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サン・ファン・バウティスタ号と支倉常長(その1)

ニュースで、サン・ファン・バウティスタ号の復元船が解体されると報じていました。僕も何度か行った事があります。
サン・ファン・バウティスタ号と言っても、宮城県民以外にはあまり知られていないかも知れません。
そこで今日はサン・ファン・バウティスタ号とその船ではるか昔にヨーロッパまで渡った一人の侍のお話を書いてみたいと思います。

今から400年近く前、1613年10月(慶長18年9月)に、仙台藩の月ノ浦という、うら寂しい入り江から一隻のガレオン船が出航しました。
その名をサン・ファン・バウティスタ号といいます。
洗礼者・聖ヨハネという意味の名を持つその船は、はるばる太平洋を横断して、メキシコを目指していました。

話は2年前に遡ります。

1611年12月、慶長大津波が仙台藩を含めた、太平洋沿岸を襲いました。
この震災で、仙台領だけでも5,000人を超える死者が出たと言われています。
この時、スペイン人の貴族で軍人、探検家でもあるセバスチャン・ビスカイノは、仙台領三陸沿岸を測量中に、海上で大津波に遭遇します。

ビスカイノは、フィリピン前総督が難破した際に救助された事の答礼使として、この年6月に来日し、徳川秀忠や家康に謁見しました。
家康はメキシコとの直接貿易を望んでいたのですが、スペイン側はキリスト教の布教を望んでおり交渉は不調に終わります。
しかしながら、家康から日本沿岸の測量の許可は与えられました。
この時に通訳として同席したのが、スペイン人でイエズス会の宣教師、ルイス・ソテロです。
謁見の2日後、仙台に帰国途中の伊達政宗とビスカイノは偶然出会います。
これが縁で、後日政宗にも謁見し、仙台藩の北部沿岸の測量中に大津波に遭遇したのです。
幸い海上だったので、被害はありませんでした。

以前よりソテロと顔なじみだった政宗は、この少し前に領内におけるカトリック教の布教活動を許可していました。領内に教会を建て、領民に受洗を奨めもしました。
政宗はビスカイノから、マニラからアカプルコへ向かう途中の避難港が日本に欲しいという話を聞き、興味を示します。
またソテロからも、メキシコとの貿易を勧められます。
このソテロはなかなかの曲者で、イエズス会に対抗して日本布教での主導権をローマ法王から認めてもらいたいという野心をもっており、日本での司教の座を望んでいました。また、布教のためには嘘をついたり、他者を欺くような行為をすることも厭いませんでした。

そんな矢先の慶長大津波でした。大津波から二週間後、政宗は新船の建造とスペインへ使者の派遣計画を示しました。
家康がメキシコとの貿易を望んでいた事を知っていた政宗は、津波に襲われた領内の復興の足掛かりとするため、幕府に構想を伝え、許可を得ます。
造船にあたっては幕府側からは、船奉行向井将監忠勝の協力を受け、船大工などを派遣してもらいました。
技術はスペインのものを使い、日本の船大工が造船にあたりました。
日本側には、造船技術や操船技術を手に入れたいという思惑もありました。

1613年には禁教令が発せられ、キリスト教に対する扱いが厳しくなります。
そんな中、ソテロが捕らえられ火炙りになるところを政宗の助命嘆願によって赦されます。
メキシコとの貿易交渉を成功させるには、日本語とスペイン語に精通したソテロが必要だったのです。
そして、ソテロを慶長遣欧使節団の正使にし、副使に家臣の支倉六右衛門常長(はせくらろくえもんつねなが)を任命します。
またこの使節団をより公的な性格を持たせるために、ビスカイノをメンバーに加えました。

こうして、メキシコとの貿易を望み、金銀の採掘精錬法と太平洋を渡る操船技術を手に入れたい家康(失敗に終わってもイギリス、オランダがおり、痛手はありません)、キリスト教の布教を条件に、あわよくばスペインと強力な関係を築き、復興に役立てたい政宗(まんまと幕府の裏をかいて、堂々と外国と貿易ができると思っています)、日本で司教の座に就きたいソテロ、早くこんな野蛮な国から逃げ出したいビスカイノ、見知らぬ土地で一旗揚げたい商人たち、それぞれの思惑を乗せてサン・ファン・バウティスタ号は大海原へ漕ぎだしたのです。

                               つづく

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