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関西NO WAVE

1970年代後半の東京ロッカーズに対して関西NO WAVEというムーヴメントがあった。関西NO WAVEとは今では1980年前後の関西パンク/ニューウェーブ創成期に活動したバンドを総称した言葉として使用されているが、元々は1979年3月に神戸のアーント・サリー(PHEW、BIKKE在籍)、大阪のINU(町田町蔵、林直人在籍)、京都のウルトラビデ〔BIDE(現ヒデ)、JOJO広重在籍〕とSS(しのやん在籍)が行った東京ツアーのパッケージ・タイトルである。この企画の名称「関西NO WAVE」は、ニューヨークのノー・ウェーブからの命名であり、当時すでにメジャーレーベルに注目されて「東京ロッカーズ」「東京ニューウェイヴ」といったオムニバス盤が企画されていた東京のパンク・ニューウェイヴを強く意識していたことがうかがわれる。
アーント・サリーは、1970年代後半に活動した大阪出身のアヴァン・パンク・サイケデリック・ロック・グループである。クリエイティヴを担う中心人物のPhew(ボーカル)が高校時代偶然NHKで放送していたセックス・ピストルズを聴き、同年代の若者によるアンチ・キリスト的な表現にカルチャーショックを受ける。1977年夏に渡英、様々なパンク・バンドを生で観て帰国後の1979年、Bikke(ギター、ボーカル)、片岡(ベース)、丸山孝(ドラム)、Mayu(キーボード)というメンバーで構成された。リード・シンガーであったPhewは、後にDAF、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン、カンのメンバーと仕事をしたことで、アンダーグラウンドな人気を獲得した。一時、活動を休止していたものの、1987年、活動を再開。近藤達郎、大津真らとアルバム『View』を発表。1991年10月21日、恒松正敏・高橋豊・大津真・藤本敦夫 藤井信雄らとアルバム『Songs』発表。1992年にはアルバム『Our Likeness』を再びコニー・プランクのスタジオで制作した。同アルバムは英ミュート・レコードよりリリースされ、同レーベルから作品を発表した最初の日本人アーティストとなった。1994年には大友良英らと「Novo Tono」を結成。1996年にCDを発表した。21世紀に入ってからは、ユニットMOSTとして活動を開始し、2001年にCDを発表。2010年に15年ぶりのソロ名義で初のカバー・アルバムとなる『ファイヴ・フィンガー・ディスカウント - 万引き』をリリース。クラスターのメビウスが楽曲提供し、2012年春、小林エリカと「Project Undark」を結成。ソロやユニットでライブ活動、アルバム制作を定期的に行なう。

INUは1977年、大阪府で当時高校生だった町田町蔵を中心に結成されたバンド「腐れおめこ」が前身で、ローリング・ストーンズやチャック・ベリーなどのオーソドックスなロックンロールをレパートリーとしていたが、1979年にINUへ改名し、セックス・ピストルズに触発されつつ、リチャード・ヘル&ヴォイドイズやパブリック・イメージ・リミテッドなどの影響も受けたポストパンクへと転向した。1981年3月1日に1stアルバム『メシ喰うな!』でメジャーデビュー。結成時のメンバーはヴォーカルの町田、ギターの林直人、ベースの田中 "オショウ" 敬介、ドラムスの西森武史。町田以外のメンバーは一定せず、『メシ喰うな!』発売時は、ギターは北田昌宏、ベースは西川成子、ドラムは東浦真一というメンバーだった。なお代表曲「メシ喰うな!」は腐れおめこ時代からのレパートリーである。INUはパンクというよりもパブリック・イメージ・リミテッドなどのポストパンクを思わせるノイジーで破壊的なサウンドをもって、土俗的かつ脱力的なユーモアのあふれる独特の日本語詞による音楽性を展開したが、デビューから3ヶ月程で解散してしまい、町田は「FUNA」「人民オリンピックショウ」「絶望一直線」「至福団」「愛慾バンド」「天井天国」「淫如上人&ミラクルヤング」「北澤組」「町田町蔵バンド」など新たにバンドを組んでは解散を繰り返しつつ、音楽活動を続けた。INU解散後しばらく経った1984年10月25日、1979年3月25日のINUのライブ音源を収録した2ndアルバム『牛若丸なめとったらどついたるぞ!』が発売された。
町田町蔵のその他の活動としては、本名の町田康で、音楽活動を続けるかたわら、俳優としても多数の作品に出演。1996年には処女小説「くっすん大黒」で文壇デビュー、2000年に小説「きれぎれ」で第123回芥川賞受賞。以後は主に作家として活動している。

ウルトラ・ビデは、1978年に京都で結成された日本のアヴァンギャルド・パンク・バンド。早くから即興演奏などを取り入れ、後のパンク、ノイズ、サイケデリックなどの日本のアンダーグラウンドシーンに影響を与えた。1978年、BIDE(ギター、ヴォーカル)、JOJO広重(ベース)、渡邉浩一郎(キーボード、ヴァイオリン、リード、エレクトロニクスほか)、Taiqui(ドラムス)の4人で「ULTRA BIDE」を結成。大阪難波ギャルソンにて初ライブを行い、1979年、INU、アーント・サリー、SSと4バンド共同で、「東京ロッカーズ」に対して「関西 NO WAVE」として東京で連続公演を行ったが、年内いっぱいで活動を停止した。1980年、INUの町田町蔵 が中心となりリリースされた関西バンドのオムニバスLP『DOKKIRI RECORD』にウルトラ・ビデとして1曲参加。その後、BIDEは「BIDE & VIBRATOR FATHERS」を結成し、コンチネンタル・キッズらとともに京都のライブ企画団体「BEAT CRAZY」などで活躍。渡邉浩一郎はマヘル・シャラル・ハシュ・バズの初期メンバーとしてなど精力的に活動を繰り広げたが、1990年に他界。ソロ・アルバム『まとめてアバヨを云わせてもらうぜ』も発表されている。Taiqui はAin Soph、あがた森魚バンドなどで活躍。そして、JOJO広重はノイズ・バンドの「非常階段」を結成し、アルケミーレコードを立ち上げた。

SSは京都出身のパンク・バンドで、1977年に世界的なブームとなったロンドン・パンクの直接の影響下で活動を開始したもっとも初期の日本のパンク・バンドの一つである。1978年、定時制高校の軽音研に所属していた篠田とトミーが中心となり結成。二人はパンク・ファンジン「チャイニーズ・クラブ」を発行していた。篠田がギターをはじめてまだ半年という段階で京都大学西部講堂で行われた「Blank Generation 東京ロッカーズ in キョート」でライブデビュー、初代メンバーのフリクションに衝撃を受ける。技術力が低くても対抗できる唯一の方策として演奏のスピードを上げることを目指し、ワン・ツー・スリー・フォーの掛け声にはじまり1曲1分足らずで終わる演奏を繰り返すスタイルを編み出す。年末には東京に遠征して、12月23日にS-KENスタジオのクリスマス・ギグに参加、12月31日にも下北沢ロフトで行われた「'78年東京ロッカーズ大詰めラスト・ライブ!!」でこのスタイルを披露、その、いわゆる「初期衝動」に溢れる演奏ぶりは、当時東京ロッカーズのドキュメンタリー制作に携わっていた津島秀明の注目するところとなり、このときのライブが急遽撮影され、2曲が東京の初期パンク・ニューウェーブシーンの記録映画「ロッカーズ」に収録された。


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