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18.設計製図第2

2年生に進級すると、設計製図の実技科目の課題も本格的な建築設計になっていくのだが、そうなると、1年生の時に使っていた製図室での作業だけでは間に合わず、毎回自宅に持ち帰って、自宅での製作が大半を占めることになった。その際、必要になってくるのはドラフターなどの製図板である。当時はまだCADやCGといった気の利いたものはなく、図面やパースを描くのは100%手描きだった。金のある学生は、20万近くするドラフターや平行定規などを買っていたが、私には金がない。そこで最低限の投資としてベニアの製図板(画材専門店で4000円くらい)とT定規を買って製図環境を整え、それで4年生の集大成である卒表設計までやってしまった。まあ、卒業後の設計実務は100%CADを利用することになるし、自宅に大きいドラフターなどあると邪魔で仕方なくなるので、我ながら先見の明があったと・・・ちなみに、就職が決まって引っ越すときに、この時買った製図板は粗大ゴミで捨ててしまった。
2年生の設計製図第2の最初の課題は、湖畔に建つ音楽が趣味の仲間のための別荘であった。A4サイズの資料に敷地データやその他の情報が与えられ、学生はA1サイズのケント紙に敷地データを拡大して落とし込んで、配置図・平面図・立面図・断面図の基本設計の図面を描き、この時はパースの作製の代わりに模型の提出が求められた。この後の課題になると、敷地データは具体的な実際に存在する敷地になって、学生はまずその敷地を実際に見に行って、写真を撮るなど、設計の手がかりにする。ただ、この最初の別荘の課題の時は、漠然とした任意の敷地データで、土地のコンテクストや周辺環境などは想像で設計をすすめるしかない。
建築の専門学校の設計演習の内容を見てみると、実際の木造建築物・RC造建築物の図面のトレースなどを行って、図面のイロハから教えてくれるようだが、他の大学の建築学科は知らないが、多摩美術大学の建築科はそんな親切なところではない。柱の大きさや壁厚といった基礎的なことも、建築設計資料集成から読み取ったり、図書館にこもって資料と睨めっこするなどして自分で学んでいく。各部屋の寸法や空間スケールも同じである。まあ、学ぶということは本来そうしたものなのだろうが・・・
別荘の課題では、私は水辺に浮かぶ高床式の木造を選択したが、実際の木造建築をちゃんと理解した上で図面を描いたわけではない。しょせん、提出するのは1/100スケールの平面・立面・断面図である。ちょっと込み入った小屋組の小屋組み図を描けと言われたら、たぶん今でも描けないと思う。実際、社会に出てからも、木造に関しては現場の大工さんにお任せが多かった。或いは木造専用CADでの自動作成である。
さて、別荘の課題の私の作品であるが、水上のデッキを囲むように切り妻の小屋を数棟配置するものだったが、親水性をうたいながら窓の位置が高すぎて、水に親しむには程遠かった。また、模型も材料費をケチって手抜きしたので、講評の時に先生に鋭く指摘されて、散々な結果だった。やはり、プロは騙せない。
別荘の次の課題は、自由が丘駅前のカフェバーだった。この時の敷地は具体的に自由が丘駅前に実際にある敷地だったので、とりあえず現地を見に行って周辺環境をスケッチした。写真を撮れば簡単なのだが、この時、私はカメラを持っていなかったのである。カメラを買う金もケチって生活していた。
ところで、カフェバーである。カフェバーという商業施設をご存知だろうか?1980年代初頭、東京都港区西麻布(霞町)に「レッドシューズ」という飲食店がオープンしたのがカフェバーの始まりとされているが、内装、メニュー、接客スタイルがカフェとバーの融合した形の店舗で、日本では主に1980年代にデートスポットとして流行した。同時に、松井雅美といった「空間プロデューサー」が出現し、80年代前半を中心に雨後の筍のように流行した喫茶店・飲食店の営業形態の一つである。その後1990年代より、各地に様々なタイプの「カフェ」が乱立すると、こうしたタイプのカフェでも喫茶店とバーの境界線はなくなったことで、いわゆる旧タイプの「カフェバー」に該当する形態の飲食店は現在も多数存在するが、かつてのように「カフェバー」と称することはなくなった。
時代は90年代に入っていた。もはやカフェバーはトレンディーな商業施設ではなくなった。それなのに課題のテーマがカフェバーなのだ。先生方もトレンドから置き去りにされていたのか?
流行していた頃のカフェバーはお洒落でトレンディーなスポットであったが、お洒落をデザインするデザイン力のなかった私は理論武装に走ることになった。そこで持ち出したのは、かつて、特殊喫茶、社交喫茶と呼ばれ、風俗営業の一業態であった日本のカフェーである。
日本においてコーヒーを飲ませる店として最初に開業したのは鄭永慶(元外務省官吏)が開いた1888年の東京下谷区上野黒門町の「可否茶館(かつひーさかん)」とされるが、カフェーの名を冠した最初の店は、1911年3月、東京銀座京橋日吉町に開業したカフェー・プランタンとされる。経営者は洋画家平岡権八郎と松山省三で、命名は小山内薫による。これはパリのCafeをモデルに美術家や文学者の交際の場とすべく始まったものであるが、本場のCafeとは異なり女給を置いていた(パリのカフェの給仕はギャルソンと呼ばれる男性である)。カフェー・プランタンなどはインテリ向けのハイカラな店で一般大衆は入りにくかったと言われる。カフェーがもっぱら女給のサービスを売り物にするようになったのは関東大震災後と見られる。震災の翌年(1924年)、銀座に開業したカフェー・タイガーは女給の化粧や着物が派手で、客に体をすり寄せて会話するといったサービスで人気を博した。昭和に入り、大阪の大型カフェ(ユニオン、赤玉など)が東京に進出してきたことにより「銀座は今や(…)大阪エロの洪水」という状態で、女給は単なる給仕(ウエイトレス)というより、現在で言えばバー・クラブのホステスの役割を果たすことになった。ちなみに当時の女給は多くの場合は無給であり、もっぱら客が支払うチップが収入源だった。チップ制の弊害もあり、1933年頃からチケット制を採用する店も増えた。1933年には特殊飲食店営業取締規則により、カフェーは風俗営業として警察の管轄下に置かれることになった。昭和初期のエログロナンセンスの世相の中、夜の街を彩る存在としてカフェーは小説などの舞台にもなった。当時のカフェーを描いた小説として永井荷風「つゆのあとさき」、堀辰雄「不器用な天使」、窪川稲子「レストラン・洛陽」、広津和郎「女給」がある(広津の作品は菊池寛のカフェー通いを描いて評判になった)。また、谷崎潤一郎「痴人の愛」のナオミは、15歳で浅草のカフェーに出ていた女という設定である。林芙美子がカフェー勤めの経験を「放浪記」に書いたこともよく知られている。エッセイでは松崎天民「銀座」、安藤更生「銀座細見」などがカフェー風俗を活写している。
出来上がった私の作品は、ちょっとジュゼッペ・テラーニのカサ・デル・ファッショを意識したファサードのコンクリート打ち放しの箱で、内部に女性器をイメージした曲線を取り入れ、パースを描く際に人物を入れなければならなかったので、バーのスツールにレズビアンのカップルとコールガールを座らせた。この時の講評はサボってしまったので、先生の評価がどうだったかはわからない。
たぶん、2年生の設計製図第2の最後の課題は、東京湾岸に建つ現代美術ギャラリーである。設計にあたっては、具体的な設計に入る前に実際の美術館やギャラリーを見学して、そのレポート的なプレゼンボードを作るのだが、他の学生が一般的な美術館に見学に行ったのに対して、私はひとりで当時、品川の天王洲の倉庫街で開催されていた、後に多摩美術大学建築科の教授になる毛綱毅曠が監修した現代アート展を見に行った。そこでヒントを得て製作した私の作品は、鉄骨のトラスで組んだ柱・梁をむき出しにしたがらんどうの倉庫である。構造体や設備配管などをむき出しにするデザインは、当時、私が嗜好して、その後の私の課題の作品で頻出することになるハイテク建築を意識したもので、私の建築的趣味は、これ以降、どんどんハイテク化していく。
ハイテク建築は、科学技術が急激に発展していく中で、モダニズムの理念をさらに推し進めていった結果到達する、最終地点に生まれたもので、ハイテクによって生み出された製品、技術を建築物に意匠として取り込むものである。ハイテク建築の好例は、レンゾ・ピアノ、リチャード・ロジャースおよびチャンフランコ・フランキーニが設計を手がけたパリのポンピドゥー・センターや、ノーマン・フォスターの香港上海銀行・香港本店ビルに見ることができる。

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