ピクミン4と任天堂

知り合いから借りれたので上の子とやってます。
表面上は可愛いけど明確に生命のやり取りが行われるアンバランスさが印象に残るゲームで、
ゲームキューブでの第1作からかれこれ20年選手になろうかという長寿シリーズである。
大筋はシミュレーションゲームに似ているようでありながら、戦いはあくまで資材運搬に立ち塞がる関所のようなものであるし、ピクミンは色で大別されており役割分担はそこまで複雑というわけでもない。あえて悪い言い方をすればピクミンは捨て駒の消耗品で代わりがいくらでも居り、そこは大変に割り切ったゲームである。
ピクミンはモノを運ぶか敵に取り付いて戦う単純作業しか出来ず、手持ち無沙汰になれば拠点に帰るわけでもなくそのままそこで時間を潰すようになり、夕刻の点呼時に帰還出来ていなければそのまま食われてしまうという悲惨な結末を迎える。
食物連鎖では下位の弱い生物という立ち位置でありながら、捕食者は大体夜行性でこちらから寝込みを襲う格好になるし、縄張りから出て追いかけて来ることもない(逆に言えば、捕食者の縄張りに侵入するから襲われる)のでバランスが取れていないわけではない。誤った戦法でもゴリ押しで誤魔化せるゲームでは無いので、分が悪い戦いを続けるよりかは一旦退却して戦略を練り直した方が賢明なのだ。

先程夕刻、と書いたのもなかなか大事な所でゲーム中の日中時間でしか探索が行えない都合上スケジュール管理がかなり重要であり、強敵を倒してからその先にあるアイテムを持ち帰る時間も考慮せねばならない。

1作目の記憶しかよく残ってないのだけどゲーム根幹のバランスや醍醐味は最新作でもあまり変わってないと思った。
ゲームが全体的に平準化、簡便化の方向に進む中でも任天堂は良い意味で独自路線を突っ走っているからこそ、ハード&ソフトメーカーが両立させられる。ゲームの予算高騰化・開発長期化でソフトメーカーの買収・囲い込みに躍起になっている残り2社の派閥争いなぞどこ吹く風だ。スマホ勢力を二分するApple、Googleでさえもゲーム開発という分野を軌道に乗せられていないのである。ピピンアットマーク

開発のインタビューも読んだところ初期の構想ではピクミンの元ととなるキャラクターに雌雄の概念があったようだけど、ここは昨今のジェンダーレスのこととかも考えるとあえて設定しなかったことが有利に働いたと思う。植物側と捉えても雄しべと雌しべはあるが、ピクミンはピクミンなのだ。
特に自己を確立する年齢より小さい子供だと、このキャラクターは男性だから男の子向け、女性だから女の子向けという所に拘るのだけど、ピクミンにはそれがないので誰からも好かれるのだと思う。自分もピクミンというシビアなゲーム自体は苦手に感じてもピクミンそのものに対して悪い印象はないので、キャッチーなキャラクターはそれだけで強い長所になるのだろう。
ポケモンの主人公から性別の表記を排除した所で、肝心のポケモンにはオスとメスの属性が残されたままで根本的な解決にまでは至っていないように思える。

ピクミンがこれほどまでの長寿作品になり得たのは、後発の似たコンセプトのゲームが登場しなかったのと(個人的にバイオ5はAIアクションと捉えているというのは、また別の話)やはりシリーズ当初の仕掛け人としてマリオやゼルダの生みの親である宮本茂氏が居たことの存在感が未だに大きいのだと思う。
現在は代表取締役フェローという聞き慣れない肩書きながら、映画やUSJのマリオを披露した時に元気な姿を見せてくれたことは、岩田聡元社長が亡くなった後もキャラクターや製品等のブランドを大事にする会社であり続けることを知らしめた安心感が大きい。

やはりゲームでも、このお野菜は私が作りましたみたいな開発者の顔が見えた方が何かと親しみを感じてしまう。ITの分野がむさ苦しい男社会であることはまだまだ変わらないんだろうけど、顔だけで雇われてるお姉さんの話なんか誰も聞いてないんだよなあ

思うに、ピクミンが生まれた頃に任天堂がゲームの中で表現しようとしたのはデジタルで無機質なバーチャルの娯楽であるゲームの世界の中に生きるキャラクターや生命の営みのようなものだったんではないか。リアルなキャラクターを追求した所で、どこか生々しさや説得力がなければ客からは愛されないのでは無いかという葛藤にも似たジレンマがハードの世代が変わり表現力が増す度に感じ取れるようになったし、それは今でも変わらないと思う。
ちょうどゼルダがブレスオズザワイルドでゲームデザインを大きく見直した際に、回復アイテムであるハートの要素を撤廃させ食糧の採取というシステムを搭載したことなどがこれに当たる。
世代を超えて楽しめるはずのオンラインゲームが元でトラブルに至ってしまい、子供の心を抉るような体験は何としてでも避けたい、そういう気配りもあってゲーム内での直接的なコミュニケーションはあえて制約を設けているのだと思う。

昔によくあったリセットすれば何度でもキャラクターが蘇るゲームばかりしていると死生観のわからない子供になってしまうという偏見を払拭しようと頑張ったんでは、という気もする。(実際にはゲームキャラクターの死亡には大きなペナルティを伴うことが多いのでゲームに触れた人ほどピンと来ない例えなのではあるが)
生死以外には時間の進行というのも不可逆的な要素であるし、そういうマンネリ化を避ける取り組みを任天堂はしてきたんじゃなかろうか。ゲームでもメリハリというものが無いとだれてしまう。時間管理をゲームの内容で昇華させたのがムジュラの仮面で、このゲームは3日間システムというややもすればボリューム不足と捉えられかねない時間制約という短所を逆手に取り今でもあまり見られない程のNPCの人間関係の濃さや綿密なフラグ管理(イベント発生条件)がなされている。

やはり勝ち負けや効率、お約束を重視してしまうと、やがて残るのは強者や古参だけの空間になり新規層の獲得には限界があるのだ。

もし、任天堂の存在が無ければゲームという娯楽が映画やアニメ等の映像作品、スポーツやボードゲームなどの競技、殺し合いや戦争などの犯罪・暴力行為、性愛の疑似体験に留まり独立したエンタメやゲームを超えたメディアミックスやキャラクタービジネス、特定の世代の常識として存在することは難しかったんではとさえ思っている。
ソニーにしろマイクロソフトにしろ、現在も通用するメーカーの象徴足り得る知名度の高いキャラクターは生み出せていないのだから。

大人向けとされる過激なゲームも良いのだけど、やっぱりそういうものにはどこかの年齢で嫌気が差してしまうものだと思うし。

ぐー💤


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