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ギャンツェへの道 パート2

タドゥカというところにさしかかると、車ごと河を渡るフェリー乗り場があって、河向うには、ヌマガン、タクツェを経てヤンパーチェンに行く道路が見えた。これまで通ってきた道路が出来るまでは、ラサからシガツェにいくにはこの道を通っていたらしい。フェリー乗り場の手前、川沿いに新しく再建された僧院の金色の屋根が光っていた。おそらくユンドゥンリン僧院だろう。1834年に建てられたポン教の僧院で、1950年の中国侵攻前にはチベット各地から700人近いポン教僧侶が集まっていたそうだが、今は閑散としている。中国侵攻時と文革の2度にわたって破壊されたが最近になってようやく再建された。どうりで建物は新しい。だが、今は、周囲にポン教徒はほとんど存在しない。
チベットと言えばチベット仏教が有名だが、チベットには仏教が伝えられる以前から信仰されていた民間信仰の集大成があった。それがポン教である。開祖はシェンラプ・ミボ。しかし、いまのポン教の姿は、10世紀前後の混乱期にチベット仏教ニンマ派の教義と習合してできたもので、デプン僧院近くにあったネーチュン僧院の神降ろしのようなシャーマン的要素はない。ポン教徒は15世紀になるとほとんど仏教に近い僧団を結成するようになり、その中心になったのはシェーラプ・ギェルツェンがユンドゥンリンから北へ25km行ったところ、トゥプギェルに1405年に創建したメンリ僧院である。ポン教徒はチベット本土では数少なくなったが、ネパールのドルポにはまだ多くの信者がいる。
険しい山岳地帯を抜けると、車はやや広い平原地帯にでた。ここに来ると、ヤルツァンポの川幅は再び広がり、悠々と流れている。ラサを出たときには小雨が降っていたが、ここでは少し晴れ間も見える。広々とした平原の真中にポツンと小さな小山があり、日光に照らされて輝いていた。遠くにはニェンチェンタンラにつながる山脈が見える。
ふと、河を見ると車が頭から突っ込む形で河に転落していた。それを見たガイドはまたしても「アイヤー!!!」と叫ぶ。ドライバーは見なれているのだろう、平然としていた。
シガツェまでは、あと、およそ80km。ヤルツァンポ南岸の道路は、先ほどまでの山岳道路とは打って変わって、直線道路が多くなり、アスファルトの舗装もしっかり見えている。3人を乗せたランドクルーザーは時速100km近い速度でぶっ飛ばす。途中、何度か橋が落ちていて、そのたびに川原の轍を走ったり、道無き道を突き進んだりしたのだが、もう、その程度のことでは動じなくなっていた。恐るべき山岳道路に比べるとここの道路はまるでハイウェーだ。
地図を見ると、シガツェ空港なるものが示されているのだが、その姿は見えない。民間の飛行機は利用されていない、純粋な軍用空港だ。チベット各地を旅すると、僧院の多さにも驚かされるが、ゴンカル空港にも戦闘機の姿があったように、軍事施設の多さにもビックリする。その理由はたぶん2つあって、1つは国境地帯の国防の要と言う点。南の隣国ネパールとの間には友好関係が築かれているが、インドとの間ではまだ国境問題のケリがついていない。世界地図を見てみると、チベット自治区とインドが接する2ヶ所の国境線が今でも破線で描かれている。国境がまだ確定していないのだ。ブータンの東側、マクマホンライン(インドのアルナーチャル・プラデーシュ州)と西チベットの北に広がるアクサイチン高原。中国・インド双方が領有権を主張している。そしてもう1つの理由はチベットの独立運動をいつでも武力鎮圧する目的。それを象徴するようにラサを取り囲むようにして人民解放軍の基地が点在している。
ハイウェーを1時間ほど走ると、丘の上に城塞が築かれている街が見えて来た。シガツェだ。中央チベットは大きく分けて「ウ」地方と「ツァン」地方に分けられる。「ウ」の中心がラサであるのに対して、「ツァン」の中心がシガツェである。今でもチベット第2の都市である。ただ、ラサの発展に比べるとシガツェはまだ田舎町に見えるが・・・
8世紀後半のティソン・デツェン王の時代に唐の都、長安を一時占領するほどの軍事力を誇って全盛期を迎え、インドのナーランダー大僧院の長老で、インド仏教史上の最高の哲学者とみなされているシャーンタラクシタやウッディヤーナのタントリストであるパドマサンババを招いてチベット最初の僧院、サムウェー僧院を建立するなど仏教文化も華やいだ古代チベット王国(吐蕃)であるが、9世紀前半に最後の王、ダルマ・ウイドゥムテン(ランダルマ)が宰相バー・ギェルトレ・タクニャに暗殺されると王朝は崩壊し、権力は地方に分散される。そして次第に中央チベットの覇権は「ウ」と「ツァン」の間で交互に受け継がれるようになった。1642年にダライ・ラマ政権(ガンデン・ポタン政庁)が成立しても、パンチェン・ラマをトップとする「ツァン」地方はたびたびラサと対立し、その対立関係は19世紀から20世紀にかけてチベット支配を狙ったイギリスと中国に利用された。1959年のチベット民族蜂起が弾圧され、ダライ・ラマがインドへ逃れた後、パンチェン・ラマはお飾り的な存在で全国人民代表大会常務副委員長に祭り上げられ、ダライ・ラマに代わる傀儡としてチベット人心安定に利用されるが、パンチェン・ラマ10世は1989年に亡くなる。その後に引き起こって、今もなお係争中の問題がパンチェン・ラマ問題であるが、それについてはまた別のところで述べることにする。パンチェン・ラマが僧院長を務めていたのが、ここシガツェのタシルンポ僧院である。
シガツェには着いたものの、ここで立ち寄っている暇はない。一刻も早くギャンツェに行かなくてはならないのだ。新市街の人民銀行のある交差点で左折すると、一路ギャンツェに向う未舗装の道をひた走る。
シガツェからギャンツェに向って20kmほど行ったところに、シャル寺という小規模な寺がある。規模は小さいがサキャ派の名刹である。1087年にジェツウンディンジャオジュンネによって創建された。14世紀に招請され管長となったブトン・リンチェンドゥブ(1290~1364)は顕教と密教の両立を求め、生涯を厳しい戒律を守る出家者として送る。また彼は密教を4種類のタントラに分類した。それは今のチベット密教にも受け継がれている。この寺を中心にチベット仏教の新しい展開をはかったため、彼の考え方を継承する人々をシャル派と呼ぶことがある。また、「シャル版」と呼ばれるチベット大蔵経を編集し後世に大きな影響を与えている。チベット仏教を学ぶ上では避けて通れない重要な寺なのだが残念ながら立ち寄っていく時間的余裕は無い。
シガツェからギャンツェへ向う道はヤルツァンポの支流、ニャンチュ河にそって走っている。しかし、未舗装のうえ、至るところで水に浸かっており、その度に道路から離れて荒野を走ったり、水の中を進んだりしなければならなかった。あたりを見渡してみると、チベット一の穀倉地帯であるにもかかわらず、畑は水浸しだった。1998年、長江(揚子江)を襲った大氾濫の影響がチベットにも及んでいることがわかる。途中、ペナム(白朗)という集落があるのだが、そこは1998年当時も水害の被害は大きかったのだが、2000年9月1日付の西藏日報の報道を見ると、2000年にもニャンチュ河が警戒水位を超え、ものすごい勢いで溢れ出したようだ。水量は毎秒650立方メートルに達し、地勢の低い河畔のペナム県では上流から流れ込んできた激流に、120メートル以上に渡って堤が決壊、645戸514人が被災した。被災地区の大部分の家屋は倒壊し、約355ヘクタールにわたって農作物が冠水、深刻な経済損失を被ったとされる。
周囲は5000m級の山々が連なっているのだが、それほど高く感じない。シガツェの標高が3836m。この辺りではすでに4000mを超えている。ここに来るまでにラサで十分高度順化していたのでそれほどの息苦しさは感じられなかった。この山から数キロ奥には小さな僧院が点々として存在する。
時刻はもう夕方の4時になろうとしていた。朝の8時にラサを出発した我々は8時間以上も車を飛ばしていることになる。この車で8時間という数字は日本ではどれくらいの距離にあたるだろうかと調べてみると、大阪~熊本間が約8時間である。大阪から熊本まで行くといえばかなりの遠出に感じるが、チベットは広大である。8時間など、隣近所に行くような感覚だろう。しかし、正直言ってかなり疲れた。
山と山とに挟まれたニャンチュ河流域の穀倉地帯の遥か彼方に少し小高い丘があり、その上に城塞らしきものが目にとまった。ギャンツェ・ゾンである。かつて栄華を誇り、1904年にチベットに侵入したフランシス・ヤングハズバンド率いるイギリスの軍事使節団とチベット軍が攻防戦を繰り広げた舞台である。ようやくギャンツェに着いた。

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