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謎が解けました

以前、慶長遣欧使節についての記事を書きました。

伊達家臣の支倉六右衛門常長はせくらろくえもんつねながが、はるばる海を越えてローマ法王に謁見し、洗礼を受けて帰って来るというお話です。
出国後にキリスト教に対する弾圧が始まり、当初の目的であったスペインとの交易や宣教師の派遣と奥州での布教などは、達成する事ができませんでした。

この記事を書いている時に、気になった事があったのですが、外国語はわからないので流していた部分がありました。
大した話では無いのですが、今日NHKの「チコちゃんに叱られる」を見ていて、そういう事だったのかと自分なりに解決したので記事にしてみます。

今日のチコちゃんに叱られるは「私の  は なぜ  ではないのか」という謎に迫っていました。

結論から書くと、平安時代頃までは「私は」を「私ぱ」と言っていた名残だそうです。

それを見て昔の記憶が甦ったのですが、昔「どんと」という携帯カイロがありまして、そのCMが流行ったのですが、そのCMと言うのが毛皮を着た縄文人らしき人達が寒風吹きすさぶ中「どんとぽっちいどんとぽっちい」と震えているものでした。

その頃新聞にこのCMの考察が載っていて、縄文人は「はひふへほ」を「ぱぴぷぺぽ」と発音していたらしく、CMの「どんとぽっちい」はかなり当時の発音に近いものだとの事でした。どんとが欲しいというのを「どんとぽっちい」と縄文人なら言っていただろうというのです。

という記憶が甦り、やっぱり昔の日本人は「はひふへほ」を「ぱぴぷぺぽ」と言っていたんだと納得しました。

そうして時代が下り、江戸時代ぐらいまでかけて「私ぱ」は「私ふぁ」と言うようになり、さらに「私は」に変わったそうです。
解説の先生が言うには、人間は少しでも労力を使わなくて済むように進化していくので、言葉であっても「私ぱ」より「私ふぁ」の方が労力を使わずに済み、さらに「私ふぁ」より「私は」の方が楽だという理由で今に至ったそうです。

「ぱぴぷぺぽ」→「ふぁふぃふぅふぇふぉ」→「はひふへほ」と変化したわけです。

さて、支倉常長です。

当時何が気になったのかというと、常長はスペインで洗礼を受け、ドン・フィリッポ・フランシスコ・ハセクラという洗礼名を授かっています。
さらにローマでは大歓迎を受けて、貴族に列せられた他、市民権を与えられています。

常長に贈られたローマ市公民権証書

市民権を得た証拠として、ローマ市公民権証書が今も残っており、仙台市博物館で見る事ができます。

その公民権証書の中、最初の赤枠で囲んでいる部分ですが、
PHILIPPO FRANCISCO FAXECVRA ROCVYEMON と書いてあります。

フィリッポ フランシスコ ファセクラ ロクエモン と読めます。

どうみても ファセクラとかファゼクラ と書いてあるよなぁと当時思ったのですが、イタリア語はそうなのかな?と流していました。

しかし、今日の「チコちゃんに叱られる」を見てわかりました。
当時(1600年頃)は「はせくら つねなが」ではなく「ふぁせくら つねなが」と発音していたのです。
日本語の記録であれば、ひらがなで書いてあったとしても、字は「はせくら」のままなので、発音もそのままだと思ってしまいますが、外国語だと発音をそのまま文字に起こすので「ふぁせくら」と発音していた事がわかります。

ちなみに公民権証書の2番目の赤枠は「SANDAI VOXV」と書いてあり、これは「仙台 奥州」を表します。当時の世界地図を見ると東北地方のあたりに「VOXV」と書いてあるので「奥州」と読む事がわかります。

そして3番目の赤枠ですが、ここも興味深い事が書いてあります。
「IDATE MASAMVNE」もちろん伊達政宗の事です。
という事は、この頃は「いだて まさむね」と発音していた事がわかります。

伊達という字は「いだて」と読む方が自然です。
やはり発音しやすく変化して「だて」に変化していったのでしょう。

伊達家がもともと「いだて」もしくは「いだち」だった事は知っていましたが、かなり昔に「だて」に変化していたと思っていました。
それがたかだか江戸時代頃までは「いだて」だったり「ふぁせくら」だったりしていたわけで、そういうイメージで時代劇を見ると随分と違和感があります。

だって「ふぁっとり ふぁんぞう 参上」とか「我こそは ふぉんだ 忠勝なり」とか、一体誰だよ?という話ですよね。

あっ、ちなみに学術的な裏付けなど取っていませんので、そうかもねぇぐらいに思っていて頂ければと思います。


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