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ギャンツェの歴史

パンコル・チューデ見学後、一度ホテルに帰ったのだが、まだ夕食も食べていなかったし、ギャンツェの町もよく見ていなかったのでもう一度町に出ることにした。
ギャンツェの町はラサ、シガツェ、チャムドに続くチベット第4の都市とされているが、町自体はそれほど大きなものではない。町の構成は中心のロータリーで交差する十字路に沿って住居や商店が並んでいる。2本の大通りはそれぞれ1.5kmほどの長さで、1本はニャンチュ河を渡る橋から北の中学校まで、もう1本は東の第一小学校からロータリーを越えて90度曲がりパンコル・チューデの正門に至る。
歴史を紐解いて見ると、ギャンツェは14世紀、パクモドゥ政権がギャンツェ・ゾンを造り、チベット一の穀倉地帯の農業収入を背景に小王国がつくられたのがはじめである。その後、1418年にラプテン・クンサン・パクパによってパンコル・チューデが創建され、その門前町として発展し、中世・近世を通じて、チベットとシッキム(ガルトク)・インド(カリンポン、カルカッタ)を結ぶ交通と交易の要所として栄えた。
近代に入ると、1899年から1905年までインド総督の地位にあったカーゾン卿は清朝の皇帝を通じたチベット人との交渉を諦め、ラサ政府と直接交渉に臨むべく手段を模索する。そのきっかけとなったのは、ダライ・ラマ13世の側近の一人であり、ツェンニー・ケンポ(因明学大師)もしくはンガワン・ロサンの名で知られたブリヤート・モンゴルの僧ドルジェフの存在である。ドルジェフは碩学の士であると同時にロシア人との間に密接な宗教上の接触を保っていた。一説によると第1回目の入蔵をはたした河口慧海がインドのサラット・チャンドラ・ダースに送った手紙の中で、ロシアからチベットに武器が運ばれていることを書いており、当時中央アジアにおいてロシアと覇権争いを展開していたイギリスを刺激したと言われているが、その真相はわからない。いわゆるグレート・ゲームである。ともかく、カーゾン卿は1903年にフランシス・ヤングハズバンド大佐率いる使節団をチベット向けて派遣した。この動きに対して、チベット側は「兵士であろうと文官であろうとイギリス人は一名たりともチベット領内に立ち入らせてはならない」という国民会議(ツォンドゥ)の緊急決議文を発し、ギャンツェの手前、タシルンポ僧院の管轄にあったカンパ・ゾンで交渉に臨むが決裂。この後、ブータンの仲介もあって何通かの書簡のやり取りがあったものの、両者の主張は交差する。
1904年、イギリスは新に軍事使節団を編成してギャンツェに入り、ギャンツェ・ゾンを拠点としたチベットとの激戦を繰り広げる。チベット側はこれに大敗し、フランシス・ヤングハズバンドはラサに進軍する。その結果締結されたのが英蔵協定である。この協定をもとにギャンツェには通商市場が開かれ、イギリスの通商代表部がおかれる。また通商規定に従って通商市場を保護する目的でイギリス軍がギャンツェに駐屯した。当時、ギャンツェ駐在のイギリス側事務官は、後にチベット学者としてデヴィッド・スネルグローヴと共に「チベット文化史」を記すヒュ―・E・リチャードソンである。後にはラサにもイギリス公使館が設立されることになる。これらは1947年のインド独立と共にインドに受け継がれた。1930年にはギャンツェとパリを結ぶチベット初の自動車道も建設された。しかし、今のギャンツェには当時の繁栄した面影は全く無い。チベットとネパールを結んでいる中尼公路(FRIENDSHIP HIGHWAY)も当初はカンパ・ラを越えてヤムドゥク湖畔を通り、カロ・ラを越えてギャンツェを経ていたのだが、ラサ~シガツェ間のヤルツァンポ河沿いの道が新設されると、ギャンツェは交易や交通の要所から外れてしまい、単なる片田舎になってしまった。
20世紀前半、チベットとイギリス・インドの間では友好関係が築かれ、1945年には戦勝を祝ってインド総督ウェーヴェル卿を通じてインドのイギリス政府に贈答品と祝辞を贈り、またニューデリーの代表を通じてアメリカ合衆国にも贈答品とメッセージを贈った。このように国家間の外交関係を築いてきたにもかかわらず、1949年の中華人民共和国の成立とそれに続く1950年から始まる人民解放軍のチベット侵攻(侵略)に対して、チベットはかつての友好国であったイギリスやインドに救いを求めたが、ことごとく無視される結果となった。唯一、アメリカが救いの手を差し伸べたが公式なものではない。
1951年に強引に締結された17条協定に伴ってチベットは中華人民共和国に併合され、1959年3月の民族蜂起が武力弾圧されると、ギャンツェにも政治犯収容所がつくられる。1960年代前半のギャンツェとその監獄の様子を、1959年に逮捕され、その後31年間を獄中で過ごした僧侶、パルデン・ギャツォはその自伝「雪の下の炎」で次のように述べている。

「私が初めて中国のチベット侵略を目のあたりにしたのはギャンツェであった。そこへ今、その侵略者たちの囚人として戻ってきたのだ。だが、この町には懐かしい思い出もあった。ダライ・ラマのお姿を初めて見たのもここである。監獄は以前、チベット政府の荘園だった。若干の手直しがほどこされたものの、昔ながらの泥煉瓦造りの建物がそのまま監獄に使われている。ギャンツェには二千人以上の囚人がいて、その大半はチベット軍の軍人であった。」
(パルデン・ギャツォ「雪の下の炎」1998年、新潮社)

ギャンツェの町はそろそろ夕暮れを迎えるところであった。ホテルを出たときには周囲の山々にも日が差して光り輝いており、雪をかぶった頂上も見えていたのだが、それも闇に包まれようとしている。町の南北の道を途中まで北に歩いてみた。左手には小高い丘の上にギャンツェ・ゾンが聳え立っている。人通りも段々少なくなってきた。あたりの風景がわびしくなってきたところで引き返し、ロータリーを右折して再びパンコル・チューデの正門の方へ向った。日用雑貨を売る商店は店じまいをはじめており、数軒の食堂が明かりを燈していた。その一軒に入って食べてもよかったのだが、どうも食欲が無い。これも高山病の兆候か?1時間程度ブラブラと歩き回ったのだが、内心、公安の姿がないかどうかちょっとビビッている。ラサの公安が発行してくれた外国人旅行証を持っていたのだが、ここの役人にそれが通用するか不安が残っていた。中国の役人は賄賂欲しさに正当な旅行者でも難癖をつける場合がある。50元程度の袖の下で済めばいいのだが、どうなるかはわからない。中国語はまるでわからないし、ここの役人には英語は通じないだろう。尋問された時のことを考えるとどうしようかと迷ってしまう。まだ、ギャンツェあたりならメジャーな観光地でもあり、外国人(通りを歩いていても外国人の姿は無かった)がいても珍しい風景ではないので危機感を抱くほどではなかったが、西チベットのカイラス方面や、東チベットのカム地方の田舎町になると、警戒も厳しくなり、外国人旅行証を持っていない旅行者はあまり外をうろつかない方がいいだろう。
ホテルに戻る前に、ビールだけは調達しておかなければならなかった。一軒の商店を覗いて見ると、手前のショーケースにはビールが無い。あればそれを指差せばいいのだが、あいにく後ろの棚に置いてある。チベット人の主がニコニコしながら出てきたが、しきりに「ビール!ビール!」と言ってみても通じない。仕方がないので後ろの棚を指差した。だが、なかなか相手はこちらの意図を分かってくれない。3分ほどあれやこれやしてようやく主人はこちらがビールを欲しがっているのが分かったのか、一本出してきた。すかさず「ニー!!!」と言ってみる。このあたり、チベット語と日本語の数字の呼び方が似ているところだろうか?チベット語の「2」は「にー」と発音する。これはすぐにも分かったようだ。主人はちゃんと2本出してきた。500mlが1本5元。日本円で当時80円くらいだろうか?2本もあれば、標高4040mのこの町ではベロベロに酔っ払える。安い!!!
ホテルに戻ると欧米人の団体さんが到着したのか、レストランが賑わっていた。ここで初めて目にする他の外国人宿泊客だが、とくに興味も無かったので早々に部屋へ帰って一人ビールで乾杯する。「チベット万歳!!!」

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