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ギャンツェへの道 パート1

1998年8月26日早朝。今日からは、1泊2日の予定で一旦ラサを離れ、ギャンツェへと向う。ホテルの食堂で軽い朝食をとった後、部屋に戻って荷物をまとめると、フロントでチェックアウトの手続きをした。明日の夕方には、またラサに帰ってきて同じホテルに泊まるのだが、部屋をそのままにして行くと余計なホテル代を食ってしまうので、面倒だったが仕方がない。まあ、チベットに持ってきた荷物もそう多くないし、土産物を沢山買ったわけでもない。こちらはバッグ1つの身。いたって身軽だ。
ロビーに出ていくと、例のガイド兼監視役とギャミ(中国人)のドライバーが待っていた。この2人が290kmの道のりをランドクルーザーぶっ飛ばして私をギャンツェに連れて行ってくれる。ドライバーはチベットに到着した時の陽気なチベット人のニマさんに比べると陰気で、始終なんだか不機嫌そうな顔をしている。しきりに唾や痰を吐いていた。
今日のラサの天候は小雨。3人を乗せたランドクルーザーはホテルを出発し、北京西路を少し走るとすぐに西蔵人民大会堂のところを左折、民族路に入る。早朝の薄明かりのなか、右側には拉薩飯店(以前のラサ・ホリディイン)やノルブリンカが並んでいた。突き当りを右折し、今度は金珠西路を東へ進む。この道路は3日前、ゴンカル空港からラサへ来た道で、トゥールン・デチェンの手前でヤンパーチャンから先、青海省のゴルムドへ向う道路(青蔵公路)と分岐すると中尼公路(FRIENDSHIP HIGHWAY)と名前を変える。ここをひたすらまっすぐ進むとシガツェから先、ラツェ、ティンリー(チョモランマベースキャンプへ向う分岐点)、ニェラム、国境の町ダムを経てネパールに入り、カトマンドゥへと道は通じている。ラサ~ダム間はバスならおよそ2泊3日の行程。途中、いくつものチェックポストと5000mを越える峠がある。平均標高4000~4500m。
遠く、霧に霞むデプン僧院を眺めながらしばらく進むと、ラサにくる途中に立ち寄ったネタンの大仏があり、その先に一本の釣橋がかかっていた。橋は水量を増したヤルツァンポ河の支流キチュに飲み込まれており、渡ることは出来ないが、もし、これをわたって6時間ほど山道を歩いて登っていくと有名なニンマ派の尼僧院、シュクセ・アニ・ゴンパがある。ここはかつてチベットで最も知られた女性行者、マチク・ラプドゥンが修行場を開いたところであり、代々その転生化身とされるシュクセ・ジェツン・リンポチェが僧院長を務めている。14世紀前半にこの地を訪れたニンマ派最高の学者ロンチェン・ラプチャンパ(1303~1363)は、チベット密教の開祖パドマサンババ(グル・リンポチェ)が埋蔵したニンマ派の中心教義「ゾクチェン」(大究竟)の「ニンティク」を発掘し、その考え方を「七(宝)蔵」と称する作品群に分けて集成した。それが今のニンマ派の基礎になっている。1959年には700人の尼僧がいたとされるが、今では250人ほどの尼僧が、マチク・ラプドゥンが始めた「チュ―(断つ)」と呼ばれる、自分の精神と身体を切り離し、身体を鬼魔に布施する修行を行なっている。
また、この尼僧院の尼僧も他の例に漏れず、近年チベットで頻発しているデモに参加している。なかでもリンジン・チョーデンの場合、1989年3月8日のデモに参加し逮捕されたが、1週間も経たないうちに釈放された。ところが、彼女がシュクセ・アニ・ゴンパに戻ってきた時は危篤状態で、腎臓は拷問で損傷を受けており、1990年、25歳の若さで死亡した。チベットでの政治犯に対する拷問の巧妙な手口として、体内に傷害を与え拷問の痕跡を見えなくさせるというのがある。体外の損傷をできるだけ少なくし反対に体内の損傷を最大限に高めるよう、拷問者たちが意図的に集中して暴行を与え、損傷がひどく、死に至るとみなされる政治犯は突然、訳もなく釈放されるケースが多い。尼僧に対してはさらに性的暴行も行なわれている。
チュシュ(曲水)に至る道路はあちこちで潅水していた。しかし、まだこのあたりの道路はアスファルト舗装されており、ましな方である。この先、とんでもない道を突き進むとはこの時、予想すらしていなかった。シガツェまでは舗装されているはずなのだが・・・
前日より、もしかしたら通れないと言われていた、カンパ・ラを越えてヤムドゥク湖畔を通る道に向うため、軍人が監視しているチュシュ(曲水)大橋を渡ると、峠から下ってきたトラックに出会った。ガイドとドライバーが車から降りて、トラックの運転手と何やら相談していたのだが、顔つきはいまいちだ。どうやら行けそうにないらしい。車に戻ってきたガイドはいかにも残念そうに、
「ナンカルツェまでは行けるのですが、その先のカロ・ラで道路が完全に崩壊していて、車は全く通ることが出来ません。ギャンツェにはシガツェを回って行くしかありません」
と力なく言った。
私としても、「トルコ石の湖」という名を持つチベット4大聖湖の一つ、ヤムドゥク湖が見られないのは残念なのだが、彼らにしても、当初のルートを通れば近道なのだが、シガツェ経由のルートはラサからシガツェまでが280km、さらにギャンツェはそこから100km近くかかり、かなりの大回りになるため、服務時間の延長(つまり残業)とガソリンの消費を考えれば出来れば避けたかったに違いない。だが道が無いのだから仕方がない。再びチュシュ(曲水)大橋をひき返し、右折して、ヤルツァンポ河沿いの道路を進んだ。
ゴンカル空港の近くでは河川敷が4kmほど広がっていて、ゆったりと流れている大河ヤルツァンポだが、山岳地帯に入っていくにしたがって川幅は次第に狭くなり、流れも轟々たる濁流になっていった。道路は一応舗装されているのだが、崖崩れの土砂が道路を覆っているため、アスファルトは意味をなさない。ランドクルーザーは唸りをあげて土砂の上に出来た轍を突き進んでいく。右手を見れば雲に隠れてはいるがはっきりと雪を頂いた高峰が聳え立っている。V字型に鋭く切り立った谷間に沿って道路は造られているのだが、大きな落石により半分えぐられているところがあったり、谷の上から流れ落ちる水で川が出来ていて分断されていたりしていた。激流が道路を削り取っていて、ほとんど車一台が通れるのがやっとである。崩れているところには墜落防止のフェンスなど無く、ただ赤い色を塗った石を点々と置いて注意を促しているだけである。一歩間違えれば谷底に落ちてしまう。日本であればすぐにでも通行止めになるだろう道路は、ここチベットでは当たり前のことなのか、危うげな応急処置を施した道を何台もの車やバス、大きな荷物を背負ったトラックが平然と行き交っている。しかし、対向車とのすれ違いは大変だ。人っこ一人いない山岳地帯の中、あちこちで渋滞が出来ていた。時間は刻々とすぎていく。

ラサから3時間半ほど経過したところであろうか、かなりの渋滞が出来ていて、車が数珠つながりになってストップしていた。何事かと身を乗り出してみてみると、なんと橋が落ちていた。傍らにはかなり流れの速い小川が流れている。ゴツゴツした石が転がっているその川を渡ろうとしているバスがあるのだが、深みにはまったのか立ち往生している。動く気配はまるで無い。エンジンの音だけが孤独に谷間にこだましている。川の向こうも大渋滞だ。30分ほどたって、ようやくロープで引っ張られてバスはなんとか渡りきったのだが、今度はこちらの車が渡らなければならない。ドライバーは慎重にハンドルを操作する。車に当たる水流と瓦礫石との激闘を続けること数分。車はようやく川を渡りきった。ドライバーはガッツポーズし、ガイドはしきりに彼の功績を称えていた。
ようやく少し開けたところにさしかかると、ここで少し休憩しようということになった。数軒の店が並んでいて、民家も何軒かある。ガイドはさっそくトイレットペーパーを抱えて川沿いに建てられたオンボロ公衆トイレに走りこんだ。そこがどんなトイレなのか興味はあるものの、こちらもかなり疲れている。後部座席に座っていただけだったのだが、恐るべき道路との格闘に継ぐ格闘の連続で身体が少しふらついていたのだ。
車から降りて車体に寄りかかってタバコを吸っていると垢にまみれた服を着たチベット人の兄妹が近寄ってきた。カメラを近づけるといささか緊張した面持ちでポーズする。面白がって相手してやると、兄ちゃんは妹の頭を後ろにそらせた。妹はというとニーッという風に顔をしかめてさらにポーズして見せる。そのお礼代わりに日本から持ってきたカロリーメイトをやると、2人して不思議そうにそれを眺めていたが、見本を示そうと思って私が少し食べてみると、2人は最初、恐る恐る、しかしそれがけっこう美味しかったのだろうか、そのうち貪り食った。普段、あのパサパサのツァンパでなれているはずなのに、口一杯放り込んだカロリーメイトに妹の方は咽を詰まらせてむせっていたのが可笑しかった。
ガイドが戻ってくると車は再び走り始めた。最大の難所は通り過ぎたものの、ギャンツェへの過酷な道のりはこれだけでは終わらなかった。とりあえず、当面の目的地、シガツェへと車は進む。

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