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本当にひとりの時間には、なにもしたくないんだ

たまーに、こころの底から湧き上がってくるみたいに「ひとりになりたい」と思う。

それは苦しくて切実で「だれともいたくいない、なにもしたくない、ひとりになりたい、どこか、どこかへ」って波。

べつに何があったわけでもないし、日々うまくやってるにもかかわらず、だ。
それなりにがんばっているけど、がんばりすぎということはなく。
ひとりの時間は十分だって思えるくらい確保できていると思うし。
わずらわしい人間関係も、てきとーに距離を置いて快適にやってる。

特にさいきんはほんと、うまくやっていると思ってたんだけど。
それでも湧き上がってくるんだよなぁ。

学生の時でも、会社にいた時でも、子育て中のいまでもこの感覚は同じもので。
特徴的なのは「ひとりの時間で○○がしたい」って欲望がないことだ。


なんにも、したくないのよ。

なんにもしないで、いられるのが希望なのよ。


夫にそんな話をしてみる。

「そりゃ、あなたが満たされる『ひとり度』がそのくらい必要だからなんでしょ」

夫いわく。
ちょこっとひとりで過ごすだけで満たされる人もいる。
たとえば、ほんの2時間くらい街をぶらついたり、お茶してきたりとか。
それと同じように、ちょこっとじゃ満たされない人もいるもんなんじゃないの。その人なりの、適正『ひとり度』があるんじゃないの。

なるほど。


思い返してみると、わたしは「ひとりになって、なんにもしない」を前から定期的にやっていた。
高校の時には「わたしホリデー」とか言って、突発的に学校をさぼってた。なんかね。登校中にふと思い立つんだよね。「あ、今日はホリデーだ」って。さぼってるって意識なんかなかったな。わたしの世界では、今日はホリデーで公休だ。と本気で思っていたから。


子供が生まれて、「ちょっとどこか行って息抜きしてきたら?」という言葉にずっと違和感と反発があった。

どこかに行ってこないとダメなのか?と。

どこかに行って、何かをしてこないとダメなのか?と。


どこにも行きたくないし、なにもしたくないのに。ひとりになりたいだけなのに。

そう言葉にできるようになってからは、夫が子供をつれて遊びに行くようになったから、よかったけども。
これはほんとひとそれぞれだなーと思うところで。
夫の場合は外に出る方がせいせいするそうだ。


きっとわたしは、水にでも浮かんでプカプカ揺れてるくらいがいいのだろう。

意味なく。ゆらゆらと。

生きるために必要なものなんてどっかに置いといて、身一つでそこに在ればかってに、満ちる。

クラゲみたいに。って思ったけど、たぶんもっとどうでもいいものに似ている。


生き物らしい活動もわずらわしくて、意味や理由もいらない。
そこにある温度も、風も、海の美しさや豊かさもどうだっていい。
なんだって関わりない。わたしはひとりだ。

海上で意味なく揺られるだけの、ビニール袋みたいに。

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