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5.浪人時代

高校卒業後、大学受験に失敗した春、中学時代の同窓会があった。高校は卒業したものの、まだ皆そろって未成年である。しかし、誰もそんな事は気にしていない。私も当然のように飲酒した。ほかの連中は会話を楽しみ、料理を食べながら飲んでいるが、私はというと料理にはほとんど手をつけず、ひたすら黙々とビールを胃の中に流し込んだ。その様子は高校時代のクラス旅行の時と変わらない。酔いが回ってくると飲酒のスピードも速まり、当然のように吐き気がしてくる。よく大学生が新歓コンパなどで急性アルコール中毒で病院へ運ばれるが、私はその一歩手前であった。何度もトイレに行って吐いてはまた飲む。同窓会後半はもうそれの繰り返しである。同級生たちの思い出話などもはや聞こえない。すでに強迫的飲酒状態で、飲酒という行動の中に完全に閉じこもっていた。
高校時代にはまだ校則や寮の規則がストッパーになっていたが、卒業と同時にそのタガが外れ、毎日飲むようになった。習慣飲酒が始まったのはこの頃からである。2年間の浪人時代、奈良の実家から大阪の予備校に通っていたが、授業にはたまにしか出席せず、毎日のように大阪や京都、神戸の街をアルコール片手に徘徊し、夜には決まって大阪の戎橋筋にある酒のディスカウントストアに寄っては酒を買って帰り、親の目が届かない自室にこもっては形だけ受験勉強の振りをしながら飲みながら小説を読み漁った。そしていつしか酔いつぶれては眠りこんでしまう毎日だった。
飲んでいたのは、初めの頃はワインが多かった。特に淡いマスカットに似た香りを持つ、フレッシュでフルーティーな辛口の白ワインの「ミュスカデ」がお気に入りだった。ワインを飲みながら文学に耽るというのは、どこかデカダンスでボードレール気取りである。当時好きだったのは、倉橋由美子の「シュンポシオン」だ。シュンポシオンとはギリシァ語である。古代ギリシァたちは床に寝そべり、酒を酌み交わしながら談笑を楽しんだ。その小説の中の登場人物たちもまた21世紀に入って10年がすぎた夏の日の避暑地=半島の海辺にある別荘に集う数組の男女の優雅な〈饗宴(シュンポシオン)〉を繰り広げる。いつかそんな生活ができたら・・・私の理想である。
しかし、そうやってワインを飲み続けるうちにワイン一本では酔えなくなってきた。酔えなくなるともうアルコールではない。そうかと言ってワインを2本も3本も買って帰ると親にばれてしまう。それに空き瓶の処理も面倒だ。そして当然の帰着としてアルコール度数の高い酒を飲むようになった。
初めに好きになったのは1980年代末にリバイバルヒットになっていた明治時代に誕生した、ブランデーベースのカクテルの「電気ブラン」だった。明治の頃は、その度数は当時45度と高く、口の中がしびれる状態と、電気でしびれるイメージとが一致していたため、ハイカラな飲み物として人気を博したらしい。私は電気ブランの味そのものよりも、その「しびれる」という感覚が好きだった。
そうやってどんどんアルコール度数の強い酒を求めて、いつのまにかジンやウォッカを一晩で飲み明かすようになっていった。そして昼間もまたビールを飲む。10代にして連続飲酒の一歩手前まで来ていたような気がする。飲酒には特別な理由付けは必要ないかもしれない。尊敬する作家の中島らも氏はいみじくも飲酒の理由を「ただ気持ちがいいから」と断言した。それはその通りだろう。
しかし、言い訳になってしまうが、この当時、どうしてこんなにアルコールに取りつかれてしまったか考えてみると、高校3年生の頃から受験勉強というものに嫌悪感を抱きながらもそれをしなければならなかった自分の中での矛盾、そして浪人生という中途半端な立場から何とか逃げようとしていた現実逃避の道具としてアルコールを使っていたのだと思う。その証拠に、大学合格後はあれほどアルコールに呪縛されていた生活から解き放たれたように、強迫的に飲酒することはなくなった。だた、毎日飲む習慣は残ったが・・・。

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