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伊達騒動と樅の木は残った その3

5.宗重の奇策

宗勝の専横に誰も異を唱える事はできない状況でしたが、ここで伊達一門の伊達宗重(だてむねしげ)が立ち上がります。というか奇策に打って出ます。

宗重は宗勝の甥にあたる伊達宗倫(だてむねとも)と隣り合わせの領地を持っていましたが、境界の件で揉めた事がありました。この時検分にあたった役人が宗勝の寵臣で、裁定は宗倫よりのものでした。
宗重はこれを不服に思い、原田甲斐に告発しましたが、取り上げてもらえなかった事から、なんと幕府に訴え出たのです。さらには、宗勝一派の専横についても訴え出ました。

これは非常に危険な賭けでした。幕府は常に大藩を減封、転封、取り潰しのチャンスは無いかと、落ち度を探している状態でしたから、領地争いごときを家中でまとめられないとは、この石高を治める力が無いのだと判断されかねなかったのです。
また、幕府に訴え出るという事は、大老(に昇進)の酒井忠清が裁定する事になりますので、そもそも握りつぶされたり、宗勝寄りの一方的な裁定を下される可能性もありました。

ところがこの訴えは幕府に聞き入れられる事となり、審問が開かれる事になりました。

6.酒井邸の惨事

1671年3月7日、宗重、柴田外記(しばたげき)、原田甲斐が老中板倉重矩(いたくらしげのり)邸に呼ばれました。
これに先立って外記は、後見人の片割れ田村宗良に、自分は老齢のため古内志摩(ふるうちしま)も参加してもらえるよう願い出ていました。
この時の審問で、亀千代には処分が及ばない事が確定しました。

審問においては、外記と原田甲斐の供述に食い違いが見られました、また外記と宗重は共に反宗勝派ですので、どうしても原田甲斐は分が悪くなりました。
続く3月22日、古内志摩が呼ばれ審問を受けますが、志摩も反宗勝派のため、ますます原田甲斐は分が悪くなりました。

そして3月27日、急遽審問の場が板倉邸から酒井邸に変更になりました。
宗重、外記、原田甲斐、志摩の順に呼ばれ、個別に審問は行われていきました。ほかに案内役として蜂屋可広(はちやよしひろ)が隣の部屋にいました。

一巡目の審問が終わった時、控えの間にいた原田甲斐が、突然宗重に斬りかかりました。宗重は即死。さらに甲斐は老中達のいる部屋へ向かおうとしました。そこで外記が追いかけ斬り合いになりました。
そこへ蜂屋可広が駆けつけましたが、同時に酒井家の家臣たちも駆けつけ、混乱の中、全員が死亡する結果となりました。

これにより、宗勝は藩政を混乱させた罪で土佐藩山内家へお預け(一ノ関藩は改易)、もう一人の後見人田村宗良は、宗勝の専横を見て見ぬふりをしたという事で閉門。そして原田甲斐は孫に至るまで、一族は処刑となりました。

これが、いわゆる史実とされている伊達騒動のあらましです。
なんで酒井家の家臣は全員を殺してしまったのか?
当日急遽審問の場所が酒井邸になったのはなぜか?
原田甲斐があそこで刃傷沙汰に及ぶ理由は?
など、不可解なところもあります。

この辺りの不可解な点と原田甲斐という人物を深く深く掘り下げて、原田甲斐の視線でこの騒動を見てみたのが、樅の木は残ったという小説です。
山本周五郎は伊達騒動をどう見たのか。次回は樅の木は残ったの話です。
                               つづく

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