男女論とその他もろもろ

生きがい

太宰にとって、生きがいとは何だったのか

『人間失格』

映画館で映画を観ることが苦手な私が

初めて公開日に観に行った。

チケットを機械で買うのに手こずり、

数秒間、機械の前でじーっと考え、購入した。

通路を通り、あ、席ミスった、と思いながら、

本編開始を待った。

そういえば、映画館で映画を観たのは
いつぶりだろう。

そう思い返すに、「ナラタージュ」以来。

あの映画を鳥取で見た後、
どうやって鳥取駅まで歩いたか、

ほとんど覚えていない。

そのまま、原作の文庫本を購入し、

著者である島本理生さんのファンになり、

ページの端がよれよれになるまで
何度も読み返した。

お前は、清純な恋愛が嫌いだな・・・?

そう、誰かに囁かれないようにその後、
ひっそりと本棚にしまった。


お前は清純な恋愛が嫌いだな・・・?

そうなのかもしれない。

少女漫画も、暖色が覆う恋愛映画も
見てこなかった。

ああ、そうなのかもしれない。


スクリーンに映る美しいはずの花が、
付随する音楽によって

軽快で、美しい醜さと化していた。

気味悪かった。


太宰にとって、女とはどんな存在だったのか。

本当はそのことを語りたいのだが、

ネタバレになるかもしれないことへの危惧と、

そもそも太宰を語るほど、
私は太宰を読んでいない。

ファン失格である。

よって少し、広域にしよう。

作中にも出てくる坂口安吾という
作家がいるのだが、

(この人のエゴイスト論は
今の時代でも頷ける)

その作家の代表作『堕落論』ならぬ、

男女論

このテーマで語ることにしよう。


この映画には、三人の女が出てくる。

太宰の本妻、作家志望の愛人、最後の愛人

よくよく考えてみると、

私が今までに読んだ太宰作品は、
ほとんど女が主人公のものであった。

『斜陽』『ヴィヨンの妻』

(因みに、私的におススメは『正義と微笑』)

しかしながら、内容把握が私には難しく、

斜陽に関しては、
最後に弟が自殺したことこと、

上原という男と不倫したことしか
覚えていない。(おいおい・・・)

ヴィヨンの妻は、ダメな男を支える女性というイメージであった。


この程度の太宰知識で女を語ろうと思った
心意義に我ながら恥じさえ感じる。

けれど、正直、この映画はフィクションだ。

その最後で最大の命綱が切れる前に、
語ってしまおう。


太宰は今の言葉でいうところの

「究極のダメ男」だ。

酒を浴びるように飲み、
タバコを四六時中吸っている。

何人もの愛人を抱え、愛と恋に溺れていた。


溺れて、溺れて、堕落する

太宰は「生きること」
そのものに苦痛を抱いていたに違いない。

では、太宰に溺れた女性にとって、
太宰はどんな存在だったのか。

生きがい

それそのものではないだろうか。


生きがい

【意味】:生きる価値


人間は自分の意思でこの世に転がり出ない。

どこぞの男女の意思決定の末、
転がり出てくる。

気がついたら、あら、肺呼吸してるやん!
てなわけである。

そんな人間が、いつしか生きる意味的なものを考えるようになる。

いつからそんなことを思うようになるのかについても、議論してみたいところなのだけれど、とりあえず、省略。


私はこの生きがいには、
男女による差が大きいのではないかと
映画を通して、考えるようになった。

太宰を愛した女は、皆こういう。


「子供がほしい」


私はここに男女の差があるような気がする。

女性は、身をもって子供という
自らとは別の個体が

身体の中に存在していることを
実感することができる。

そして、その個体に自らの生きがいを
感じるようになる。


この個体を世話しなければ、死んでしまうかもしれない


今でこそ、粉ミルクや離乳食が販売され、
乳児保育園というものも存在しているが、
太宰の時代には満足いくほどのものがあったとは考えにくい。

となると、母乳が出る女が世話をするというのが、糸の絡まりなく、

浸透していったと考えられる。


もう少し、踏み込んで言葉を紡ぐなら、

女性は生きがいを見つけやすい
ともいえるのではないか。

だからこそ、社会進出が「女性」という
性別にだけ、社会の言葉として、
広まっていったように思う。

「女性の社会進出」を
別の言葉に置き換えるのならば、

女性が内にだけでなく、外に生きがいを見つけたこと

そう置き換えられるのではないだろうか。


さて、男性はどうだろうか。

生理的な機能から、
外で働くことを生業としてきた。

男は外、女は内

男は働いて、女はそれを支える。

東から日が昇り、西に没すると同じくらい、

シンプルな一文だ。


んじゃあ、外に生きがいを

そう思った男性たちが作り上げた世界が、

今の男性社会であろう。

校長も、教頭も、社長もほとんどが男性。

管理職が女性だと「おーー」無意識に思ってしまう私の感性。

ただ、生まれてくる前から作り上げられていた既存のものでしかないのに

勝手に正解だと思ってしまい、
受け入れてしまうこの怖さ。


今、私は外=仕事として考えてきた。

ただ、この捉え方には、
二つあるような気がする。

一つ目は、生きがいを感じるために仕事をする

二つ目は、仕事自体が生きがい


一つ目の最も理解しやすい例が、子供である

(また出た、キミ!)

子供のために、家庭の為に、
そこで自らの生きがいを感じるために

仕事を頑張る。

二つ目が最近、よくフォーカスされる仕事観であるような気がする。

仕事自体にやりがいを感じており、楽しくて、好きで仕方ない。

勿論、複合型である人もいるだろう。


どんな形であれ、私が男性は大変だなと思うのは、

どんなに働いても、男性の社会進出とは言われない。

男性なんだから、働いて当たり前やろ?

別に褒めるにあたいせえへんわ

そんな、誰かが流した通説を、誰しもが正しいと思い込んでいる。

いや、刷り込まれている。


女性は

キャリア―ウーマン、働くママ、

どことなく聞こえのいい単語がたくさんある。

しかし、男性にはない。

キャリア―マン、働くパパ、

ない、聞かへん

ああー、世の男性は苦労してはんねやな。


そんな男性が、労をねぎらってくれる
何かに加担するのは、
道理といえば道理なのかもしれない。

それが趣味であったり、
キャバクラであったりなのかもしれない。

(ここまで書いていて、手が止まる。
女性も同じやん)


太宰は、ここで酒とたばこを選んだ。

そして、女と、書くことに命を注いだ。

複雑に絡まり合っているかのように見える太宰の人生は、思いのほか、単純なものなのかもしれない。


そして、この映画が私に考えさせた。

人間が心動かすものは何なのか。

心が動くと主観的に感じられるものは何なのか。


儚さ


「人」の「夢」というと、いささか抽象的だが、

心を動かすためには、

心を乗せなければいけない。


心を乗せるのには、体力がいる。

その体力消費を、他者は「魂を削る」と表現するかもしれない。


小枝ばかりの焚火はすぐに消える。

その上に新聞紙を乗せても、
一過性の炎に過ぎない。

ならば、小枝が集まって大木になればいい。

(↑社会学だと、相対的剥奪っていうんだって)

そう考えることもできる。

今風の考えかもしれない。

しかし、私は思う。

それは大木ではない。嘘ものだ。


いつもそうやって束になって

いい気になっていたら、ある時に気がつく。

所詮、小枝だ、と。


ならばいっそ、
小枝で燃え尽きたらどうだろうか。

その燃え尽きる瞬間、人は心動かされる。

それが太宰の人生だったのかもしれない。

新聞紙が酒と、たばこと、それから女。


虚偽の束になった瞬間、

小枝から大木になれた瞬間、

大いなる興奮や、達成感を味わった瞬間、

そこには失うものがある。


けれど、失うからこそ、儚いからこそ、

そこに生きがいを感じるのかもしれない。

(私が「長生き」を賛美する世論に賛成できないのはこのあたりからなのかもしれない)


その前に、お前、太宰をちゃんと読めよっていう、おはなしでした。

映画館で観る人は、
音が大きいから気をつけてね。

あと、心臓に負担がかかるので、

心配なことがあるときは
観ない方がよいと思います。

Fin.

























































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