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サハラのオアシス日記:月光仮面部隊が星と嵐のアガハル山地を行く「サハラのアルジェリア最高峰・タハト山登山 2009」

 「サハラ砂漠に3000mを超えるの山があるらしい」とO隊長が言い出したのは2009年の正月前後だったと思う。2006年ウガンダのルウェンゾリ山の時と同様にテレビで偶然に見かけたのだという。これは「調べろ」ということである。それで、まずサハラ砂漠最高峰を調べると、それはチャド北部のリビア国境付近に広がるティベスティ高原のエミクーシ山 (3415m)であった。チャドという国を外務省渡航情報で見ると、全土に「退避を勧告します、渡航は延期してください」が発出されていた。反政府勢力連合(UFR)と政府軍が激しい戦闘を行っており、チャド全土には多数の地雷や不発弾が放置されているらしい。日本大使館も置かれてないし、これでは登山や旅行は無理だ。それで次に高そうなところを地図で追うとアルジェリアのアガハル山地が目に留まった。『ウィキペディア(Wikipedia)』に記載があったのだが短文であった。「タハト山はアルジェリアの最高峰で、かつアハガル山地の最高峰である。北緯23度17分、東経5度31分、標高3,003mである。アルジェリア南部のサハラ沙漠にあり、斜面にも山麓にも植生はみられず、薄茶色の山肌がむき出しである。最寄の町はタマンラセットである。」とあり、円錐形の瓦礫の山のような写真が添えてあった。この写真を見る限り、困難な山ではなさそうだ。また、写真があるということは山麓へのアプローチも車で可能なはずである。それで0さんに「アルジェリア、サハラの最高峰・タハト山なら登れそうですよ」と返答した。
 ここまではスムーズであったのだ。それで登山記録もどこかにあるだろうと高をくくっていた。しかし、まともな登山記録がないのだ。ちょうどそのころ、ウガンダでお世話になったジャック和田さんからメールがあり、夏に東京で開催さる「世界旅行博」にプロモーションのため来日するという。今年はアフリカ特集のブースが出るとのことだった。ここでアルジェリアのオペレーターであるチェチェツアーを知った。問い合わせるとアガハル山地のアセクラム高原へのジープサファリの経験があり、たぶんタハト山の近くまで行けるという。しかし、登山については、現地のトゥアレグ族も山に登る習慣はないので、自分で調べて勝手に登ってくれということになった。
 昔『岳人』に「アフリカ横断登山行」が載っていたことを思い出してバックナンバーを調べると、名古屋大学山岳部OBの医師で、日本山岳会東海支部所属のJSさんであることが解った。89年末から半年をかけてアフリカのキリマンジャロ、ケニア山、ルウェンゾリなど6峰に登ってアフリカ大陸を横断したという。記録の中にサハラ砂漠の最高峰と思ってタハト山に登ったとあった。さっそくご本人にメールを送ると返事をいただいた。
「さて、問い合わせのタハト山の件ですが、結論から言えばただの瓦礫の山なのです。僕が登ったのは20年前なので状況は変わっているかもしれませんが、ロープ無しで大丈夫だろうと思います。」と、ちょっと力が抜ける回答であった。
 しかし、アプローチや登山ルートなどはまったく解らなかった。いつもの調子で「行けばなんとかなるだろう」とは思っていたが、ひとつ心配もあった。アルジェリアにはイスラム過激派組織「布教と戦闘のためのサラフィスト集団(GSPC)」というのがあって、国際テロ組織アル・カーイダへの正式加入が2006年9月に認められ、2007年1月に組織名を「イスラム・マグレブ諸国のアル・カーイダ(AQIM)」に変更したという。これまで、アルジェリア国内の全ての外国人、特にフランス人及びスペインとアメリカの権益を標的にするといっていたが、2009年1月にはイスラエルのガザ地区の攻撃を受け、改めてアメリカ権益を標的とする旨表明している。このいわゆる「アフリカのアル・カーイダ」がちょっと心配であったが、郷に入れば郷に従い、現地のトゥアレグ族に礼を尽くして行動を供にするという鉄則に従えば大丈夫であろうと考え、出発の日を迎えた。

※補足:その土地ではその土地の部族と行動を共にするというのは経験からの鉄則。パキスタンとアフガンとの国境の山岳地帯では、今でいうタリバンと行動を共にしたおかげで盗賊団の襲撃を追い払うことができた。チベットの未開放地域でも地域のカンパ族と馬を雇うことで入ることができたが、隣の谷の馬方を雇って入谷したら村の投石に合い、チベット刀をぬいた争いになった。とりあえず谷を戻り馬を解雇し野営して立て直し、今度は丸腰で再び入りその谷の民を雇うことで和解。探査も協力してもらった。それ以来この谷は私はフリーパスとなるほどの仲になった。そういう経験から郷にいれば郷のボスに挨拶すべしというのが鉄則。

まずは「ドーハの悲劇」のカタールへ ●2009年12月15日(火)

 15:30福岡空港集合。全日空で関西空港へ。この便はアシアナ航空と今回利用するカタール航空のコードシェア便になっていた。だからか韓国人が結構乗っている。韓国からカタール行きは無いのであろうか。福岡、関空を経由するとはご苦労様である。関空ではチェックインまで4時間近く間があるので、夕食のつもりが結局、宴会のようになってしまった。
 23:25関空発カタール航空QR821便、カタールまでの所要時間は11時間強、日本との時差は-6時間だ。機内放送は日本発なのに日本語より韓国語が先だった。そのくらい韓国人が利用するということだろう。機内では世界各国の映画が自由に楽しめるようになっていた。配られたヘッドフォンは片耳が聞こえなかったので、しばらく我慢の後スッチーを呼んで取り替えてもらった。しかし今度は両耳とも聞こえなかった。また取り替えてもらったところコードが引きちぎれており話にならない。諦めて寝ることにした。

アルジェリアの首都、白亜の街アルジェへ ●12月16日(水)

 予定より少し早く05:00カタール着。アラブ世界では第二のドバイと言われるだけあって立派な空港だ。空港の周りは砂漠地帯のようであるが遠方には摩天楼が砂嵐に霞んで見える。06:20ドーハに朝日が昇った。日本で見る朝日とは明らかに異なり、砂漠の地平線に紅の夜明けである。
 ドーハでまず思い出されるのは1993年、サッカーワールドカップのアジア地区最終予選で日本代表とイラク代表戦において、試合終了間際のロスタイムにイラク代表の同点ゴールが入り、日本の予選敗退が決まったことだ。また、アメリカのアフガニスタン侵攻やアル・カーイダから送付されたオサマ・ビンラディン容疑者のメッセージの映像を独占放映し有名になった「衛星局アルジャジーラ」はここドーハが本拠地である。

 予定より少し遅れて08:47ドーハ発、アルジェまでの所要時間は約7時間、時差はさらに-2時間である。機窓はすぐに一面砂漠の世界となった。アラビア半島の砂漠の中に巨大な円形の緑地がいくつも作られている。タイヤの付いた散水パイプが同心円上に回転して作られた緑地に見える。1万メートル上空から見えるのでかなり巨大で、かつ莫大な数の円形が砂漠につくられていることに驚く。やがて紅海北部の二股になったアカバ湾とスエズ湾の上を飛ぶ。この2つ細長い湾の間がシナイ半島で、高地はカテリナ山(2637m)のはずだ。スエズ湾は北で細くなっており、先にスエズ運河が確認できた。いよいよアフリカ大陸に入ったかと思うと、カイロ上空から一旦地中海に進路を取って、シチリア島の南のマルタ島上空へと進んだ。やがてチェニジアからアルジェリアに入り、アルジェ湾らしきところで高度を下げた。14:35アルジェリアの首都アルジェの玄関口、ウアリ・ブーメディアン空港に到着。予定より1時間遅れだった。

 機内で配られた入国カードはアラビア語とフランス語表示だったが、見当をつけて記入していたところ無事イミグレーションを通過できた。荷物も全部無事ターンテーブルから出てきたので安堵した。出発前にアルジェリアは外貨申告が厳しく、必ず外貨申告書を記入して印鑑をもらっていないと外貨を没収されることがあると聞いていた。また、両替の控えを保管しておかないと、残金と照合されたときに問題になるともと聞いていた。しかし、どこにも税関申告書らしきものがないので、係員に聞くと、わざわざ税関の窓口に行って申告書をもらわなければならなかった。他の旅行者はだれも来ていなかったが大丈夫か? 我々は申告を行って印鑑をもらった。
 到着出口には天然パンチパーマの黒人ガイド、ラミンが迎えてくれた。ラミンはジャネット出身のトゥアレグ族、つまりベルベル人だという。トェアレグ人には黒人もアラブ系の白人もいるらしいので、なかなか見た目だけではわからないようだ。ちょっと到着が遅れて、みんな疲れているようなので、今日は観光はやめてホテルに直行することに。
 トヨタ車で高速からアルジェの市内に入った。車は右側通行だ。女性はだいたいブルカ(スカーフ)をしているが都会だからか解放的に見える。町中男が多い。アルジェの人口は約300万人で、失業率は11%とのこと。アルジェ湾を見下ろす丘の上に白い大きな建物が見えてきた。あれが我々の泊まるホテル・オラッシーでアルジェの最高級ホテルとのこと。やがて目抜きのモハメッド・サンク通りをゆくと白亜のマウル様式が美しいグランポスト(中央郵便局)が見えてきた。この角を曲がると車はジグザグに坂を登って、ホテル・オラッシーに到着。
 部屋のテラスからはアルジェ港から市街、独立記念塔まで見渡せる抜群のロケーションだ。白亜の街に日が落ちると、何百万ドル?何億ディナール?の夜景となった。

カスバの女の故郷?から深夜、砂漠地帯へ飛ぶ ●12月17日(木)

 城のようなフランス大使館の横を通って、カスバの入口門に着いた。ホテルから車で僅か10分の距離だった。ここから私服警察が同行するという。カスバは1992年に文化遺産として世界遺産に登録されている。首都アルジェのいわゆる旧市街である。高低差118mにも及ぶ丘に、隙間なく立ち並ぶ白を基調とした家々。その間を縫うようにして伸びる数え切れないほどの迷路のような細い道。カスバには確かに外部の者を寄せ付けない独特の雰囲気がある。
 昭和30年にヒットしたという「カスバの女」は「ここは地の果てアルジェリア、どうせカスバの夜に咲く」と歌う(らしい)。まだ生まれていないので良くは知らないが、なんでこんな歌が日本で流行ったのだろう。おそらく、1937年フランス統治下の時代に製作された映画、望郷(原題ペペ・ル・モコ)の影響だろう。出発前にこの映画のDVDがクラシック・ムービー・コレクション・シリーズ(500円)で売っていたので買って見た。ペペ・ル・モコを演じたのは、フランスの名優ジャン・ギャバン。カスバに潜伏するペペ・ル・モコというパリ生まれの犯罪者と、パリから来た美しい女との恋愛を描く作品だ。カスバでは裏切りや殺人が日常的に行われており、悪の組織をかくまうのに格好の場所となっていた。カスバの構造を知り尽くし、彼をかくまう仲間とともに、アルジェ警察に追われながら暮らすペペ・ル・モコは、カスバの中でしか生きられない。一歩外に出れば、たちまち警察の手に落ちてしまうことを知っているからである。彼が生きる場所として選んだカスバは、足を踏み入れてしまうと、出たくても決して出ることのできない迷宮であった。
 カスバは、上部と下部の2つの部分に分かれている。上部は、スペインに支配されていた時代に、下部はトルコに支配されていた時代に作られた区域だそうだ。その2区の分かれ目はフランス風の建物で区切られている。カスバ内の動向をより早く把握するため、このような場所に「フランス区域」を作ったのだという。映画「アルジェの戦い」はここが舞台。アルジェリアが1830年にフランスの植民地になった後、第二次大戦後から1962年に独立するまで、この一帯がパルチザン(対仏地下抵抗運動)による独立の戦いの隠れ家となった。ここカスバではまだ暗い歴史の匂いを感じることができる。 
 カスバを上の門から歩いて下のケチャワモスクまで下る。殉教者広場に車が迎えにきており、丘の中腹のトゥワレグ・レストランで七面鳥の昼食。午後はノートルダム・デ・アフリカ大聖堂、郊外のハーバー・リゾート、シディ・フレシなどを見学。地中海魚介料理の夕食を食べてアルジェ空港へ。 

 22:40アルジェ発、アルジェリア航空国内線AH6232便で00:55タマンラセット着。ラミンが「ウェルカム・トゥー・デザート(砂漠へようこそ)」と叫ぶが暗闇のため何も見えない。ここはアルジェから約1600km南、サハラは日中風が強いため航空機の離発着は深夜になるのだという。深夜2時にホテル・タハトに投宿。我々が目指す、アルジェリア最高峰タハト山の名のホテルだ。アラビアン・ナイトのような艶かしいベッドで夢の中へ。

タハト山のBCとなるアセックラム高原へ ●12月18日(金)

 ここタマンラセットで高度計は1350mを示していた。3台のトヨタ・ランドクルーザーが迎えに来た。リクエストしていた地元の砂漠の民、ターバンを巻いたトゥアレグ族の3名のドライバーと1名コックが同行してくれる。車の屋根には倒木を積んでいる。薪にするとのこと。

 09:05ホテル・タハト発。ナショナルパーク・オフィスに入域申請に行くが金曜日で休みだという。しかたないので門番に代理申請を託して出発(仲間なのでそれでいいらしい)。これから入る砂漠はターバンが鉄則だということで、街のバザールでターバンを購入。トゥアレグ族は6mのターバンを巻くらしいが、我々はターバンの初心者なので3m物を薦められる。誰かが、ふんどしと同じ初心者は短いに限ると言ったがスルーされた。で、それぞれ好きな色を購入し、月光仮面部隊が編成された。

 9:25タマンラセットの街を出発。すぐ瓦礫の砂漠になるが、我々のイメージの砂のサハラ砂漠とは違う。そのうち人間の頭大の丸い石の堆積地帯となった。水はないのだから風によって浸食されたのだろうか。たぶん柱状節理が崩れてころがり、風が運ぶ砂によって侵食され丸くなったのだろう。と、皆で結論。

 12:00~13:30フィラットという何も無いキャンプサイトのようなところで昼食休憩。標高は1980m、ここには小さな池が湧いていた。砂の上に絨毯をしいて、コックが豆ご飯とサラダを出してくれた。「タニュマルト!」と覚えたてのトゥアレグ語でありがとうと礼を言う。アラビア語では「ショクラ」だそうだ。ウルドゥー語の「シュクリア」はこの方言だろう。そういえばタリバンともお友達の我会の名医、中村哲ドクターはアフガンで相変わらず忙しそうだなどと雑談も混じり、砂漠での食事をする。

 14:15峠(2300m)で休憩と記念集合写真を撮る。14:50標高約2600mのアセックラム高原のベースキャンプに到着。ロッジに8名入る部屋が空いていた。テントより居住性が良いので、ここに全員入ることにした。サンセットはロッジの北にある丘に登ると美しいとラミンが薦める。そこにはシャルル・フーコー神父のエルミタージュ(フランス語で隠者の庵の意)があり、その丘から北方向に明日挑戦するタハト山が見えるという。ルート確認のため夕方から登ることにする。
 2730mのエルミタージュまでは約30分の登りだった。周りの奇岩がそそりたつ風景はすばらしい。高原砂漠という言葉の意味がやっと理解できた。頂上大地をさらに北に進むとひときわ高いタハト山の山塊が望めた。出発前に『ウィキペディア(Wikipedia)』で見た円錐形の山の写真とは明らかに別物である。「あれは別の山だ、帰ったらwikiを直しておけ!」と誰かの声。ここから見るとスカイラインになっている西尾根から登れそうである。他のルートは断崖で厄介に見える。まだちょっと距離があるので詳細はわからないが、おおむね登頂ルートを決定した。

 エルミタージュには一人のフランス人修道士が駐在しており、フーコー神父の言葉が書いてあるノートを見せてくれた。それには次のように記されていた。「この風景は筆舌につくしがたい。誰がこの針のような山々の存在を想像するだろうか。それは今あなたの目の前にある。誰も神に対する感謝なしにはこの風景に対峙できないだろう。無限の光景の前で人はなんと孤独なものだろうか。見渡す限り無人の世界でただ一人の時間は、全ての物の偉大さを知ることができる。人間なんて大海の一滴に過ぎないのである。(渡部抄訳)」
シャルル・フーコーは1858年フランスに生まれる。軍人であったがキリスト教に入信し、修道士としてここアセックラム高原で隠匿生活を送った。その高潔な人柄は地元イスラム教徒にも愛されたという。しかし第一次大戦のさなか、地元民の反乱の中で殺害された。今では聖者としてヨーロッパからの巡礼者もここを訪れるのだという。現在一人のフランス人修道士がフーコーの意思を継いでここで暮らしている。フランス語で何かしきりに説明してくれるのだが理解できない。こっちも「水はどうしているのか」と訪ねるが英語が通じない。フランス語まじめに勉強しておくべきだった。北側に貯水池があるようなことをジェスチャーで教えてくれた。やがて日没を迎えた。西の空は紅に染まり、東の針峰群は夕焼けでオレンジ色に輝く。フーコーの「人間なんて大海の一滴に過ぎない」という言葉が胸に響く。寒くなってきたのでキャンプに下山する。

 夕食はダルスープと始めてのクスクスに野菜スープをかけて食べる。米の感覚で食べると粘りがなくてパサパサしており、なんか味気ないが、これは「クスクス」だ、と思って食べるとそれなりに旨い。クスクスはデュラム小麦を粉にして水を含ませて粒状にしたものを蒸して乾燥させたもの。つまり乾燥パスタの小さい粒状のものと考えればよい。語源はベルベル語の「セクス(丸められたもの)」だそうだ。マグリブ地方からシチリア、サルデーニャ島、さらに中東、アフリカ、ブラジルの一部でも食べられている。アルジェリアでは別名「タアム」(食べ物)と呼ばれるほど常食されている。
夕食後外に出ると細い上限の月が美しい。陰になっている月の輪郭まで見えている。そして満天の星空である。銀河が強烈にはっきりと見える。こんな星空は久々だ。

アルジェリア・サハラの最高点に立つ ●12月19日(土)

 夜明け前、Yさんはキャンプ南側の丘に散歩に出け、暗闇でロバを押しのけて頂上大地に上ったそうだ。07:00朝食をとり、08:15車でベースキャンプ出発。車はタハト山に近づくほど高度を下げる。道は悪路というより、そもそも道がない。ランクルはこんなところでも通れるのかとトヨタに感動すら覚える。タハト山に向って進むが09:50にこれ以上車では進めなくなって停車。標高2300m、ここが我々の登山口となる。

 09:55トップで登山開始。平坦な賽の河原のような地形を一時間ほど進むと、山頂から垂れるいくつかの石尾根のうねりの中に入る。なだらかな西尾根に取り付こうとするが、どうしても北よりにショートカットをしたくなる。Sさんは西尾根に向って左から忠実に進んだようだ。他の者はやや北寄りに直登ぎみにバラバラに進む。最初の尾根に急登したところで、OさんとFさんが引き返すことになった。Oさんの腰痛が悪化したようだ。西尾根のドーム状の肩に急登が始まるところでNさんが離脱。岩陰で風を避けて待ってもらうようにしたが、Oさんと合流できれば下山しても良いと伝える。ここでSさんと合流して5名となる。ドーム状の肩に取り付き急登となったあたりからケルン状のものを発見 。どうやらこれに導かれれば誰かが登ったことのある登り易いルートのようだ。盗賊の仕掛けでない事を祈るが、こんな難所では襲わないだろうなどと妄想しながらよじ登る。溶岩の柱状節理が崩れ積もったような地形の急登で山頂は見えない。所要時間が不明なので、ヨーロッパスタイルで休憩時間は極力取らず進む。
 大きな岩が堆積した状態となり岩の間を選んでよじ登っていると13:25思ったより早く山頂に着いた。高度計は2920mを示していた。360度の高原砂漠、その中に奇峰、怪峰、針峰が点在している。ここは地球上の景色なのだろうか。なんだか異星に取り残されたSFの主人公の気分である。そこで一句、いや三句。

 分け入っても 分け入っても 茶色の山(偽山頭火)

 石の峰 いくつ崩れて タハト山(芭蕉もどき)

 遠山に 日のあたりたる 礫サハラ(似非虚子)

 13:40山頂に15分ほど滞在して下山開始。15:20登山スタート地点に到着。この場所でキャンプの予定であったが、砂嵐などを考えるとアッセクラムのベースキャンプに戻った方が無難だろうということになった。日没までに戻らないと、あの悪路は通れないだろうと、早々に戻ることにした。
 帰路、車の残骸を目にするのだが、パリ・ダカール・ラリーの迷子車だそうだ。タイヤはもちろん、エンジンから全ての部品、ボルト・ナットまで跡形もなく、まさに砂漠の骨と化している。不思議に思ったが、後日ムザブの谷でこの謎は解ける。17:55何とか暗闇になる前にアッセクラムのベースキャンプ・ロッジ着。

タマンラセットのビールはたまらん ●12月20日(日)

 昨夜は一晩中ものすごい砂嵐だった。下山場所でテントを張っていたら飛ばされていただろう。地球上のあちこちに出没する登高会の百戦錬磨の勘は当たるのだ。
 08:15アセックラムBC出発。タマンラセットまで80km。09:45先頭を走っていたランクルが停車した。この丸石の原野は面白いから写真に撮っておけという。確かに奇怪な風景だ。見渡す限り広がる一抱えほどある丸石は、よく見ると小さな穴が開いている。火山岩なのであろうが、ここらの地形でタマンラセット・ワジというのがある。ワジとはアラビア語で、砂漠地帯にある流水のない涸れ川、水無川、間欠河川で涸れ谷のことである。水のない乾季の間、ワジは地域住民の交通路として使われていることがあるが、雨季になると急激に出水する。雨季に幅の広いワジを横切っていると突然水が流れてくる危険があり、死者も出ているそうだ。砂漠で溺死とは世界も広い。
そんなワジの希少な木陰で絨毯を敷いて昼食をし、13:30タマンラセット着。小さなバザールに寄った後、ホテル・タハト着。そしてホテルのバーに直行。アルジェリア産ビール、タンゴで祝杯。ムスリムには悪いが砂漠で飲むビールの旨いこと。1缶毎に勘定書を持ってくるバーテンダーは、次々に積まれる空き缶を見て苦笑いである。砂漠タマンラセットでのビールはたまらん!

サハラ砂漠を飛び越えムザブの谷へ ●12月21日(月)

 早朝03:30起床、04:30ホテル出発予定だったがドライバーがサハラ時間とやらで05:00にやってきた。Nさんの宗像時間より悪い。車窓からオリオン座を見ながらタマンラセット空港へ。帰ってから知ったのだが、このタマンラセット発ガルダイア行きアルジェリア航空は2003年3月にタマンラセット空港を離陸直後に墜落している。この事故で乗員6名、乗客97名、計103名のうち、102名が死亡し、1名が重傷を負った。乗客の国籍はフランスが6名でその他は全てアルジェリア人であったそうだ。今回も我々以外はアルジェリアの人のようである。1992年以降続く軍部とイスラム過激派の衝突があり、テロの可能性も疑われたが、アルジェリア航空では離陸時の機体に問題があったとし、テロによる犯行を示すものはないとしている。アルジェリアでは国内線に乗る際、預けた荷物は一旦機体の前に並んでおり、乗客が確認して運んだ物だけ機体に積んでくれる。つまり持ち主の無い荷物、荷物だけ預けて消えた乗客は怪しいということなのである。それに国際線と同じ出国カードを毎回書かなければならない。これはガイドのラミンが見かけによらず親切で、さりげなく全員分を書いてくれる。こういうさり気ない努力を惜しまない人は登高会では評価されるのだ。
 またもサハラ時間で30程遅れて、アルジェリア航空AH6547便は06:40テイクオフ。運転手は遅延を知っていたのか?それともサハラ時間は慢性的なものなのだろうか。とにかく機上の人に。飛んですぐ夜明け前ながら、幾重にも山の筋が見える。一番高く見えるシルエットがタハト山だろう。やがて月世界のような地平線に日が昇る。砂漠に涸れ谷ワジの筋がたくさん交差している。07:10夜が明けた。砂漠が地平線まで続き、時々岩峰が島のように浮んでいる。07:40一筋の砂の山脈が南北方向に永遠と一直線に伸びている。

 08:17見渡す限り何十本もの砂の山脈が連なっている。なんとも恐ろしい砂漠だ。こんなところのキャラバンで命を落とした隊商もあるに違いない。こんな機窓風景は世界広しといえどなかろう。すばらしい砂漠遊覧飛行航路である。

 09:09ガルダイア空港に着陸。

 映画「望郷」のスリマン刑事のような顔をしたドライバーが迎えてくれた。まず、エル・デジャノーブ・ホテルに直行して遅い朝食。アルジェリアの朝食は古きよきフランスの習慣で、フランスパンとコーヒーだけの所謂コンチネンタル・ブレッックファーストだから、わざわざホテルでなくてもと思うのだが、テロは減少したとはいえ国家非常事態宣言が発令されたままの国なので外国人は自由にはいかない。昼からムザブの谷を訪問するということで、それまでホテルで休憩。
 ムザブの谷は、アルジェから南へ600キロに位置し、荒涼としたサハラ砂漠の中に忽然と姿を現すオアシス集落だ。ガルダイア (Ghardaia)、ベニ・イスゲン (Beni-Isguen)、エル・アテフ (El-Ateuf)、メリカ (Melika)、ブ・ヌーラ (Bou Noura) の5つのオアシス都市がムザブのワジのまわりに集まっている。

 パステルカラーで美しく彩られた家々の街並みは、フランスの近代建築家、ル・コルビュジエをはじめ、多くの芸術家たちのインスピレーションを刺激してきた。11世紀頃「イスラムの清教徒」と呼ばれるイバード派ベルベル人が、迫害と流浪の末、この地に居を構えムザブ族となった。厳しい気候、限られた水資源を生き延びるための智恵と厳格なイスラム教を表現した結果がこの「ムザブの谷」の光景である。村人たちは、その生活ぶりを外部に明かすことなく、1000年の間、伝統的な暮らしを守り続けている。18世紀以降は、ナツメヤシ、塩、象牙、武器、奴隷などを取引していたサハラ交易のキャラバンの寄留地としてムザブは重要になったという。

 まず、レジデンス・デス・ドゥーツールスという高級リゾートコテージのムザブ風レストランで、ラクダ肉とクスクスの昼食。ラクダ肉は柔らかくて旨かった。ベニ・イスゲン、ブ・ヌーラ、エル・アテフ、ガルダイア、メリカを一通り遠望して回った後、ベニ・イスゲンの街に入った。

 ムザブの谷の街の中では人々は強烈に保守的なので写真は撮ってはならないとのこと。特に女性は厳禁。女性は異様で「ハイク」と呼ばれる白い布で頭からすっぽりと全身を覆い、独身者は両目を、既婚者は片目だけを出して町を歩いている。結婚すると夫以外には顔を見せてはいけない。我々を見ると女性は隠れてしまう。偶然、路地角などで出会ってしまった場合は壁側に顔を向けて私が通り過ぎるのを待つのである。観察すると利き目があるのか、目の右出しも左だしもいるようであった。「結婚はムザブ族同士で」「女性は一生谷から出ずに、家を守り、子を育てる」という伝統が守られている。一方男性は、「スルワル」と呼ばれる、股の部分ジャバラのタックがゆったりとしたズボンをはいている。我々は「タンタン狸の・・・」と呼ぶことになった。子供の「タンタン狸」は可愛い。

 ベニ・イスゲンの広場は青空市場になっていて、客寄せのおたけびが響いていた。どういうわけか、ド近眼の牛乳瓶の底メガネの男が多い。売っているのはどれもがらくた。ガラスの割れた腕時計や、車のエンジンの部品、タイヤを一つだけ首に掛けて売る男もいる。これで砂漠の廃車が骨だけになっている理由がわかった。すべて盗品のがらくたが売られているのだ。白壁の家の玄関ドアの上には必ず覗き窓があった。ここから外の者を窺っているようだ。街の最上部には必ずモスクの塔であるミナレットがある。

ムザブの谷での妖麗な夢 ●12月22日(火)

 終日、ムザブの谷を巡る。メリカではシディ・アイサの墓へ。シディ・アイサはイバード派の指導者(イマーム)で、コーランを厳格に解釈し、当時の主流派から迫害されて、支持者とともにこの地に逃れてきたらしい。墓は四隅突出型で、周辺は墓地になっている。メリカの住民が亡くなるとこの前で葬儀を行い、その時、遺体は頭を南に向けて顔を東、つまりメッカの方角に傾けるとのこと。

 次はエル・アテフへ。陽気なブラヒムというガイドが案内してくれた。家は漆喰で塗られているが、骨格はナツメヤシの木で出来ている。路地に時々人が一人入れるくらいの窪みがある。女性がその中に入ってすれ違うのだ。そこまでしなくてはならないのか、恐るべしムザブの女。片目だけ残して全てを隠すオバQスタイルはかえって想像力が増して、なんか妖麗である。シディ・イブラヒムの墓と古い時代のシンプルなモスクを見学。

 午後は、ガルダイアの巨大なスーク(市場)へ。ここも現代の光景とは思えない、中世のアラビア世界を彷彿させるところだ。野菜はかなり豊富に揃っているが、全てアトラス山脈の北側から運ばれたもの。この砂漠ではナツメヤシしか育つものはない。魚は氷付けのイワシがあった。

 新市街でチキンの丸焼きを売る店が見にとまる。チキンが苦手なはずのOさんが夜のつまみ用に買えという。600ディナール(約800円)だった。しかし、残念なことにその日の夕食もチキンであった。
 この夜変な夢を見た。夢の中で、ムザブのハイクを被った女性がそのベールを外したら、理想どおりの超美人で、恋に落ちてしまった。しかし厳格な既婚者であったため二人で駆落ちの逃亡の旅に出るラブロマンスの話。昼間の妖麗な想像がこんな夢を見させたようだ。あまりに衝撃的な夢だったからか夜中に目が覚めたのだが、隣で寝ているのはブリーフ姿のおっさんであった。残念!

砂漠らしい砂漠を求めてワルグラへ ●12月23日(水)

 アルジェに戻る日なのだが、航空機がフライトキャンセルになったらしい。違う場所に陸路移動してアルジェに飛ばなければならないとのこと。

 皆がサハラ砂漠のイメージは月の砂の砂漠だったと残念がっていたので、飛行機から見えたような砂漠はないのかとラミンに伝えていた。つまり風紋の鳥取砂丘のばかデカイやつを皆はイメージしているのである。それなら東のワルグラに移動すればあるとラミンが言う。 

 礫砂漠、赤土砂漠の中に延びる一直線の道を時速110kmで走る。あるのは電線だけの道を200km進んで、電線だらけの街、ワルグラに着いた。ホテル・レ・タッシリでブロシェットという串肉を食って、さらに東に進むと砂に埋もれる道になった。ここは見渡す限りの砂の砂漠となり、風紋の美しい中にナツメヤシの木が立っている。遥か遠くには蜃気楼の様にヤシのオアシスが見える。「これ、これ、これがイメージしたサハラだ!」と喜ぶ。砂漠を歩いて風紋の丘にも登ったが、すぐに飽きてきた。ラミンによると外国人観光客は「砂漠、砂漠」という割にはすぐに飽きるのだと言う。途中、塩湖にも寄る。夜はワルグラの庶民的食堂で羊の腸詰や羊肉の炭火焼を食う。街の食堂にはアルコール類はない。

 20:50ワルグラ発、アルジェリア航空AH6217便で22:16アルジェ着。深夜、高級ホテル、オラッシーに投宿。砂漠から戻るとアルジェの夜景は眩しい。

地中海岸のローマ遺跡、シェルシェールとティパサ ●12月24日(木)

 今日はアルジェリアに来て初めての小雨となる。イスラムの国なのでクリスマス・イブの雰囲気は無い。アルジェから高速道路で一路西へ。一時間ぐらい走ると宝満山くらいの大きさの山が見えてきた。シノア・マウンテンと言うらしい。この山の麓がティパサなのだが、先にシェルシェールまで足を延ばす。
 シェルシェール遺跡は2世紀のローマ劇場跡で、残酷な猛獣との格闘ショーなどが行われた場所。街の中にさり気なくというか、ほったらかしの状態で残っている。地中海を見下ろす公園には老爺たちが集まっている。この公園にもローマ時代の石柱などが点在していた。ここで携帯が通じたので、日本のMさんに電話。「報告書を作りますので編集よろしく」と隊長が伝える。Mさんは新聞社OBで、九州の登山史編纂もライフワークにされているのである。それで私は今、これを記録しているのである。シェルシェール漁港を見てティパサへ向う。

 ティパサはアラビア語で「荒廃した都市」の意味で、名の由来となった古代ローマの遺跡群が町には残り、ユネスコの世界遺産にも登録されている。紀元前5世紀にフェニキア人によって古代カルタゴの交易の中継基地として建設され、その後、ローマ帝国、そして、アラブ人に征服された。ティパサは、2世紀のローマ時代の約2kmにわたる城壁に囲まれ、フェニキア、ローマ、初期キリスト教、ビザンチンそれぞれの時代の遺構が集中して残っている。ローマ時代の議事堂、浴場、神殿、フォーラム、円形闘技場、長さ200m、幅14mのデクマヌス大通り、積みあげ式建築の劇場、階段状の泉水設備、4世紀のバシリカ式のキリスト教の大聖堂、モーリタニア王国の遺跡などが国立考古学公園として構成されている。以前はずさんな管理状態、心ない破壊や汚損などが原因で危機にさらされ、環境の悪化が深刻となっていたため、2002年に危機遺産リストに加えられた。その後、保護法制や計画が整備されたことにより、2006年に危機遺産リストからは除去された。
 この遺跡は多くのアルジェリア観光客で賑わっていた。カップルや若者が多い。ティパサ遺跡の入口近くのレストランで、鯛、舌平目、キスとイサキに似た魚などの地中海の焼き魚を食べる。その後アルジェに戻り、郊外のスーパーマーケットに寄り土産など購入。カスバの上あたりを通過してアルジェのホテル・オラッシーに戻り、これで今回の旅も最後となる。

ラミンとのお別れ ●12月25日(金)

 帰国便は午後の出発なので余裕があると思っていたが、ラミンの話だとアルジェのチェックインは4時間もかかるのだという。この国では油田への中国人の出稼ぎ労働者が多くて、彼らが順番を守らないので、その前に先手を打たなければならないという。そういえば今回の旅で、現地の人々は我々の顔尾を見ると必ず「ニーハオ」とか「ジャッキーチェン!」と声をかけてきた。「ニーハオじゃない! こ・ん・に・ち・は」と何度言わされたことか。東洋人とみると中国人がまず浮ぶらしい。しかし、ティパサで会った大学生は日本人と知ると「ソニー、トーシバ、パナソニック、サンヨー、シャープ、ヒタチ・・・・、アイ・ライク・ジャパニーズ!」と語って、日本人の友達が欲しいからメールアドレスを教えてくれと言ってきたので、日本の底力も知られているようなので安心した。
 ラミンが最後の仕事として全員分の出国カードを記入してくれた。入国時に苦労して記入した税関申告書は今は不要だという。ラミンが「日本人はこれからタハト山に登りにくるだろうか」と聞くので、「我々は希少種だけど、ユニークな山だったし、ムザブの谷やカスバは人気がでるだろう」と答えた。ラミンも最初はいかつい男に見えていたけれど、今は、まだあどけなさも残る、愛嬌のあるヤツに見える。お世辞が上手いような男ではなかったが、若いのに尊厳があり、真摯な良いガイドであった。お礼にチップを渡し別れる。
 14:55アルジェ発、カタール航空QR567便で22:50ドーハ着。Oさんと煙草を止めたくなるほど、煙がたちこめる喫煙席で一服だけして退散した。女性陣はドーハでもまだお土産を買っている。

アル・カーイダ??と同乗し帰国 ●12月26日(土)
 ドーハの空港は中東のハブ空港としてアジアとヨーロッパを結び、世界中の人々がトランジットとして利用している。関空行きのゲートで久々に日本人を見ることになった。当然といえば当然ながら、今回の旅でアルジェリアでは一人の日本人にも会わなかった。
こちらはアラブ文化の世界から帰ってきたので、違和感なく、その光景を眺めていた。日本人観光客が奇異な視線を向けているのは、携帯絨毯を広げてメッカに向ってコーランの敬虔な祈りを捧げる2人のアラブ系の若者の姿であった。これがニューヨークやロンドンの空港であればちょっと嫌な光景なのだろうと気付いた。北アフリカでは今「イスラム・マグレブ諸国のアル・カーイダ(AQIM)」がアメリカ権益を標的にすると表明しているので、搭乗者としてちょっとセルフビレー(登山用語で自己安全確保)をしておくことにした。祈りが終わったのを見計らって「こっちの方角がメッカですか?」と話しかけた。なんだ、この東洋人はというような顔をされたが、「昔パキスタンの山によく行ってて、あっちでは西がメッカだったけど、ここでは東なんだね」と話しつつ顔を覚えた。もし機内で不審な行動があったら、再度話しかけるきっかけを作るつもりで、「アッサラーム・アレーコム!(平安があなたたちの上にありますように!)」握手の手を出したらハグで返された。
※預言者ムハンマドは「どのようなイスラムが最もよいのですか」と尋ねられたとき、「人に食べ物を与えることと、知っている人にも知らない人にも挨拶することだ」と答えたという。

  でも結局、機内では映画を見ながら爆睡してしまったのだが、何も起こらなかった。帰国後、同日アムステルダム発、デトロイト行きのデルタ航空にて爆破未遂事件があったことを知る。乗客がテロを阻止したというので、人事ではない気がした。でも、カタール航空の二人の若者には、疑いを抱いて申し訳ない気分だ。心から「アッサラーム・アレーコム!」
 怪しく思われたのは山帰りの髭面の東洋人の方だったかもしれない。今思えば、アガハル山地に出没した「月光仮面部隊」はかなり怪しい集団だった。

 01:00ドーハ発、カタール航空QR820便で帰国の途へ。16:20関西空港着。久々に日本のビールを飲んで、20:35関空発、全日空にて21:50福岡着。解散。




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