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ツェチョリン・ゴンパとモモ・ラ

どうやってツェチョリン・ゴンパに行ったらいいのかわからず、集落内をうろうろしていると、一人の老婆が低い柵を乗り越えて私の方にやって来た。顔の皺をみると70歳くらいに見える。チベット人の外見と実年齢はギャップがあるのだが、見るからにいかにも「おばあちゃん」といういい顔をしていた。道に迷っていた私はすかさずその老婆に近づいて、「ツェチョリン・ゴンパ?」と聞いてみた。すると老婆は嬉しそうな表情をして「こっちに来い」という素振りをして、さっき乗り越えたばかりの柵をまた跨いでもと来た道を戻って行こうとした。私を振りかえるとしきりに手招きをしている。「もしかしたら連れて行ってくれるということかな?」と思い、素直にしたがって後に続いた。
老婆は道に沿って植えられている果物に手をかざし、ニコニコしながら
「モモ×××○○○・・・」
と私に笑顔で語りかけたのだが、その意味はわからなかった。
「え、、、モモ???餃子がどうしたんだ?」
当時、私が知っていたチベット語の「モモ」は餃子という意味だ。老婆は餃子がどうしたと言っていたのだろうか?何故餃子なのだろう。
その時は不思議に思いながらも老婆の後に続いて歩いていたのだが、チベットから帰国して日本で本格的にチベット語を学び始めてやっとこの時老婆が口にした言葉の意味がわかった。チベット語の「モ」は「祖母」という意味である。普段は「モ」を2回繰り返し、「~さん」という敬称の「ラ」を付けて「モモ・ラ(お婆さん)」という。ちなみに、おじいさんは「ポー・ラ」。お母さんは「アマ・ラ」(これは知っていた)、お父さんは「パー・ラ」である。チベット語(文字)の綴りは確か違っていたと思われるが、餃子の「モモ」とお婆さんの「モモ」を聞き間違えて混乱したのは無理もないだろう。微妙に違うのかも知れないが、日本人の私にはほとんど同じ発音に聞こえたのだから・・・
「そうか、あの時、おばあちゃんは自分がツェチョリン・ゴンパに連れって行ってあげるという意味のことを言っていたんだな。」
と、数年後になってようやく理解した。もっとチベット語を学んでおくんだった・・・
しばらくモモ・ラと一緒にのどかな道を歩いた後、彼女は一つのラカン(お堂)を指差して、「あそこだよ」というようなことを口にして私に「行け」と言っている。私は感謝の気持ちで手を合わせて「トゥジェチェ(ありがとう)」と言って彼女と別れた。
ラカン(お堂)の側では飼い犬が激しく吠えていたが、恐る恐る門の中に入っていった。扉が閉まったお堂が一つあり、その傍らには僧侶の住まいがあった。扉は開け放たれており、一人の僧侶が夏で暑かったためか上半身裸で涼んでいたのだが、私が入って来たのに気付くと急いで僧衣を着て表に出てきた。私が手を合わせてお堂を指し示すと、頷いてお堂の鍵を開けてくれた。どうやら勤行の時以外は扉を閉ざしているようだ。
内部は10畳くらいの広さで、馬頭観音の仏像が一体あり、壁には仏画や曼荼羅が掛けられていた。馬頭観音に2元の喜捨をして拝んだ後、仏画を眺めていると、パドマサンババのタンカが目に付いたので、「グル・リンポチェ?」とさりげなく聞いてみると、若い僧侶は「そうだそうだ」と頷いた。隣に飾ってあったパンチェン・ラマ10世の写真を指差して「パンチェン・リンポチェ」と教えてくれると、その他の仏画についてもいろいろ解説してくれた。しかし、こちらはそのチベット語がわからない。しばらくその意味のわからない解説を聞いていたのだが、ふと、「ギャワ・リンポチェ(ダライ・ラマ)は?」と聞きそうになって慌てて口を噤んだ。中国当局の監視があるのでダライ・ラマの写真は当然見当たらない。以前はあったのかもしれないが、ラサの他の寺院・僧院同様撤去されたのかもしれない。若い僧侶にもいろいろ事情があるのだろう。あえて聞いてみようとは思わなかった。こういう場合、そっとしておくのが一番だ。
一通り小さなお堂の見学を終えて外に出ると、鍵を掛けなおした僧侶にお礼の意味で10元を手渡した。僧侶は驚いた様子でしきりに頭を下げていた。その姿は謙虚そのもので、観光地化された他の大僧院の僧侶と比べるとその違いは大きかった。
ツェチョリン・ゴンパと聞かされていたラカン(お堂)を後にして、私はのんびり小道を歩いて下りて行った。しかし、どうもあそこはツェチョリン・ゴンパではないのでは?と気になって仕方がない。ツェチョリン・ゴンパと言うと、1959年の民族蜂起弾圧後、チベット政府が解散させられるとその権威は失ったものの、かつてはダライ・ラマの摂政を輩出したリン・シ(四林)の一つである。まさかあの小さなラカン(お堂)がそれに当たるとはとても思われない。チベットに行った1998年以来、ずっと疑問に思っていたが、最近になってそこがツェチョリン・ゴンパではなく、ソンツェンリンという小さなラカン(お堂)であることがわかった。ツェチョリン・ゴンパはその側にあったらしい。現在も18人の僧が在籍しているそうだが、かつての栄華はもはやない。しかも、その僧侶達も中国政府の宗教活動への制限が厳しく、「自宅待機」の状態になっているそうだ。近所の人たちも、いつ密告されるかわからないから、おちおち寺参りにも来られないという。悲しいかな、それが今のチベットの現状である。
山を見上げてみると隣り合った2つのピークにルンタ(タルチョー)が掛け渡されているのが目にとまった。目の前の小高い丘の上ではチベット人の夫婦と思われるカップルが子供を連れて日向ぼっこをしている。のんびりしたいい眺めだと思ったが、目の前には人民解放軍の大きな施設が厳しくその姿を誇示していた。のどかな風景と、それを威圧するかのような近代的な軍事施設。そのギャップがいかにもチベットらしい。
待ち合わせの時間までまだ少し時間があったので私も草地に座り込んでボーッとしていると、手前の民家の壁に凭れかかって世間話をしていた2人のモモ・ラが私の姿を見つけて、「こっちへ来い」と言って手招きした。近づいていくと、「フォリナー?フォリナー?」と知っているわずかな言葉(英語)で私が外国人であることを確認した。「そうだ」と頷くと、すぐさま「ダライ・ラマ!!!」と手をさし出して物欲しそうな仕草をする。「やっぱり来たか」と思い、バックに入っていた「チベット通信」をとり出して手渡した。東京のダライ・ラマ事務所が発行している小冊子だ。表紙にはダライ・ラマ14世が合掌して微笑んでいる写真が載っている。受け取ったモモ・ラはそれを額にあてると嬉しそうに隣のモモ・ラとなにか語り合っていた。ダライ・ラマの写真に手を触れて何度も「ダライ・ラマ」と繰り返した。立ち去ろうとすると、もう一人のモモ・ラも手をさし出して「私にもおくれ」というふうに私の袖を掴んだ。「仕方がないな~~~」と思いながらもう一冊を手渡した。2冊持ってきていてよかった。
チベット人は中国の厳しい監視と思想教育、ダライ・ラマ批判にもかかわらず、今でもダライ・ラマを慕っているのがよくわかる。しかし、安易にダライ・ラマの写真をあげることは危険だ。ばれなければどうと言うことはないのだが、万一ばれればおそらく私は強制送還になったかもしれない。受け取った方も厳しい尋問を受けるだろう。最悪投獄される危険もある。チベットを訪れる外国人旅行者の中には、そんなチベット人のダライ・ラマに対する思いを利用してダライ・ラマの写真を分け与え、僧院の拝観料をただにしてもらったり、お礼のお金の代わりにしているものがいるようだが、どうも感心しない。私にはそれはチベット人をバカにしているように見えて仕方がないのだが・・・
キチュ河畔にまで下りてくると、まだ待ち合わせの時間まで30分ほど間があったので、近くの小さな店で瓶入りのなんだか怪しげなドリンクを買い、川岸の土手に腰を下ろしてそれを飲みながら川向こうのラサをのんびり見つめて時間をつぶした。時計は6時半を示している。うしろには人民解放軍の基地があり、自転車に乗ったギャミ(中国人)が何人も出入りしていた。門前で監視している兵士の表情は硬かった。
キチュの流れは濁っていて、普段よりも勢いがあるようだ。轟々と流れていた。視線の先には小高いマルポ・リの丘の上にポタラ宮がうっすらと霞んで鎮座していた。これでチベットともお別れである。次回、チベットに来られるのはいつになるのだろうか?
「ネパールに行かないか?」と言った友人の言葉から約1年。思えば遠くて近い道のりであった。あの一言がなければ私は確実にここにはいなかっただろう。そう思うと、人間の一言はここまで人を変えてしまうものかと感慨深い。私のチベットへの旅行はこれで終割ったのではなく始まりであった。これ以来、私は以前にも増してチベットと深く関っていくことになる。そして3年後には会社や仕事を棄て、ボランティアとしてチベット問題の中心地、ダライ・ラマの亡命先であるインドのダラムサラへと向うのであった。

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