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柳の下で雨宿り

「じゃあ、この車で行けるところまで行ってください。そこから先は一人で歩いて行きます。午後の7時に迎えに来てくれればそれで結構です。」
そう言った私の言葉に、ギャミ(中国人)のガイドは、私を監視して現地のチベット人と直接接触させないという自分の任務と、仕事をサボれるという事をしばらく天秤にかけたようだった。少し考えた末、「わかりました。」と答えた。後者を選んだようだ。
初めはネタンの大仏の先にある釣橋を渡って、シュクセ・アニ・ゴンパに行こうと思ったのだが、釣橋はキチュの増水で川に沈んでおり、渡れないとのこと。とりあえずキチュを渡らなければならない。向った先はクル・サンパ(ラサ大橋)だ。北京東路を東に進み、旧市街を通り抜け、公安庁を越えた突き当たりで右折する。金珠(沿河)東路に出て左折すると西蔵大学があり、その前を通って右折するといよいよクル・サンパ(ラサ大橋)に出た。チベットだけではなく、橋というのは重要な軍事施設だ。そのため、橋の両側では人民解放軍の軍人が見張りをしていた。これは、空港からラサに向う時に渡ったチュシュ大橋でも同じことである。別に写真を撮ってインドの情報部に渡すようなやましい気持ちはなかったのだが、軍人に睨まれるとあまり良い気持ちはしない。少し緊張する。
クル・サンパの向うには、ブムパ・リの丘がある。ここはダライ・ラマの誕生日に盛大にサン(香)が焚かれるはずの場所だが、近年禁止されている。橋を渡り終えると右に曲がった。ここを反対に左へ行くと、道路は川蔵公路となる。中尼公路、青蔵公路、新蔵公路と並ぶチベットの主要幹線道路だ。しかし、この道路は、随所で崖崩れなどで寸断されていて、その度に復旧工事が終わるまで待たされるらしい。もちろん車線は1車線。すれ違いだけで大変な、とんでもない道である。キチュに沿って45km東に行くとガンデン僧院が、さらに先へ進むとコンポ・チャムドを経て四川省成都に向う。
キチュを右に見ながらしばらく行くと、人民解放軍の施設があった。1959年3月、人民解放軍はここからノルブリンカを砲撃したそうである。その門前で車は停まった。
「車で行けるのはここまでです。」
ガイドの言葉を背に受けて私は一人歩き出した。ここから先は自分一人で歩いて行けると思うと開放感が全身に駆け巡る。道はもちろん舗装などされていなかった。幅2~3mほどの道がキチュに迫り出す山腹にへばりつくように続いている。

途中、広い川原に出ると、向うで人民解放軍が列を作って何か訓練のようなことをしていた。一瞬、「尋問」という言葉が頭をよぎったが、彼らは違法外国人旅行者を取り締まる公安ではない。それにここは未解放ではなく、解放都市ラサの外れにあたる。うしろめたい思いはないのだが、本物の軍隊の演習を目にしたのは初めてだったので、しばしこのまま先に進むかどうか戸惑った。しばらく立ち止まって様子を見た後、ジロジロ見ないで何食わぬ顔をしてその横を通り過ぎる。向うもこちらには全く関心はないようだった。
1時間ほど歩いただろうか、サン(香)を焚くための香炉のある小高い丘を回りこむと、前方に小さな集落が目にとまった。後ろを振り返ると遠くにデプン僧院やポタラ宮が見える。かなり歩いたようだが、地図で見るとクル・サンパから数ミリ移動したにすぎない。目的地のシュクセ・アニ・ゴンパはさらに5cm進んで釣橋のところまで行き、そこから山道を6時間登らなければならない。考えてみれば、とても今日中に行って帰ってはこられるところではなさそうだ。「仕方がない、シュクセ・アニ・ゴンパは諦めるか」と思って、目的地を近場に設定した。地図を見ると、ちょうど今いるところはノゾンという集落らしい。近くにはサンダ・ゴンパと書かれていて、小さな僧院があるようだ。ちなみにチベット語の「ゴンパ」は「僧院」を意味する。ノゾンを通り過ぎて、それらしい建物を探してみたのだが、なかなか見当たらない。ちょっとした丘の上でタバコをふかしながらのんびり辺りを眺めていたのだが、山の上で放牧をしていた少年達が山から下りてきてこちらを珍しそうに見つめて近寄ってきた以外、これといって何もない。山を見上げると、まだ放牧をしているのであろう少年達と家畜の群れが小さく見えた。あそこまで登れるのだろうか?そう思うと登りたくなってくる。山の上方へと続く道を登っていったのだが、すぐに行き止まりになった。「さて、どうしたものか?」と気を落ちつかせて辺りをよく見ると、そこは何かの建物の廃墟だった。「もしかして???」
ガイドブックにちゃんと載っているということは、サンダ・ゴンパは人民解放軍のチベット侵攻や文革で何度も破壊されながらも現在は再建されている僧院に違いない。だからこの廃墟はサンダ・ゴンパでは無いことは確かだ。しかし、僧院ではないにしても、打ち壊したとしか思われない廃墟に、仏像の頭が転がっているのが目に付いた。「これが中国の言うチベット解放の証か?」としみじみ思う。近くには香炉がひっそりと佇んでいた。
結局サンダ・ゴンパに行くのも諦めて、山を下り、クル・サンパに近いツェチョリン・ゴンパへ向う。ツェチョリン僧院は18世紀、ダライ・ラマ8世の師であったイェシェ・ギャルツェンによって創建された。かつては、ダライ・ラマ政権の摂政を輩出したリン・シ(四林)の一つとして栄華を誇ったが、中国侵攻と文化大革命によって廃墟と化した。80年代に入ってやっと再建が始まったようだ。リン・シ(四林)の他の3つはラサ市街にある。クンデリン、テンギェリン、ツォムンリン。しかし、どれも今や過去の栄光はない。
ノゾンに戻ると運悪く雨が降ってきた。あいにく傘は持ち合わせていない。仕方なくしばらく集落の外れの柳の木の下で雨宿りする。30分ほどじっと雨がやむのを待っていただろうか?目の前の道は、トラクターが一台通り過ぎただけでいたって静かだった。チベットの農村風景はどこもこんなものかな?と思う。時間だけがゆっくりと過ぎていった。柳の下から前方を見上げると、雨雲でうっすら隠れていた標高4500mほどの山のピークが時折顔を出した。後方には劇場の背景画のようなラサ渓谷の風景が広がっている。
ようやく雨も小降りになったので、来た道を引き返して歩いていると、6人くらい乗せたトラクターがラサへ向って私を追い越していった。乗っていたチベット人達は私を振りかえると、しきりに「乗っていけ!!!」と言っているようだが、その時は一人で歩きたい気分だったので、手を合わせて丁重に断った。乗っていればチベット人達との交流も出来たかも知れなかったが・・・私が数珠をもって手を合わすと、チベット人達も「お前も仏教徒か?」といった感じで嬉しそうに手を合わせた。こんな時、言葉なんか通じなくても気持ちは通じるものである。ちょっとしたやり取りが気持ちよかった。
クル・サンパを過ぎたところにある人民解放軍の施設の手前まで戻って来たところで、チベット人の母子4人連れに出会った。「タシデレ!(こんにちは)」って話しかけると人懐っこく近寄ってくる。チベット人は日本人と違って外国人には開放的だ。おそらく、外国人からたびたびダライ・ラマの写真をもらっているからなのだろうか?しかも日本人だとわかると、同じ仏教徒だということ(?)で親近感があるらしい。私がガイドブックの地図を広げて「ツェチョリン・ゴンパ!」と言うと、それを覗きこんでからおもむろに軍の施設の向こうの山の麓を指差した。小規模ながら寺院のような建物が建っている。「あそこに行けばいいんだな・・・」。お礼のつもりで持っていたカロリーメイトの残りを子供にやった。もらった子供の方はというとそれが何なのかわからずボケ~っとしていた。ギャンツェに行ったときのようにまず見本に私が一口食べてみたら、それがオヤツの類だと言うことがわかったかも知れないのだが・・・
原っぱを横切り、土手を這いあがって(軍の施設の裏をまわり込めば道はあったのだが・・・)軍の施設の裏の集落に入る。軍の近代的な立派な建物に対して、集落の民家の作りは伝統的なチベット式の作りなのだが、古ぼけていてなんだかみすぼらしい。軍がチベットに進駐・入植している中国人を象徴しているとすれば、この集落(ラサの旧市街もそうだが・・・)はチベット本土におけるチベット人の立場を象徴している。そのコントラストがあまりにはっきりしていたので少し悲しくなった。通りには人通りは無く、垢で真っ黒になった服を着ている少女2人が遊んでいるだけだった。私を見かけると、走って駆け寄ってきた。「なんだろう?」と思っていると、ストリートチルドレンのように手を差し出すではないか。しかも卑屈な態度は微塵も無く、堂々と金を要求している。手にはたぶんオヤツなのだろう、ヤクバターの塊を握っていた。「さっきの子供にカロリーメイトを全部やるんじゃなかったな」と後悔したのと同時に「しょうがないな~~~」と思いながらポケットに入っていた2元を手渡した。2元といえば当時のレートで32円である。日本だったらはした金に過ぎないが、チベットではそれでもそこそこの現金には違いない。ノルブリンカで10元の喜捨に群がった僧侶達を思い出す。

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