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帰ってきた~

1998年8月30日午前7時。上海へ戻る飛行機の出発時間は午前9時20分だったので、早めに起きて荷物をまとめる。昨日の夜飲んだ甘ったるいワインの酔いが少し残っており、少し気分は悪いがそれはそれで仕方がない。あれはワインというよりもほとんどアルコールの入ったシロップだった。中国のワインに期待するほうが間違っているのだろう。こんなことになるのなら老酒にしておけばよかったが、後のまつりであった。
結局帰りも成都観光はしなかった。成都はチベットへの玄関口であるが、この街はむしろ1000万人の人口を誇る四川省の省都であり、諸葛孔明や劉備玄徳らが活躍した「三国志演義」の舞台として有名である。三国時代には蜀漢の、五代十国時代には前蜀・後蜀の都として2500年の歴史を持つ。「成都」の名のおこりは2400年前にさかのぼり、周代末期、蜀の王が都を郫県からこの地へ移し、その際「1年で市を成し、3年で都を成す」という意を込めて成都と名づけたことに由来する。別名も多く、天から授けられた豊饒の地の意味で「天府」、錦織りが盛んだったことから「錦城」あるいは「錦官城」、また後蜀の孟昶が町の至るところに芙蓉の花を植えたところから「蓉城」「芙蓉城」とも呼ばれている。チベットとの関係で言えば、私が泊っていたホテルがある一還路南四段付近には武候祠の南側200mの武候祠横街と洗面橋横街の十字路あたりにチベット人向けの商店街があるほか、チベット人の多い西南民族学院やチベット自治区政府の成都事務所がある。また、一還路西一段には昌都賓館があり、チベット自治区昌都地区の出先機関が入っており、西門汽車站裏のアバ賓館付近はアムド・チベッタンのたまり場である。
空港行きのバスは市内の西南空港オフィス前から出ているがホテルからは遠かった。荷物を持って歩くには疲れてもいたし、バスの発車時間もわからない。仕方がなくチェックアウトをすませるとホテル前に停車していたタクシーを拾う。数日前、チベットへの「行き」では執拗にチップをせがまれたのでその点を注意して運チャンに何度も料金50元を確認した。「その50元以上1銭も払わないぞ!!!」と脅して助手席に乗り込む。タクシーは人民南路を空港へ向けてひた走った。郊外に出ると日本の企業の工場が立ち並んでいた。朝の通勤ラッシュはもう終わったのか道路は空いていた。約30分ほどで空港に到着。運チャンは値段交渉の際にきつく言っておいたのが効いたのか、チップは要求せず、黙って助手席のドアを開けてくれた。どうやら中国のタクシー事情は必ずしもチップは必要ないのかも知れない。運チャンの人柄にもよるのだろう。そういえば上海のタクシーはちゃんとメーター制になっていると中国の旅行代理店の女性が言っていた事を思い出す。
空港のレストランで軽い食事をとった後、早々に搭乗ゲートをくぐって待合ロビーに向った。暇つぶしに土産物売り場を冷やかしていると、日本人ビジネスマンらしき2人組みが入って来た。おそらく成都郊外の工場を視察しに来たのであろう。そのうちの一人は関西弁だった。酔い覚ましのビールを飲みながら出発を待つ。
上海までの国内線はこれまで乗った西南航空ではなく、四川航空だった。上海までは約2時間のフライト。機体はなんだか古臭い。これで本当に飛ぶのかな?と不安な思いに駆られているうちに難なく離陸した。窓際の席だったのだが眼下は厚い雲に覆われていて景色は見えない。ビールの酔いがまわってきてうとうとしていたのだが、周囲の騒ぎに起こされた。何事だろう?と思って目をやると、どうやら抽選会のようなことをやっていた。フライトアテンダントが箱を取り出して、中に入っている札を読み上げている。搭乗券に書いてある数字と一致したら景品がもらえるらしいのだが、残念ながら私の番号が読み上げられることはなかった。それでも参加賞(?)なのか、「四川航空」と書かれたポーチをもらった。しかし、どこで使うんだよ、コレ?という代物だ。全然嬉しくはない。
上海に着くと待ち時間は4時間ほどあったのだが、上海の街を見に行きたいとは思わなかったので、まだ準備も始めていない「関西」と書かれたJALのカウンターの前で本を読みながら空港を行き来する人々をぼんやり眺めていた。高校時代あれほど興味があった上海であるが、こうして実際に来てみるとなんの感慨も浮かばなかった。何故だろう?中国内陸部の奥の奥、チベットに行った後では大都会に発展した上海には全く異国情緒を感じられない。外灘あたりの景観を見るとレトロな洋風建築が建ち並んでいてそこそこ見所はあるのだろうがもはや興味の対象外になっていた。それでも初めて上海に降り立った時には、初めての異国の地であったため、いろいろな思いが交差したものだが・・・
出発2時間前くらいになると、帰国するのであろう日本のツアー客が集まり出した。それぞれのバックには旅行会社のバッジが付けられている。日本人添乗員も旗を揺らして集合を告げていた。後に並んでいた女性がガイドブックを広げていて「ここ行った?ここは?」と話していたのでどこに行ったのだろうかと覗き込んでみると西安らしい。かつての唐の都長安だ。中国へのツアー旅行の定番はやっぱり西安や北京、上海、万里の長城なのではないだろうか?ちょっと足を伸ばしても敦煌などのシルクロード沿いの地域だ。好き好んでチベットに行く人間はごく少数なのだろう。それは今もかわらないと思われる。
ようやく時間がきたのでチェックインを済ますと、国際線の民航机場管理建設費(CAAC AIRPORT MANAGEMENT AND CONSTRUCTION FEE)90元を払って税関をくぐる。残った人民元を円に換えると残ったのは9000円強だった。団体さんやビジネス客達は免税店でいろいろ物色していたが、なんでわざわざ上海で?というブランド品が並んでいるだけだった。暇つぶしに覗いてみたが私には興味がない。が、いちおう会社のお姉さん方には何かお土産でも買っていかないといけないな~~~と思い、ジャスミン茶を買った。約1000円(だったと記憶する。会社に持っていったらなかなか好評だったが・・・)。
関西空港行きのJL794は思ったよりも空いていた。格安チケットではなく正規料金で乗ったのでさすがにサービスは行き届いていた。「お飲み物はいかがなさいますか?」と聞かれたので迷わずワインを注文する。3年後にインドへ行く時に格安チケットで乗ったエア・インディアとは雲泥の差だ。エコノミークラスであったがビジネスクラスに乗ったような気分だった。1時間20分ほど海上を飛んでいたがそのうち陸地が見え出す。機内食が出たが前の座席に座っていた中国人女性は全く手をつけなかった。フライトアテンダントが何度も確認したがそのまま膳をさげていった。「何か訳ありの来日なんだろうか?」と思いつつ何度か彼女の様子を覗ったが、なにやら物思いに耽っている。午後2時50分に上海を離陸した飛行機は午後5時前には着陸態勢に入り、海上空港の特徴なのだろう、海上スレスレを飛ぶ。遠くには明石海峡大橋が夕陽に輝いていた。
関西空港に到着するとすぐに彼女に帰国の報告をしようと思って公衆電話を探してダイヤルをプッシュするが、まだ仕事から帰ってきていないようだ。留守番電話にメッセージを残してターミナルビルに入っているレストランで夕食をとる。次ぎの羽田行きの飛行機の出発は午後8時55分である。暇つぶしに書店で立ち読みをしていたらチベットのガイドブックの改訂版が出ていた。このガイドブック、あの世界的に有名なロンリープラネットをはるかに凌ぐ情報量である。ネパールのドルポ奥地のトレッキングルートや小さな僧院、インド北部のチベット文化圏ザンスカールの集落の地名までもびっしりと地図に書き込まれている。チベットのガイドブックでは世界一なのではないだろうか?
関西空港で国内線に乗り換えようやく羽田に到着したのが夜の10時過ぎ。もう一度彼女に電話してみると帰っていた。
「いまね、羽田に着いた。無事に日本に帰ってきたよ。お土産も買って来たからね。」
と言うと嬉しそうに喜んでいた。
「早く会いたい!!!お店に来て!!!」
当時彼女が勤めていた浅草の店に迎えに行くことを約束して電話を切った。
モノレールで浜松町、山手線で渋谷まで行って東急に乗り換えて家に着くと12時近かった。明日は朝の8時には出社して激務が再開される。チベットに行く前からとりかかっていた調布の道路設計の数量計算が残っているに違いない。納品前の追い込み作業でまた徹夜が続くだろう。寝ておかなければいつ寝られるかわからないので寝ようとするが、チベットで訪れた町や出会ったチベット人たちの顔が浮かんできては頭を興奮させ、なかなか寝つけなかった。冷蔵庫に入っていたワインのボトルを取り出して、1週間の旅の思い出を肴に酔いつぶれるまで飲んだ。明日はおそらく二日酔いだろう。まあ、いいか・・・
「チベットに乾杯!!!」



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