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話しが違うじゃないか!!!

1998年8月28日。短かったチベット滞在も今日が最後である。明日は日が昇る前には空港へ向わなければならない。朝一の飛行機で成都へ戻るのである。そして翌日には上海に飛び、関空を経由して東京に戻る。チベットに別れを告げるのは名残惜しいが、しがないサラリーマンの夏休みではこれが限界である。今度はいつ、チベットに戻ってこられるのだろうか?最終日の予定として、日本の某大手旅行代理店を通じて中国側にナムツォ行きをリクエストしていた。聖都の空は厚い雲に覆われている。
ナムツォはラサの北190kmにあり、チャンタン高原の東端にあたる聖なる湖である。標高4700m。青海省のココノール(青海湖)についでチベットだけではなく中国でも2番目に大きい塩湖である。周囲には広大な草原が広がり、ヤク、羊、ヤギ、馬がのんびりと草を食んでいる。草原に浮かぶ青い湖の向うにはニェンチェン・タンラ(7162m)に連なる雪山が聳えており、湖の南に突き出すような小さな半島には、修行者が隠遁したという鍾乳洞状の洞窟が蟻の巣のように連なっている岩山がある。また、聖地だけあってこの湖を周る巡礼路(コルラ)もあるのだが、なにせ大きさは70km×30kmもある。一周するのに3週間はかかるだろう。中にはカイラスと同じように五体投地で周る者もいるに違いない。想像を絶する信仰の世界だ。
世界地図を開いてみると、アジア大陸のほぼ中央に、ひときわ濃く茶色に塗られた地域がある。そこがチベット高原だが、チベット自治区に限っていうと、人が定住しているのは南部のヤルツァンポ流域の標高3000m~4000mの地帯に集中している。北西部に広大に広がっているチャンタン高原は平均標高が5000m以上で、人が生活を維持できる限界をはるかに超え、ほとんど無人の湖沼地帯となっている。わずかにその南端にそって遊牧民が夏の放牧地として利用しているのみであり、北極、南極ともに地球第3の極とも言われている。夏でも雪や雹が降り、厳冬期には最低気温は-40度を下回る。なかでもココシリ(可可西里)は現在、中国の動物資源の豊かな地区の一つで、野生動物が230余種も生息しており、その中に国家重点保護動物に指定された1級、2級の野生動物が20余種ある。近年、カシミヤよりも柔らかいといわれるチルーの毛皮を狙った密猟が後をたたず、チルーは絶滅危惧種に指定されている。
チャンタン高原はまた、中国の核開発及び放射性廃棄物投棄の場所としても噂されている。かつて中国の核兵器研究・設計の中心は1960年代にココノール(青海湖)の付近、青海省海北チベット族自治州西寧市の西100kmの海晏県に建設された西北核武器研究設計学院(第9研究所)であった。現在では核開発の中心は他に移転されたと言われるが、第9研究所は今もなお軍事的重要施設として存在しているらしい。第9研究所における核開発の結果、中国は1964年に初めての核実験を成功させた。そして70年代中期までに中国で生産された核爆弾はこの第9研究所が設計したことが明らかにされている。敵対するインドを照準にした数十の核弾頭は青海・ツァイダム盆地に配置されている。当初、核実験の場は新彊ウイグル自治区のロプノール付近やツァイダム盆地であったが、近年、ナムツォの北東150kmのナクチュ(那曲)に移されたと言う証言がある。(確実な検証はなされていないが・・・)また、核開発に伴って発生する高レベル放射性廃棄物も発生地付近の土地や河川に直接投棄されていたが、その投棄場所がチャンタン高原に移されたとも言われている。中国の放射性廃棄物の投棄は安全性を全く考慮されていないために周辺住民に深刻な身体的影響を与えた。それに対して、無人地帯のチャンタン高原はとくに配慮を要しないためか、恰好の投棄場所として選ばれたのだろう。しかも、自国の核廃棄物だけではなく、中国は他国の廃棄物も外貨獲得の手段として受け入れている。1984年、「ワシントン・ポスト」は、ヨーロッパ諸国の原子炉から生み出される「膨大な量の放射性廃棄物の保管」に中国が同意したと報じた。その内容は、中国が16年間にわたり使用済み核燃料4000tを引き取る代償として、最高600万ドルの支払いを受けるというものである。現在建設が進められている青蔵鉄道が完成すると、チベットへの核廃棄物投棄にさらに歯車がかかるだろう。ダライ・ラマは度重なり中国政府に対して、チベットの非核化を訴えるメッセージを発しているのだが、中国は尽くこのメッセ―ジを無視し続けている。
朝9時にホテルに迎えにきたガイドにナムツォ行きを打診すると、
「ナムツォに行くには今日用意した車では行けません。オプション料金3000元が必要になります。」
とぬかしやがった。日本側の代理店を通じて何度もコースに関しては確認しており、最終日はナムツォに行けると思っていた私はここでずっこけた。中国の旅行代理店は自分達の都合で簡単に約束を反故にするとは聞いていたが・・・(とくにラサの旅行会社はひどいという噂もある)。やっぱり来たか・・・噂通りだ。おそらくギャンツェに行くのにシガツェをまわって行ったのが彼等にしては予想外の展開であり、それだけ出費も重なったのだろうが、それはこちらの責任ではない。
「話しが違うじゃないか!!!」
と突っ込みたい気持ちはあるものの、気の弱い私は戸惑った。言った言わないの論争をしても、いまさらしょうがない。中国相手にはちゃんと文章で確約書を交わしておくべきであった。しかし海外旅行が初めての私はそこまで頭が回らなかった。ちくしょう!!!
「じゃあ、ヤムドゥク湖はどうですか?」
妥協案である。駆け引きは得意ではないが(2001年にインドに行ってその辺は鍛えられたが・・・当時は苦手だった)、こちらにも大金を払った言い分がある。せめてもの抵抗のつもりで言ったのだが、相手は頑なだ。
「ヤムドゥク湖へ行くにもオプション料金1000元がいります。」
財布には1000元くらいはあったのだが、ボッタクリ旅行会社の言いなりで払うのは気に食わない。さらなる妥協案としていちおう聞いてみた。
「では、ツルプには行けますか?」
ツルプとはラサの北西70km、トゥールンの西にあるカルマ・カギュ派でもっとも政治的に活躍した黒帽派の総本山である。創建は1189年、カルマパ1世(トゥースム・キェンパ)による。チベット仏教に見られる転生活仏制度は歴代ダライ・ラマやパンチェン・ラマがよく知られているが、元々はカルマパ1世がはじまりである(実際にはカルマ・パクシの化身として選ばれたルルペー・ドルジェからはじまったらしいが・・・)。先代のカルマパ16世は1959年の民族蜂起と同時にシッキムに亡命し、かの地のムルテク僧院を拠点に欧米への布教を熱心に行なった。1981年に亡なった後、1991年に転生者が発見され、中国政府およびダライ・ラマの認定を受け、ツルプ僧院でカルマパ17世として即位した。私がチベットに行った1998年当時、まだ10代の少年で中国政府の保護下(監視下)におかれてツルプ僧院に在籍していたカルマパ17世(ウゲン・ティンレー・ドルジェ)は午後1時から一般謁見を行なっており、カタを奉げると祝福を受けられたらしい。もしかしたら本物の化身に直接会えるかもしれないと期待したが・・・
そのカルマパ17世だが、2000年の正月、彼は中国の厳重な監視を掻い潜ってネパール経由で衝撃的なインドへの脱出に成功する。そのニュースは世界中を駆け巡り、メディアには「転世霊童」「活仏」「ヒマラヤ越え」「中国の宗教政策への打撃」などの文字が踊った。日本のメディアもその事態の大きさに気付いたのか、初めは小さな記事にすぎなかったのが、一面トップで写真入で報じられるようになった。2001年、インドのダラムサラに行った際、ダライ・ラマ即位60周年を祝うテクチェン・チューリンでの式典でダライ・ラマの後に続いて歩く彼を目にすることになる。TCVでも見かけた。
もとあれ、ツルプに行けるかどうかが問題である。しかし悲しいかな、
「ツルプにもこの車では行けません。」
と、言いきられてしまった。こうなってしまうと、もうどうしたらいいのかわからない。ガイドやドライバーに監視されながらラサ市内を巡ってもつまらないし、行きたいところはラサからかなり遠い。しかも第一足がない。仕方がないので最後にこう言った。
「じゃあ、この車で行けるところまで行ってください。そこから先は一人で歩いて行きます。午後の7時に迎えに来てくれればそれで結構です。」

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