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氷山の一角

ということわざがある。氷山は大きいが、見えている部分は一部で、残りの大部分は海の中に隠れているという。表に現れている物事は全体のほんの一部分にすぎないという意味で使われ、割とマイナスの使われ方が多いイメージがある。

イメージはさておき、言葉通りに捉える。表に見えている部分がすべてではない。隠されている部分が大部分かもしれないこと、自分が知らないだけで存在しているかもしれないものがあることを忘れないでいたい。これを忘れると、さながらタイタニック号のごとくひどい目に合う。

見えないところに大部分がある、というのは能力についても同じだと思う。何かをするには見える部分だけ取り繕うとうまくいかないことがある。付け焼刃ともいう。

昔くまをデフォルメしたキャラクターを描いたら、とてもじゃないが魅力がなかった。ラインスタンプとかで見るシンプルな線の絵なら、私でも描けると思ったからだ。私はこんな絵も描けないのかと少し悲しんだ。だけどあれから5年間くらい、絵を描き続けてデッサンや色など多少の知識を身につけて思う。簡単な絵は簡単に出来上がるものではない。背景知識や技術を一通り身につけたうえで、崩して描くからそれらしく見える。ピカソのキュビズムの絵は、あれだけ見たら描けると思う人がいるかもしれないけど、もともと彼は写実的な絵がものすごくうまい。それで一通り絵の技法や世界の見え方を知ったから、それを応用してあれができているのだと思う。ぽっと出であの変わった描き方をしたのではない。長い長い積み重ねの末に大きく知られるようになった一部分なだけだ。

これと同じで、1+2=3のようななたし算を教えるのは、たし算を知っているだけでは難しい。りんごは1つあっても、1という数字の概念は目に見えない。りんごでなくても、いちごでも、消防車でも、フェラーリでも、赤いものではなくても、1つと2つを合わせたら3つになる、じゃありんご1つといちご2つをたしたら3つになる?ならない。くだものは3つになるが、同種でなければ足すことはできない。いちご2つと消防車1台を足してもなににもならない。足す事ができない。はじめて数の概念に触れる子どもたちが、ん?と首をかしげても教えてあげられるためには、難しい問題まで一通りわかるくらい数学を知らないと、難しい。多分、簡単そうな概念を教えるのが一番難しいのではないかなと思う。表に現れる(わかっている)部分と、それを支える部分との乖離が大きいからだと思う。

この世界には、たくさんの氷山がある。いくつか気をつけることはある。確かな裏付けのもとに表に出たほんもの、張りぼてのにせものを見極めること。見えていなくても張りぼてでも、自分が知り得ないだけで大いなる苦労や努力のもとに成り立つものがあること。裏付けるものがないまま発信したものは、ぼろが出ること。見えない部分を「ない」ことにすると、痛い目に遭うこと。簡単に消費できるものは簡単にできていないこと。この記事は50分で書いたが、この考えが自分の中で大きく育ち、自分でも言葉にできるようになるまで何年もかかっている。そうやって、様々な偶然が表面化して人生は動いている。

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