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新卒で教職に就いてうつになったけど、なんとか4年目になりました。

コロナ禍の中で就職することになり、実働6か月で適応障害になった。6か月はとても長いものだった。

夢に見た教職に就き、2年生の担任をした。初めは何をしていいかわからず、一から組んでいる先生に教えてもらい、一つ一つやっていくことはとてもストレスだった。初めてのことを失敗できない。漢字ドリルを選んで、赤色のペンで慣れない言葉をメモする。任命式で出してもらったお茶を、その日の昼には自分が先輩の顔とコップを覚えて出す。どんなクラスにしたいか問われる。「楽しいクラスにしたいです」「楽しいだけじゃないよね。」ノータイムで返ってくる返事は、一切自分の言葉を受け止めてもらえたとは思えなかった。たった一日の間にこなした仕事だけで、体は悲鳴を上げた。動き回り頭を回した。それ以上に、自分がとても歓迎されたものではないような、職場の雰囲気を感じた。

今は4年目になった。4年前の夏は地獄のようだった。仕事に取りつかれていた。10月に行う授業に向けて指導案を作ることになっていた。指導教官と、初任者研修で決まった授業の方向のイメージが合わず、そんな授業は難しいよと否定ばかりされていた。泣きながらコンビニに作った教材を印刷をしに行った。それは、結局やることなく、私は休職に入った。職場の駐車場で片頭痛から吐いてしまい、ついにドクターストップが出た。

私は何がそんなにつらかったのだろうか。一日の中でやる仕事の多さ。朝は7時過ぎに学校につく。勤務時間は8時15分からだが、その時刻には子どもたちは出席して朝の会を始める。休み時間は子どもと遊ぶ元気が出せず、いつもうつむいて歩いていた。子どもに向かって芯のあることを言えるほど、自分がちゃんとした人間だと思えなかった。給食は子供ほどの量も食べられなかった。コロナの中、配膳と喫食に気を使うが、子どもは静かにしない。私の力のなさを言われているようだった。

今は4年目。コロナも明け、給食は子どもと一緒に食べることができる。笑いながら食べることができる。今は給食の時間が本当に楽しい。

3年目の去年、9月に体が動かなくなった。恵まれた学年と同僚の先生で、不満なく過ごせていたのに、体だけがしんどかった。医師に、うつ病だと言われた。ジェイゾロフトを飲み始めることになった。それは今も続いている。

適応障害だけだと思っていたのが、うつ病とわかり、薬にも頼らないと、今では不安感や焦燥感、自分をだめに思ってしまう気持ちなどもわいてくる。後戻りができない沼に、ずるずると歩みを進めてしまっているような気がしてならない。

教師は仕事が多いと言われる。しかし私が一番言いたいのは、コロナ禍の教育現場は孤独だったと言わざるを得ない。数か月の遅れが今も子どもたちの成長に影響しており、それを自分の責任に思ってしまう教員も少なくないはずだ。子供と向き合うにも距離が必要。悩んでいることを気軽に話せる雰囲気のなさ。通常業務の忙しさに加えて、給食やオンライン授業、様々な影響で仕事が増えたと言われている。正直なぜ仕事が増えているのかもわからず、給料も増えない中で仕事だけがふえていく。そして受け入れてもらえる人的なゆとりのなさ。新任教員は、自分の力で乗り越えられるキャパシティをこえて壊れ、それを4年たった今も引きずっている。
精神に病気を抱え、結婚もできず、仕事も今はサポートを受けながら、肩身を狭くして行っている。これは、弱かった自分の責任なのだろうか…

こんな中でも、続けているタフで思いの強いすごい先生方はたくさんいる。休職して帰ってこられたのもそんな、抜けた穴までがんばってくれた先生方がいたからだ。私はそれが申し訳ない。今でもだ。自分が脱落したことでさらに先生方を大変な思いをさせてしまったのだから。

今はうつを抱えながらも仕事はできている。迷惑はなるべくかけないように、でも自分が死なないように何とかやっている。4年前の今頃は、死に方や転職のしかたや、仕事の休み方を検索してばかりいた。でも4年、なんとかやってるよ。信頼できる医師を見つけることができ、休んで回復することができてよかった。

いつもありがとうございます。もしサポートしてもらえたら、とても頑張ります。ちょっとでもいいお話が皆さんにできるように…