一緒にしてくれました。町長室にもいつも招き入れてくれました。僕の一貫した町への思いを一番理解してくれた西沢さんでした。西沢町長時代、町の人口を維持するために移住者をどう取り込めるかという問いに僕の提案は、中標津が標津からだんだん内陸に開発が進み反映してきた町なので、町内でいち早く発展していた中央武佐や上武佐には製材所や合田商店たくさんの人達が住んでいて土地も不在地主だが農地ではなく宅地に分割登記されていました。中標津に来たい移住者を集中的に上武佐に住ませる案を西沢さんに提案したことがあります。地方に若い人が住むのはありがたい話ですが、定年を終え優雅に地方で、しかも郊外で暮らしたいという要望は同じ町民なのに冬場の除雪、高齢になると病院、買い物に行く交通手段すべてリスクのあることです。そこまでして移住者を受け入れても町の財政は圧迫するだけでしょう。宅地に分譲されている上武佐地区に集中して住ませることに西沢さんも理解を示してくれていました。上武佐地区は戦後国後やエトロフからの引揚者のロシア正教のハリストス正教会があるところで、ハリストス正教会はイコン画家の山下リンさんのイコン画が12枚も所蔵されている教会です。NHK除夜の鐘のまえの『ゆく年くる年』で生放送も行われたところです。北村邸は後に北海道重要文化財に指定された建物です。このような保存可能な建物は行政が保存する財政が落ちている現在。民間の力でしか残す方法はないのかもしれません。いずれ、上武佐地区が見直される時が来るような気がしています。」

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〜最終章~道は未来に繋がっている~

(未来は若い世代が作り上げていくといっても、実際どうしたらよいでしょうか。誰かに任せず、民主主義の担い手として自ら考え、自ら形をづくっていくには何が必要なのでしょうか。自ら考え自らいろいろな事業を創設継続してきた佐伯さんの原動力は何なのでしょうか。)

改めて考えると、人間にとって歩くという行為は「生きること」と同義ですね。オフィスワークが多くなり、意図的に歩かないといけない。歩かないということはより生き方ではないように感じます。
(佐伯)「人間は本来歩かねば脳は退化していくし、大都市圏には自然の中を長く歩くという要求があります。この前、一人歩きの女性がKIRAWAYにきました。『女性が一人で歩くなんてとんでもない』という事をこの地域の人からよく言われます。女性に限らず、男性も一人でKIRAWAYを歩きに来る人が多いのはどうしてなのか。たぶんこうです。自分自身のペースで歩ける。一人で黙々歩くことが自分を見つめなおすことができる。一人のほうがより達成感を実感できる。」

(佐伯)「地方がますます疲弊し人口減になる中、都市とどうすれば融合できるかという事は、都会の人に、より自然と向き合う時間を与えてあげることかなぁ~とも思って北根室ランチウェイを作りました。沢山の人混みの中に暮らす都市の人が自分自身と一人で自然と対峙することがいかに必要かを問われている時代だと思います。結果的に地方により沢山の人が来て賑わいを取り戻せたらなおさらいいと思います。ちなみに一人歩きの女性は『スペイン巡礼の道』を歩いた方でした。」

歩く旅は巡礼の旅、つまりもともと宗教的な意味合いが含まれていました。宗教的な聖地巡礼の発想がない場所においては、歩く旅を「文化や哲学」に押し上げる必要があるように思います。
(佐伯)「まずは、道東に歩く文化を普及させるという大きな目標を持つべきです。その結果の後に観光振興につながるという順序が大切です。」

私自身、小さい頃は歩くことに興味がなく、「この中標津の街や周囲の自然の中を歩こう」なんていう発想がなかったのですが、私、今年で36歳ですが、3年前に地元中標津町にもどってきて、改めて考えると、北海道、それも道東における雄大な大自然の中の「歩く旅」「ロングトレイル」は、無限の可能性を秘めていると感じています。

編集者注―摩周・屈斜路トレイルについて→摩周・屈斜路トレイルHP
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https://mashukussharotrail.jp/

編集者注―「摩周・弟子屈トレイル」及び「北根室ランチウェイ」の内容については、このサイトが詳しい。
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TRAILS(トレイルズ)公式
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https://thetrailsmag.com/

「PCTハイカーTONYが歩いた摩周・屈斜路トレイル(前編)」TRAILS(トレイルズ)公式
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https://thetrailsmag.com/archives/42748

「PCTハイカーTONYが歩いた摩周・屈斜路トレイル(中編)」TRAILS(トレイルズ)公式
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https://thetrailsmag.com/archives/42914?fbclid=IwAR3Z_jn9UGDguv302cZOSHFvcKVsWYKGRYEzL7LCJu4vzlFm85Q_g9d9MVc

「PCTハイカーTONYが歩いた摩周・屈斜路トレイル(後編)」TRAILS(トレイルズ)公式
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https://thetrailsmag.com/archives/42998

「NIPPON TRAIL #06 北加伊道・クスリの道 〜【前編】旅のテーマを探りに、道東の屈斜路湖へ」TRAILS(トレイルズ)公式
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https://thetrailsmag.com/archives/20497

「NIPPON TRAIL #06 北加伊道・クスリの道 〜【後編】歩いて漕いで、アイヌの地を松浦武四郎のように旅する」TRAILS(トレイルズ)公式
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https://thetrailsmag.com/archives/20859

「NIPPON TRAIL #07 摩周・屈斜路トレイル + 釧路川 HIKING & PACKRAFTING 〜【前編】美留和 to 砂湯 ハイキング」TRAILS(トレイルズ)公式
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https://thetrailsmag.com/archives/39174

「NIPPON TRAIL #07 摩周・屈斜路トレイル + 釧路川 HIKING & PACKRAFTING 〜【後編】釧路川パックラフティング」TRAILS(トレイルズ)公式
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https://thetrailsmag.com/archives/39176

「歩いてみたいロングトレイル BEST10 by TRAILS research」TRAILS(トレイルズ)公式
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https://thetrailsmag.com/archives/9930

「Hiking Trip With Kids / 北根室ランチウェイ 5泊6日71.4km?」TRAILS(トレイルズ)公式
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https://thetrailsmag.com/archives/6132

(佐伯)「屈斜路湖から釧路川源流部からバッククラフトで下るトレイルも模索していました。以前から提唱している釧路、女満別、中標津空港を結ぶトレイルが現実味を帯びる。トレイルズ編集部が厳冬期に部分的に踏破していると聞きます。トレイルは歩くだけではなく、トレラン、MTB、カヌー、スノーシュー、スキー、自力で前に進む行為により、誰しもが自然と接する機会を多く持つものだと信じます。」

ただ課題も多いんですね。
(佐伯)「日本のトレイル文化が熟成するには相当な年数と多様性を認める社会の形成が必要かもしれない。少なからず二足歩行の人間が長い道のりを歩きとおすという事で精神的にも有効だという事が世の中でコンセンサスを得ないと無理だと思います。ロングトレイルが過疎地域に人を呼び寄せて潤うかというのも疑問だし、町おこし、地域活性化、経済効果のためにロングトレイルを作るのはどう見ても無理があります。世の中にはいろいろな悩みを持ち、病んでいる人もいるのも確かで、その人たちに通行を認めるぐらいの寛容な気持ちを持って生きることも大事です。もしかするとトレイルは精神の病院かもしれないからです。そして、将来の子供たちの自然教育の場として、歩くという事の大事さを教える義務感みたいな気持ちを持っています。」

佐伯さんのフェイスブックによると、KIRAWAYの事業も数度のルート変更に迫られてきました。批判にも屈せず、事業を継続できたのはどんな思いからでしょうか。コロナ禍の影響で、アフターコロナ時代も含めて、観光業には大きなダメージが残るものと思います。しかし、佐伯さんは今も「新しいコト」を始めたり、「新しいモノ」に挑戦し続けています。そのモチベーション・原動力はどこから湧いてくるのでしょうか?
(佐伯)「モチベーションは次世代の子供たちに何かを残せてあげたいのみです。」

(佐伯)「KIRAWAYについては15年の歳月の間に中標津町が『ロングトレイルを基軸に観光振興を』という観光庁の事業がありました。中標津町を知らなくても全国の方々は北根室ランチウェイを知っています。全国でも行ってみたいトレイルの上位にランクされています。もう、広報宣伝活動しただけで全国からたくさんのハイカーが訪れてくれるこのトレイルの魅力を再確認したらと思います。もちろんコロナ禍後に一番先に復活再生するのはアウトドアー関連の観光産業でしょう。現在は、大人のキャンプ場、自然学校『camp site むそう村」』に熱量があるので、あと2、3年頑張ってみます。」

(佐伯)「話は変わりますが、僕は、商標登録、合計5個の商標を持っています。MOANと KIRAWAY、KINOUKAN(帰農館)。次世代の子供たちのために取得しているものです。商標の意味合いは単なる自分のためのものではなく、この町にとって将来、観光や、商品つくりに必ずや必要とされそうなものは商標をとっておくべきだというのが持論です。もちろん、レストラン牧舎や自身の彫刻作家の作品の『てもちぶさた』という名前も登録しています。空港のある町のイメージを植え付けるために何をどう考えるかが空港の優位点を見いだせるかだと思います。」

(佐伯)「カラマツのイエローロード、黄金色の道、開陽台、格子状防風林、ミルクロードなどなど将来のために商標をとっておく必要があるのではと思います。」

(佐伯)「この街には格子状防風林で有名なカラマツ林があります。カナダのバンフー在住の方から聞いた話では、徒歩で何時間も歩いていく黄金色のラーチバレーには、毎年、何千人ものハイカーが訪れる谷だそうです。道東では平地でこの黄金色のラーチ(カラマツ)が堪能できます。季節としては、10月末から11月中旬まででしょうか。観光客の少ない閑散期に人を中標津空港に呼べるアイテムの一つです。」

今の10代の子どもに送るメッセージってありますか。私は弁護士なので、10代や20代の若者が犯罪者集団(オレオレ詐欺の犯行グループなど)に安易な気持ちで入ってしまうのはなぜだろう、というところがありますが、佐伯さんはどのように思いますか。
(佐伯)「難しい設問ですね。あたってるかどうかわかりませんが、自分のやりたい事がないのかもしれませんね。ですから、安易に高校を卒業して一流大学を目指せばその先に何かが待っていてくれるような。」

(佐伯)「僕が今考えているのは、デンマークにあるフォルケホイスコーレ(大人の学校)です。進路を決める前に何カ月でも自然の中に身を置いてみて自分を見つめなおす機会を持てます。そのあとで大学に行くか、自分の好きな専門学校に行くか、それともそのまま就職か考えればいいと思います。」

※編集者注―「一般社団法人IFAS」のHP
↓↓↓
https://www.ifas-japan.com/folke/
(引用開始)「フォルケホイスコーレとは、北欧独自の教育機関」です。「フォルケホイスコーレは、デンマーク流民主主義の基盤を作る『国民学校』です。デンマーク国内に70前後あるフォルケホイスコーレは、17歳以上であれば誰でも入学することができます。大学に進む前に本当に興味のあることが何なのかを探したい人や、職種を変更し新しいことにチャレンジしたい人がフォルケホイスコーレに入学し、自分が学びたい教科を好きに選択して納得できるまで学びます。人生のどんな場面においても、自分を見つけ出すために人々が向かう場所がフォルケホイスコーレなのです。」「フォルケホイスコーレの特徴は、試験や成績が一切ないこと、民主主義的思考を育てる場であること、知の欲求を満たす場であること」(引用終わり)

(佐伯)「コロナ禍後の日本の生活様式、レールのひかれた就職活動、すべてが変わるような気がします。以前にも書きましたが地方に若者が働く環境をつくることを、大人たちが真剣に考えるべきですね。東京の某企業とも、現在、サテライオフィースやワーケーション、研究機関のラボ的なものを佐伯農場の今改築中のクラブハウスでやろうかなんて夢のある話も進行中です。そのような話が具体的に実現していくと中標津に住む若者の夢と希望を与えられるのではと淡い期待を持っています。」

(最終章終わり 未来は若い世代が作り上げていくもの/誰かに任せず、民主主義の担い手として自ら考え、自ら形をづくっていく/そのために何が必要か/原動力は情熱/どのような未来を創るか=それは大人の責任/将来は若い世代のためにある)

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あとがきにかえて(逆質問)

(佐伯)なぜこの企画をやろうと考えたの。久しぶりに将来のことや町の未来を考える若者に出会ったような気がするけれど小田君はどうして僕に興味を持ったのか聞きたい。

(小田)「言葉は悪いですが、中標津って、否定的な意味で、よく『なんにもない』と言われていて、私もそう思いながら、小中高と中標津で生活してきました。その後、札幌や旭川、埼玉県、釧路の生活を経て、2018年、中標津にもどってみると、いつも変わらないこの雄大な自然、が私の原風景で、その美しさや、自然があふれている世界、そこから導かれる精神的な余裕のようなものが、私の一部を構成していることに気が付きました。そして、そんなことを事務所のコラム(http://www.ak-lawfirm.com/column/1181)にも以前、書いていて、数年たって、今年、青年会議所の委員長(会社の事業部長のようなもの)に就任して、改めて、ランチウェイを調べていくうちに、佐伯さんに行きついたのです。佐伯さんとコラボして何か企画ができないかと思いました。私の職業柄いろいろな分野の方に会いますが、『なんにもないを活かす』『自然と調和する社会を作る』という、まずこんな発想ができる方、思考が自由な方ってあまり出会いませんでした。加えて『自然と調和する』なんてのは、言葉にするのは非常に簡単ですが、それを事業として現実化してしまうのは、並大抵のチカラでは足りません。その熱量、エネルギーにびっくりしました。」

(佐伯)若者が「こんな大人になりたい」「こんな爺さんになりたい」と思うようなことを実践すると、より良い町になるような気がするけど小田君は?

(小田)「そうですね。私は、若者の手本となるような中身のある人間かはわかりませんが、『中標津町出身』であっても、つまり、大都市東京から離れている北海道出身の人間でも、かつ、北海道の中心都市札幌から400キロ以上離れている過疎地からでも、『工夫次第で面白いことができる』というメッセージは、届けたい。特に、中標津や弟子屈、別海、根室、羅臼などの道東地方に住んでいる若者は、場所柄、公共交通機関が脆弱で、かつ、高等教育機関も乏しく、他の文化に触れる機会が相対的に低いと思います。そんな若者に『どんな場所でも面白いことはできるんだ!』というメッセージを届けたいと、いつも考えています。」

(小田)「よりよい街にするためには、まずは自分の頭で考えることができる人が多いことが必要条件であると思います。自分の頭で考えるには、やっぱり一番大事なのは、『教育』です。大人は、子どもたちの教育の「環境」を整える責任があります。環境を整えるには、まずは、自分が面白い・楽しい事、そして地域のためになることをやって、人生って、面白いということを身をもって、表現すること、それができれば、若者も勝手に自分で考えて、自分の道を切り開いていけるのかなと思います。」

(佐伯)「反実仮想」という言葉知ってる?もしこうなったら次はこう考える、常に次の事態を想定しておくことなんだけど今の首長や議会議員さんには創造力がないような気がするけど小田君はどう思う?

(小田)「ごめんなさい、今調べました。『プランA』の後に、仮にそれがだめだったときに『プランB』を考えておくことに言い換えることができるでしょうか。コロナの対策でも、医師の書籍で、日本にはいつも『プランBがない』という話が書いてありました。話は飛んでしまいますが、第2次世界大戦で、日本が、アメリカを戦争に巻き込んでしまえば、必ず戦争に負けるという事態は(特に海軍なんかは)わかっていたはずなのに、米国と戦争を始めてしまいました。歴史の本なんかを読むと、当時は、世論、つまり日本国民の大多数が、米国への開戦を支持していたようです。当時も今も変わりませんが、政治家は、当然、大衆迎合的な政策をします。戦争開戦に向けて政治家が意思決定を下すのは民主主義的に見て当然の判断だったという流れになってしまう。政治の世界は、弁護士の世界とは異なり、どうしても、当選のために『人気取り』が必要ですし、選挙で勝てるかは、死活問題ですから、国民の声を無視するわけにはいきません。政治家自身『最善の道は何か?』を考え、明確に「米国との開戦は回避しよう!」と持論を打ち出すことは、当時の世論からすれば、『逃げ腰!』などと糾弾されて、現実的にやりにくかった、という側面があるように思います。」

(小田)「以上を前提にすると(このような時代認識が誤っていたら、ご指摘いただきたいのですが。)、議会議員や首長に何か独自のリーダーシップを期待することは、過剰な要求なのではないか、という気持ちがあります。よく言われることですが、政治家の能力が低いのは国民の能力が低いから、ということで、私も含め、社会や政治に興味を持ち、政治家といわば『一緒になって』プランBを考え、それを発信する、ということが必要なのではないかと思います。SNSは、それを可能にしました。あと必要なのは、市民側が危機感をもてるかですね。『政治家任せ』というのは世界中の国で起こっていることのようですし、結局同じ回答に行き着いてしまいますが、『どうしたら若者に政治に興味をもってもらえるか』、より抽象的には『政治家任せ(=他人事)ではなく、自分事を増やしていくか』、そういう環境をみんなが悩み、考え、構築していく継続的な努力が必要です。そして、やはりそのためには「教育」が重要であると思います。

(佐伯)中標津の若者が今考える「町の将来を担うこと」ってどういうことでしょうか。短期的なことと長期的なことを分けて考えるべきだと思います。小さな積み重ねの上にしか、成功の道は少ないと思います。種をまかねば芽は出ない。成長して実をとりたい人はたくさんいます。

(小田)「どうしても、人口が少なく、他の市町村とも物理的な距離が遠いですから、手に触れることができる身の周りにある『世界』が狭くなりがちです。狭い世界では、自分の殻に閉じこもりやすく、偏狭な自分の世界を『世界のすべて』だと思ってしまい、『井の中の蛙』になってしまうのではないでしょうか。旅をして世界を見る、中標津町以外に街に居住してみる、留学する、そんな選択肢が身近にあれば、自分の『世界』を広げることがもっともっと簡単にできるようになります。もっと若い人が外に出るにはどうしたらよいか。まずは、最低限のお金は必要だと思います。お金がないと基本的には旅に出ることができませんし、外に出る精神的な余裕も醸成されないと思います。そして、好奇心。好奇心が旺盛な人は、いろんな世界に興味を持ち、勝手に自分で学んで、社会の不合理なことを変えようと考え、実践します。町の将来についても、若者を育てることが第一で、その方法論として、この豊かな大自然を生かさない手はないと思います。」

(佐伯)流行りを追った瞬間にビリだと思いますが、地方の人は流行には敏感だよね。「あそこの店料理まずいよね!」そこの店言って食べてみたのって聞いたら「みんなそう言っていた」こんなことがいっぱいのなのです。

(小田)「流行に乗る、というのは、視野が狭いと言い換えられるかもしれません。流行は、いつかなくなるものですから、本当に価値のあるものに目が行きにくいことにつながります。視野が狭いということは、『世界』に閉じこもって、本当の世界を知らないにつながります。一般に、流行に乗っていくと、短期的には価値(利益)がありますが、長期的に見て、本当に価値があるものかは、なかなか判断がつきにくいことが多いように思います。長期的に価値があるものかどうかは、やはり、歴史を見る、必要があります。」

(小田)「全然話が変わってしまいますが、私は好きで、よく世界の歴史の書籍を読みますが、ローマ帝国などの例外を除き、どんなに隆盛を誇った王朝でも、やはり100~300年で、打倒され、新たな王朝が誕生していることが多いのです。日本ががらっと変わったのは、1945年で、現在、70年を経ていますが、また何十年後かに、がらっと変わる節目があるように思います。」

(小田)「今、資本主義や民主主義も、大きな節目の時期に立っていると思います。象徴的なのは、元米国大統領ドナルド・トランプのSNSの発信ですね。不用意なSNSの発信が、支持者により議会の暴力的な占拠を助長しました。民主主義は多数決の暴力に発展することがあり、資本主義も、労働者よりも、資本家が、断然、優位であることは、トマ・ピケティが『21世紀の資本』の中で明快に指摘しています。」

(小田)「現代の流行(トレンド)というのも、資本主義経済の中で生まれては消えるものですが、長い目で見て、価値が続くかどうか、慎重になる必要があると思います。いままで通りの資本主義や今まで通りの民主主義が危うくなってきた時代で、流行に乗ることは非常にリスキーかもしれません。がらっと変わった世界で、資本主義経済的に『正しい』『利益になる』と考えられてきた事が、いつのまにか『正しくない』『金にならない』ものに転換する可能性があるからです。」

(小田)「そんなことを考えていると、『本当に価値のあることを見つける目』を養うことが必要ではないかと思います。いつも同じ話で恐縮ですが、やはり、『教育』が大切です。そして、変化に対応できるチカラをつけること、『ダイバーシティ=多様性』を身に着けていくことが必要です。変化に対応できるチカラを身に着けた人って都会でも地方でも、多くないように思います。おそらくこの街に限定したことではないように思いますが、流行に敏感で、移ろいやすい人が若者の見本となっているか否かは、もっと真剣に考える必要があるかもしれません。」

(小田)「多様性を確保するためには、いろんな世界に触れ、いろんな人に会い、話を聴いたり、本を読んだりして、行動して、失敗を繰り返す中で、『自分の世界だけじゃない』、ということを身をもって知り謙虚になること。謙虚であることは、もって生まれた能力ではなく、後天的に獲得できるものです。ただ、急いで付け加えたいのですが、謙虚であることは『大人のいう事を常にきいて、おとなしくしていること』ではありません。一見、矛盾するようですが、Adoの『うっせえわ』という曲があります。メンタリティー、言い換えると、気概のようなものとしては、この気持ちはとっても重要だと感じています。他人が『良かれと思って』した助言が、本人の足を引っ張ることは往々にしてあります。謙虚でありつつ、自分こそが正しい、自分の夢を潰そうとする外野の声には『うっせえわ』というくらいの気概をもって自分が自分を鼓舞する。子どもから大人に成長するというのは、失敗を繰り返す過程で、『謙虚さ』を獲得しながら、同時に『うっせえわ』という気概を持ち、その両者を上手にミックスしていくプロセスであるのではないかと思います。」

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編集者兼著者小田康夫のあとがき(地元の高校生に向けたメッセージ)

中標津町には大学が存在せず、大学教育は身近なものとはいえません。大学において身に着ける能力は一般にリベラルアーツと呼ばれ、生きるために必要なチカラとされます。AI時代やコロナ禍の不安定な社会情勢の中では、より必要な能力と言えるでしょう。
じゃあ、どうしたらそんなチカラが身につくのでしょうか。大学に行かなければダメなのか。「正解のない」ことってたくさんありますが、それに一定の結論を出し、自分の頭で考えるにはどうしたらよいか。

 大事なのは、本を読み、人に会い、旅に出ることだと、分かり易い歴史書を多数出版している、出口治明さん(2018年~立命館アジア太平洋大学学長)は語っています。「本を読み、旅に出て、人に会うこと」がイノベーションを起こす。

「本・旅・人」の時代。

じゃあどんな本を読んだらよいか。
私は歴史の本がいいと思っています。みなさんが学ぶ教科の中でも、歴史という科目は、定期テストや受験勉強で必要だから勉強するものではなく(それはそれで続けてください。それも大事です。)、自分で物事を考えるために行うもの、自ら一生涯をかけて学ぶべきものです。
歴史を学ぶことで、「物事を相対化する」ことができます。「今ココで問題になっている事を、全体の中でどこに属するか」を位置づけることができます。いま問題になっていることが、どんなベクトルで出てきたか探り、この後、どっちのベクトル方向に進むかを見極めること。「物事を相対化する」は、よく皆さんも聞くフレーズ、「考える」という作業にほかなりません。

話は変わりますが、皆さんは、これから18歳で選挙権を行使することになります。「自分の一票なんて小さすぎて影響がない」「多数決で決める民主主義は面倒」、「カリスマ的な人気者に任せたほうがいい」と考える人もいるかもしれません。実際、大人でもそのように考えている人は多いのかもしれません。しかし、我々の身近にあるトラブルの根本には、インターネットの利用ルールが甘かったり、差別が是認されていたり、つまり「社会の仕組み」そのものが変化せず稚拙なために起こっていることも多く存在します。選挙権は、社会の仕組みをより良い方向に変える権利ですから、ぜひ身の回りのことに関心を持って、権利を行使していって下さい。

ただ、権利行使をするには、社会の仕組みを知っておく必要があります。私もこの中標津高校卒業して、北海道大学に進学し、イロイロなことを学びました。大学ではなくとも、みなさんもできることなら、外の世界に飛び出してください。そして、この街の問題を外にでて考えてみてください。更に、この日本社会を考えるために、海外に行ってみてください。この社会の仕組みがいかに特殊か、微妙なバランスで成り立っているか。外に出ることで、この街や北海道、そして日本社会の仕組みを「相対化する」ことができるでしょう。そして、いつか日本、北海道、この地元に戻ってきて、国や北海道、そしてこの街を元気にする知恵を出してもらえないかなと思っています。

「外の世界に飛び出すこと=旅に出ること」は、物事を相対化する手助けとなるでしょう。

そして、人に会う事。
確かに、人に直接会わずとも、インターネットを検索すれば、情報が山のように出てくるでしょう。
でも、インターネットの情報だけでは、どうしてもどんな人なのか、わかりにくいですし、特に現代のSNSは共感する人達(ファン)と反発する人達(アンチ)の二極化が進み、人の考えのカタチが非常にわかりにくくなっています。インターネットが発達した分、人の情報は容易にアクセスできるがゆえに、インフレとなり、価値を失い、案外、人との接点が失われているように思います。
どこでどんな人に会うかは、その人の生まれや、生き方そのものに左右されます。この街にも、面白いことをやっている人がいます。ぜひこの街で面白いことをやっている人に会って、その人の生きざま、考え方に直に触れてみてもらいたい。

この本が「人」と「人」をつなぎ、何か新しいこと・面白いことを始めるきっかけになれば、編集者としてうれしく思います。

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佐伯雅視のあとがき(地元の高校生に向けたメッセージ)

今の高校生や若者に本を読め、社会のことを理解せよ、選挙に行って自分の意思表示をせよと言ってもかなり無理があるような気がします。

今年71歳になる僕がその時代にどうだったかと考えたら、今の若者は、とてつもなくしっかりしているし自分を持っている人が多いしテレビに出てもまたインタビューに答えてもしっかりとした考え方、受け答えができるのがいまの若者の印象です。

翻ってみて僕の20代のころはどうだったか。
農業の大学といっても季節性の3年行く短大です。夏は自宅の農作業を手伝い、11月から3月までの5か月間だけ行く学校でした。
学生時代といえば、毎日パチンコと夜は麻雀に明け暮れる日々、農業高校を出た僕は農業専門科目が高校と同じレベルなので勉強をしなくても及第点はとれました。普通高校から来た学生は農業専門科目を習っていないので一生懸命勉強していたようです。だから毎日パチンコや麻雀に明け暮れていてもよかったのかもしれません。

札幌オリンピックのころに学生だったので、オリンピック需要でアルバイトはいくらでもありました。中でも真駒内競技場の観客席の椅子の番号を貼るバイトは、当時アロンアルファーという強力な接着剤が出たころで、係員から素手でこの接着剤を触ると病院に行ってメスで指を切り離さないととれないと驚かせられた記憶があります。当時を思い出すと、道庁赤レンガ前のひょうたん池の汚泥の取り除き真冬の行う作業で粘土質の多い土が重くてつらい。雪まつりの雪像つくりのバイトは北海タイムスという新聞社がスポンサーを見つけてきてスポンサーに希望する商品を雪で作る。スキーメーカーのビンデイングを雪で作るのはバランスが左右対称で相当難しい。

のちに、中標津に戻り冬祭りで雪像作りをした際は(昔の体育館の前で行われたイベントでした。)、巨大なスーパーマンを作って皆さんから喝さいを浴びました。今、佐伯農場で創作活動をしています。宮島義清氏と創作するうえで、この雪像作りが役に経っているのかもしれません。

そんな青年時代を思い出すと、20代前半に東京に行って帰ってきたときに東京のデパートで買った流行のシャツを自慢そうに来ていたのを覚えていますし、中標津空港に降りた時に「俺は東京に行ってきたんだぞ」みたいな顔をして降りてきた記憶があります。

そんな田舎者が25歳の冬に地中海青年の船という全国公募の団員に選ばれ、全国の仲間と地中海に3週間の船の旅をしたことがとてもいい経験になったのかもしれません。
ある時、船長主催のダンスパーテイに女性が男性をエスコートできる唯一の日でした。ダンスの踊れない僕は「NONO!」と断りました。
女性が男性を誘って断るのは大変失礼なことだと後で知りました。ブラジルサンパウロから来た女性はその後の船の旅で口もきいてくれませんでした。
田舎から世界に出て文化の違いを思い切り知り、恥をかいてしまったときから僕の好奇心は芽生えたような気がします。

今と違い、青年団活動が盛んな時期で農村青年は4Hクラブという農業改良普及所が取り持つ団体と教育委員会が取り持つ中標津青年団体協議会(中青協)という青年団活動がありました。
僕は中青協という団体に所属していました。
先に述べましたが、当時の公民館長は吉沢虎三さんという名物館長で豪快で自宅に何度もかけマージャンに誘ってくれました。活発な青年団活動の中の公民館の職員とも一緒にお酒を飲んだり養老牛温泉にあった青年の家でのイベントも楽しかった、よい思い出です。
青年の家はユースホステル的な宿で旅行者もいつも泊まっていました。その中の岩手県の遠野市出身の三平広幸君は小清水町止別で民宿「テルテル坊主」、東藻琴に移ってからは「ひこばえ」という民宿を営んでいました。その彼とはいまだに付き合いがあります。彼は中標津にそば打ちを習いに来た目的が東北大震災の仮設住宅の人々にそばを打って食べさせてやりたい一心でそば打ちを習っていました。だから彼の打つそばにはまごころがこもっていると感じます。

そんな関係で東北の震災ボランテイアに大槌、山田町、釜石市などに3年ほど連れて行ってもらいました。彼は震災直後からがれきの処理から参加し、遠野まごころネットのメンバーとして東北を支援してきました。

その後東北の震災復興の証として青森県八戸市から陸中海岸線を福島県の相馬市結ぶ1000km以上の「みちのく潮風トレイル」のフォーラムや応報活動のお手伝いを震災後東北には10回ほど通い続けました。これも三平君という青年時代に知り合った仲から生まれた経験です。

今振り返ってみて、青年活動やいろいろな取り組みの中から僕の人脈が生れ、この年になっても佐伯農場にいながらにして、人が集まり、楽しいことができます。これも経験と実績の積み重ねに尽きると思います。

自分の人生で偉大な大人との接点があったからこそ今の自分があると思います。恩師である松本五郎さんとの師弟関係は言うまでもありません。先の青年時代の公民館長、僕を海外に送り込んでくれた横内建夫のちの教育長などなど。

ひそかにいつも遊びに行っていた武市爺さんは僕の理想とする爺さんでした。趣味は考古学、発掘マニアでもあります。爺さん趣味の部屋にはオホーツク文明時代の土器が数えきれないほどの数の収集をしていました。本棚には考古学の本がずらりと並びます。武市爺さんが寝る部屋には、頭蓋骨まで置いてありました。武市爺さんは古い家を壊す際、電燈やガラスなどなどたくさんのもの(僕のお気に入りの)を我が家に届けてくれました。植物の造詣も深く、我が家の庭の山ブドウや木いちご、ブルーベリーの作り方を教えてもらいました。すべて昭和一桁世代の教えがあり、僕自身が体験して学びました。

先般、孫の同級生が佐伯農場に5,6人自転車で遊びに来ました。我が家の庭や美術館、キャンプ場等を見てものすごく感動して帰りました。わが家の孫が勇一というのですが、「勇一君のお爺さん」ではなく僕の名前で「雅視さん気に入りました。僕と一緒にデートしましょう」とまで言われました。
やはりいろいろなことを取り組んでいると高校生にも何か感じるところがあったかもしれません。かつて、僕が武市爺さんにあこがれたように。

僕は彫刻家宮島義清氏が佐伯農場で抽象作品制作の傍らでいつもお手伝いさせてもらって、僕も創作活動をするようになり、日本芸術アートメダル協会の展覧会に毎年出品して入選を果たしています。2018年に造幣局理事長賞をいただき、東京都美術館に展示されました。そんな関係で僕自身の作品「てもちぶさた」という商品を東京の下北沢のお店で売っています。

その「てもちぶさた」のワークショップ。昔の道立青少年の家(現在はネイパル厚岸、ネイパル北見)の子ども達に依頼され、朝の9時から12時まで3時間休みなしでぶっ通しやるのですが、子ども達は無心でサンダーを使い、木を削り、サンドペーパーで磨く。あっという間の3時間。子供たちが自分で作った「てもちぶさた」を自慢そうに手に喜ぶ姿がとても嬉しく思いました。
昨今、大人の自己満足で子ども達に何かをやらそうとする傾向にある時、子ども達を十分飽きさせないような時間の経過が必要であると思います。それには、とりもなおさず、楽しい生き方、一緒に遊べる大人、このような大人になりたいと思うようなことを実践して見せることでしょう。
僕は若い人に好かれ、なおかつ模範となるような爺さんになれるようにこれからも努力して頑張りたいと思う。昭和一桁世代に物の作り方を習い、僕を世界に導いてくれたり、武市爺さんにあこがれたように。
(この本はおしまい/面白い未来はこれからみんなで創っていく)

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