仙人の発狂

 ずいぶんと冷静に発狂するようになった、と思う。以前は怒るにも、悲しむにも、思い出し笑いすら、脊髄反射だった。理屈も自意識も差し挟む余地なく、感情は己のうちから湧いて出るものだったはずだ。近頃ではそうした理屈抜きの感情を、ほとんど感じなくなってしまった。いや、感じてはいるのかもしれない、とわたしは鶏の骨を舐めながら考える。ふと我に返ったようにしか、認識できないのだ。たとえば、今、わたしはうんざりしているのか、というふうに。

「いい加減、何とか言ったらどう」

 彼女は苛ついている。わたしよりもよほど分かりやすく。

「何とか」

 ふざけたつもりもないが、わたしはそう言って、口の端にくわえた骨の先を舌で揺すった。怒らせようと思った。明確にそれを意図したわけではないが、見当はずれの返事をすれば、彼が何か反応を返してくれるだろうと期待したことは確かだ。しかし、彼女はそれにとりわけ気を留めた様子はなかった。

「おい、返事くらいしろよ」

 彼は苛ついている。わたしよりもよほど分かりやすく。

「はーい。呼んだ? ほら、返事したよ」

 見当はずれの返事は、彼女には一向に堪えない。むしろ、からかっているわたしの方が楽しくなってきて、おもわず小さな笑いが零れ落ちた。吐息のせいか、それとも肩を揺らしたせいか、額に髪が落ちてくる細い感触がした。眉間がむず痒くなる。親指の爪で削るように引っ掻くと、熱が灯って神でも仙人にでもなれた気がした。

 確かに今、わたしはうんざりしている。と同時に、かなしくも楽しくもあった。それをどこか、他人の気持ちを推測するかのように観察している。ずいぶんと冷静に発狂するようになった、と思う。

「ねえ、ごめんってば」

 彼女は苛ついている。わたしよりもよほど分かりやすく。

「なにがごめんなのだろう」

 とわたしは思う。

「なにを謝っているのだろう」

「そりゃ、今、わたしはうんざりしているが、同時にかなしくも楽しくもある」

「神でも仙人にでもなれた気がしている」

 彼は苛ついている。わたしよりもよほど分かりやすく。

「しかしそれはわたしの架空の、想像でしかない」

「願望であり、希望的観測でもあり、妄想だ」

 妄想と分かっているんだけど、だから頭もはっきりしていると思うんだけど、でもこれは冷静に発狂してるって言っていい気がするんだな。

「なぜなら、彼女は棺の中にいるのだ」

「わたしは死んだ彼をしゃべらせている」

「わたしはうんざりしている。と同時に、かなしくも楽しくもある」

 ああ、そうか。

「わたしは唐突に、水に飛び込んだように思い至った」

 きっと、愛していたのだ。

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