妄想出力装置

絵を描くことが好きだ。趣味で描くにとどまっているが、うまくなりたい、という思いはある。

幼少期からクレヨンをもっては同じような人ばかり描いていた。架空の女の子だったのだが、誰かに「その子になりたいの?」と聞かれて、幼いながらにはて?と考えてしまった。別になりたくはないし、フリフリでリボンたっぷりのお洋服とは縁がなかったので、自分がそれに憧れているかどうか考える機会もなかった。ただ、お友達の描く女の子がかわいくて、女の子を描き始めた。髪の毛をくるくるにしたり、ウインクをさせたりしたら、逆にお友達が「かわいい!わたしもかく!」と真似してくれる。ある時黒い丸だけで描いていた目を、上半分を白く塗り残したら、とても生きている感じがした。確実に今見返したら、どちらも未熟で、明らかに子どもの描く絵、といった感じなのだが、当時の自分は、まるでそれが生きた人間に見えたのだ。

たぶん、描いていたのが女の子じゃなくて、犬や仮面ライダーだったとしても、同じことを思ったと思う。幼くたって見ている世界は大人と同じだ。犬はもふもふで、動き回ることは子どもにもわかるが、はじめは表現のしかたがわからない。つるっとした輪郭で、4本足の生き物を描く。そこから、ある時急に、輪郭を雲のそれのように細かくふわふわさせることを思いつく。すると途端にもふもふして見える。またある時、足を全部同じ向きにしないで、ちょっと違う方に向けることを発明する。すると、まるで走っているように見えてくる!もふもふの犬が走っている。描いた本人は、自分が見たままの犬を、スケッチブックの上に再現した喜びで満たされる。大人からしたら、なんてつたなくてかわいい絵、と思うかもしれないが、子どもながらに、自分のイメージをせっせと手で出力していた。

伝える手段が未熟だったり、不完全なだけで、その人の想像の中ではものすごく豊かな世界があるかもしれないことを、忘れてはいけないと思う。すばらしいデザインのポスターを作って、ただプリンターが古すぎてガビガビの印刷になったり、解像度が低いせいできれいに見えなかったり、そもそもプリンターを持っていなかったりするようなものだ。表に出されていないだけで、すばらしいポスターがあることには変わりはないのだ。社会の通念としては、表に出なくては価値がないとされるし、思っていることを発言しなければ考えていないのと同じだと言われてしまうが、人を理解したいと思うとき、この考えは常に持っていたいと思う。

また一方で、自分の「出力装置」の技術を高めていたいと考える。思っていることは伝えたいし、伝えることは難しい。だからこそ、できるだけ自分が表したいものを、思ったままに表現したい。頭の中に浮かんだ景色を、共有したくて絵を描く時、やはり画力は必要になる。それで誰かが何かを感じてくれたらうれしいと思うし、その分かち合う瞬間のために絵を描いているようなものだ。そして何より、絵なら言葉がわからなくても会話ができる。

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