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FOOL'S MATE

正月三ヶ日は本当に何もしなかった。正月を迎えたという気分もない。いつもよく行く業務スーパーが3日まで休みなのがちょっと不便だが、うちの近所には年中無休24時間やっている激安の殿堂スーパー玉出がある。ただ、現金しか使えないのでカードのポイントが溜らないが、それは些細な事である。大晦日からヤフオクで落札したCDを聴きながら「FOOL'S MATE」を読んで年を越したが、1日もそんな感じで過ごしていた。唯一、正月らしいことといえば、夜にYがお祝いをしようと言って雑煮を作って上の階の僕ちゃんと3人でお祝いしたくらいである。その時にビールを2杯飲んでしまった。ここ数日続けてきた断酒が切れたわけだが、気にしない。また1から断酒すれば良いだけである。飲んでなかったのでほろ酔い気分で自宅に帰ってきて、ウトウトしてしまった。起きたのは3時半である。とりあえず、また断酒1日目。
変わった事といえば、DVDプレーヤーが潰れてしまった。これでは昨日大量に届いたCDを聴くことができない。仕方がないのでテレビをつけて、それをBGMに「FOOL'S MATE」を読んで、入浴して、冷たい麦茶を飲みながら一服しているところである。音楽が聴けないので「チベットの祈り、中国の揺らぎ」を読むことができない。テレビだと気が散って仕方がないからだ。そうかと言って無音状態だと落ち着かない。一応、昨日、ヤフオクで出品されていた1000円のDVDプレーヤーを落札し、自宅に届くまで4冊ある「FOOL'S MATE」のバックナンバーを読み終わってしまおうと思っている。雑誌だとテレビの音が気にならないので不思議である。
メールをチェックすると、今日あたりペヨトル工房の「夜想 (2号) 特集:ハンス・ベルメール」が届いているはずだったので、15時ころ郵便ボックスを見に行くと届いていた。
ハンス・ベルメールはドイツの画家、グラフィックデザイナー、写真家、人形作家で、ナチ党の政権掌握後の1930年代中頃に、等身大の創作人形を制作・発表したことで知られる。芸術家としても超現実主義者(シュルレアリスト)に分類されるが、ドイツの情勢を支持する仕事はしないと宣言し、ナチズムへの反対を表明した。関節人形の制作にあたっては、人体を変形させた形態と型破りなフォルムにあらわれているように、当時ドイツで盛んだった「健全で優生なるアーリア民族」を象徴する行き過ぎた健康志向を批判したものである。ベルメールの斬新な作品は、アンドレ・ブルトンら当時のパリのシュルレアリストには受け入れられ歓迎された。1934年、少女の関節人形の白黒写真10枚を収めた「人形」をドイツで自費出版する。その写真は、初めて作った人形を背景の前に置き、活人画のシリーズとして撮影したものであった。日本においては、1965年に雑誌「新婦人」で澁澤龍彦がベルメールの球体関節人形を紹介したのが、作品が広く知られるきっかけになった。
「Fool's mate」の1988年4月号を読んでいると、ニューヨークのパラダイス・ガラージやダンスミュージック、ハウスサウンドについて書かれてあったので、ちょっと言及してみたい。そもそも雑誌のスタートは、ピーターハミルが率いるバンド、ヴァン・ダー・グラフ・ジェネレーターのファンジンが発祥で、ブリティッシュ・プログレッシブ・ロックの専門誌として創刊し、やがて、クラウトロック、ニュー・ウェイヴといった当時の先端的な音楽を記事の中心とし、ウィリアム・バロウズなどのサブカルチャーまでを取り扱うようになった「Fool's mate」で、この話題が記事になるのは珍しい。まあ、この2年後、「MIX」というクラブ系雑誌を増刊号として出したことを考えると、その萌芽がここにあったのかもしれない。しかし、定期購読していた時には全く気が付かなかった。
まず、パラダイス・ガラージは、ハドソン・スクエア地区のキングストリートで1977年にオープンし、1987年8月22日のクロージング・パーティーを以ってクローズした元々は会員制ゲイクラブである。客層は主にゲイの黒人であり、伝説的なDJラリー・レヴァンがプレイしていた。ラリーは幅広い音楽の知識を元にディスコ、ロック、ヒップホップ、ラテン音楽、ソウル、ファンク、テクノ・ポップなどありとあらゆる音楽を掛けて一晩中客を踊らせていたが、その有様はそこに集う客の熱狂を伴ってほとんど宗教儀式のようであったと言われている。また、ラリーは独学ながら優れた音響の専門家でもあり、エンジニアのリチャード・ロングと共にパラダイス・ガラージに自らの手で構築したサウンドシステムは大音響でありながら非常にクリアな音で、ダンスフロアの中央にいても容易に客の間で会話ができたとも伝えられている。パラダイス・ガラージでプレイされた音楽は通称ガラージとも呼ばれている。ガラージは、狭義にはハウスやディスコに分類されるような音楽のうちの、ある種のものを総称した呼び名。通常、かつてニューヨークに存在したディスコ、パラダイス・ガラージで掛けられていたような音楽のことを指す。
多くのニューヨークのDJがパラダイス・ガラージとラリーのDJスタイルに衝撃を受けてDJの道へと進み、現在に至るも史上最高のクラブの一つとして語り継がれている。ラリーがパラダイスガレージで掛けていたような音楽やその進化した形の音楽はガラージと呼ばれるが、これはハウス音楽や、テクノ音楽に大きな影響を与えた。また、そのサウンドシステムもその音質の高さから未だに伝説として語られている。
一方で、ハウス・ミュージックは、1977年にシカゴでフランキー・ナックルズが作り上げた音楽ジャンルの一つで、単にハウスと呼ばれることも多い。ディスコや、フィラデルフィア・インターナショナル・レーベルやサルソウル・レコードなどの、いわゆるフィラデルフィア・ソウル(フィリーソウル)などの楽曲を音源とし、ダンスフロアで踊っている人々に(踊りやすいという理由で)好まれる部分の演奏時間を何とかして引き延ばしたいと考え、当初は同じレコードを2枚用意し、それらを並べて置いたターンテーブルで若干の時間差を付けて再生し、ミキサーを用いて手作業でそれらのレコードの「延長したい部分」を交互にプレイしていたのであるが、やがて最初からDJが使いやすいように原曲を引き伸ばしたり、ヴォーカルを取り除いたり、踊りやすいブレイクの部分や音のパーツを強調したレコードが発売され、新たな音楽として確立していった。また、先駆者であるラリー・レヴァンや彼の「パラダイス・ガラージ」の客層と同様に、初期のハウスシーンは、ディスコと同様、DJ、客層ともに黒人やゲイが多かった。ディスコは音楽的な評価は低かったが、社会的にはゲイ、もしくはLGBTに対する性差別解消をテーマにする音楽であるとして、ある程度評価された。
ハウスの語源は、シカゴのゲイ・ディスコ「ウェアハウス」が名称由来とされている。その後、80年代末~90年代以降、ハウスの中心地はアメリカからイギリスを中心とするヨーロッパに移ったが、イギリスでは同性愛者のムーブメント色は薄れ、21世紀には音楽のアレンジ(編曲)上の一手法として、世界のクラブに普及している。性差別をテーマとする一部のハウスは、1980年代後半から90年代にかけて、差別や貧困をテーマとする一部のヒップホップ (hip hop) とともに、DJプレイで好まれる音楽ジャンルとして定着した。

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