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あなたの目に映る、わたしを見る。


「君の眼に映る僕を、僕は知れない。だから、君に会うのは、自分と会うみたい」
と歌っていたのは、中村一義だったと思う。

ぶっちゃけわたしがあなたの目にどう写っているかなんて、怖くて知りたくもないと思っていた。
外見内面含めて、自分が他人の目にどう映っているのか人間なら誰しも気になると思うのだけど、わたしの場合は人の5億倍くらいその傾向がつよいと自覚している。

(この数年特に)ずーっと苦手だと思っているのが、写真だ。
なぜならば写真はものすごく正直だから。
その人のそのままの姿を写してしまうし、客観的な視点からの自分を目の当たりにするなんて恐怖でしかない。

笑われるかもしれないが、写真を撮るたびわたしは毎度自分がちゃんと「人間」に写っているか、いつも心配になる。

うまく隠しているつもりでも隠し切れてない心の奥底の邪悪さがじわじわと皮膚から染み出して、うっかり人間の体裁を保てていないのでは、と妄想してしまう。
日頃から取り繕ったり、自分の感情をごまかしまくっているせいか、ただ、そこに「いる」だけのことがうまくできない。
じっと内側を見られるなんて、すぐにでも逃げ出したくなってしまう。
ただ自分でいる、ということの難しさ、居心地のわるさは、実はこれまでずっと感じてきたことだ。
それを突きつけられる行為がわたしにとっては、写真なのだ。
うーん、これ、うまく伝わるかなあ。


✳︎


そんなわたしが、先日、友人に写真を撮ってもらった。

前からカメラをやっていることは知っていて、SNSで作品を見て、すごく優しい色の写真を撮る人だなあと思っていた。
独特の静けさと温かみのようなものが混在していて、ありのままなんだけど、押し付けがましくなくて、撮影者の感情もきちんと刷り込まれているような写真。
静かだけど、きちんと意思をもってそこにいるその人の人柄と同じだなあと思っていた。

SNSに写真に対する感想を書いたら、撮ってくれるという話になり、うれしかったけれど少し迷った。
その場では「ありがとうございます!」とテンション高く書いたけれど、じつはちょっぴり後悔もあった。
わたしの迷いと同調するみたいに、約束の日は雨が続いたり、わたしの体調不良が重なったりで、何度か撮影が流れた。
それが有休をとっていた平日、偶然に休みが合ってついに決行されることになった。
久しぶりに晴れた金曜日だ。

「じつは写真が苦手なんです、自分が人間に写るか心配です」とちょっと冗談めかして話すと、
その人は「わたしも自分じゃない人の輪郭はくっきりしてて、自分の輪郭はぼやけているように感じます」といつもの穏やかなトーンで言っていた。

「どんな顔すればいいのかわからない」というと、「笑っても笑わなくても、こちらを見ても見なくてもいいですよ」とその人は言ったけれど、しばらくはレンズを直視できず、下を見ていた。


好きなもの、嫌いなもの、いつもどんなことを考えているか。
シャッターを押すのと同じくらいの割合でおだやかにぽつぽつと聞いてくれて、話をしながら、写真を撮り、住んでいる街を歩いた。

途中までわたしはごまかし笑いをしていたのだけど、どこかのタイミングから個のわたしとして、レンズをまっすぐ見られるようになった。
べつにごまかす必要はなくて、そのままの姿でよいのだ、それにどう写っていても自分を許せる気がしたのだ。
同時にハッとした。

わたしはこんなふうに自分のことを聞いてほしかったんじゃなかろうか、本当は、誰かにレンズを向けられるみたいに、まっすぐに自分と向き合って欲しかったんじゃなかろうか、と。

今写っている自分の姿が人間の姿じゃなかろうと、どんなに醜い表情をしていようと、いまここで本音を話している自分というものをまずはわたしが受け止めなければなあと自然に思えたし、なんだか普段話さないようなことも、言葉を探しながら話してしまった。

撮影の後、最寄りの駅前でまた別の友人がコーヒーを間借りで淹れているというので、アイスコーヒーを飲みに行く。
冷たくて苦くてとても美味しく、不思議な達成感もあり、部活の後みたいな良い時間だった。

✳︎

その日、すぐに送られてきた写真は、どれもなんだか自分ではびっくりするような表情をしていた。

同じくその人に以前写真を撮ってもらった別の友人が、「この自分が好きと思える稀有な写真」と話していて、まさにそうだな、と思った。

「笑顔と真顔のあいだに、楽しいことにも悩むことにもまっすぐ向き合う〝切実さ〟を感じました」とメッセージまでもらって、なんだかとっても大きなマルをもらったみたいな気がした。全部知ってたよ、と笑ってもらえたような。


二の腕も気になるし、姿勢もよくないし、笑うと口元は歪むし、最近濃くなってきたほうれい線もぼやけた輪郭(これは実際にぼやけていた笑)も全部あまり好きじゃないけれど、36年間四苦八苦しながら生きてきたことが表れているし、それ以上にちゃんと人間で本当にほっとした。
そのままでOKです、という、最大級の肯定。

本人は照れくさいと言うかもしれないけど、これは彼女にしかできないセラピーだと思った。その人にしかできない仕事だと思う。本当すごいよ。

自分が触れたくないと思っていたもの、目を背けていたものに意を決して触れた時、意外と簡単に見たこともない扉が開くことがあるなあと思う。
それは人にきっかけを与えてもらうことが多い。


3年後くらいにまた撮ってもらいたいなあ。
少しずつ歳をとっても、そんな自分もなんとなくいいなあと思えたらすごくいいと思う。
家族写真も素敵だけど、自分がちょっと立ち止まりたい時、ひとりぼっち記念写真もいいですよ、と伝えたくてここに書いておく。

photo by Ayako Takeda

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