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見仏上人シリーズ 最終回         見仏上人

さて、ここまで宮千代の話から始まって、瑞巌寺、松島寺、雄島、五大堂、西行戻しの松と見仏上人の足跡を追ってきました。

追ってきたと言っても、今まで見仏上人の話はほとんど出てきていません。
・宮千代を成仏させた
・雄島で修行した
たったこれだけです。

見仏上人の名前も一般的にはあまり知られていないかと思います。
教科書にも出てこないですし、ウィキペディアなんかにも書かれていません。そして資料も殆ど残されていません。
そんな見仏上人ですが、一体何をした人なのか、どんな人だったのか迫ってみたいと思います。

最初に言っておきますが、見仏上人は実在する人物です。
1104年(長治元年)に伯耆ほうき(今の鳥取県中西部)から、雄島に来て妙覚庵みょうがくあんを結びました。

妙覚庵跡

ちなみに伯耆にいた頃の事績が書かれた資料は、見つける事はできませんでした。

雄島に来てからは12年間島に籠って、法華経6万部を読誦どくじゅした事は雄島編で書きました。
それにより「六根すでに浄く能く神物を役使し、霊異すこぶる多し」と称されるようになりました。
ざっくり訳すと「霊力を得てさまざまな奇跡を起こした」という事です。

そして法華経の教義を人びとに授け、法華浄土への往生を説いて,死後の不安を解消させたと伝わっています。
ちなみに雄島編では書きませんでしたが、雄島には結構な数の人が住んだり、出入りしていたようなので、地域の住民たちに法華経の教えを説いていたものと思われます。
死者の声を伝える事もあったと言われていますので、イタコの口寄せのような事もしていたのかもしれません。

これだけだと、田舎で厳しい修行を積んだお坊さんという事で終わるのですが、この見仏上人の高徳が、時の帝、鳥羽天皇の耳に入り、鳥羽天皇は大蔵卿康光おおくらきょうやすみつを勅使として松の苗木一千本を贈られたので、千本の松の島という意味でこのあたりを千松島ちまつしまと呼ぶようになり、後に千を略して松島と呼ぶようになったという説があります。

鳥羽天皇 後に上皇として院政を敷いた

どこまでが本当の話かはわかりませんが、京の都にまで名前が知れ渡り、天皇が勅使を遣わすような人だとしたら、当時としてはかなり有名だったのではないかと思います。

さらにもう一つ松を贈られたという話が残っています。

こちらは源頼朝の夫人北条政子が、雄島で修行中の見仏上人を慰めるため姫小松千株を贈り、初めは千松島と言いましたが、後に千を略して松島と呼ぶようになった、というものです。
これは恐らく鳥羽天皇の話が、いつの間にか北条政子と間違われて伝わったのではないかと思っています。
何故なら、この頃には既に松島という地名は有名だったので、北条政子の時代に松島と呼ばれ始めたのでは遅いからです。

北条政子 画像検索をすると小池栄子がたくさん出て来る

では、なぜ北条政子と間違われたのかというと、見仏上人のその高徳ぶりに感激した北条政子は、亡夫源頼朝が生前に信仰していた仏舎利二粒を納める水晶五輪塔を寄進し、その冥福を祈ったという話があるからです。
この仏舎利と水晶五輪塔と政子の寄進状(写しと言われています)は、瑞巌寺の宝物殿で見る事ができます。

水晶五輪塔と仏舎利
北条政子の寄進状 筆跡が異なるので写しとされている

この事があったために、松も政子が贈ったと伝わるようになったのではないかと考えます。

さて、じつはここで辻褄の合わない事が出てきます。
ちょっと年表を載せてみます。

見仏上人雄島入り  1104-1116
鳥羽天皇(在位期間)1107-1123
西行法師      1118-1190
源頼朝       1147-1199
北条政子      1157-1225

平安時代 794-1185頃
鎌倉時代 1185-1335頃

鳥羽天皇が松を贈ったのは、一番遅くても見仏上人が最後にいた1116年という事になります。
北条政子が仏舎利を寄進したのは、頼朝が亡くなってからですから、早くても1200年という事になります。
見仏上人は12年も雄島に籠っていたわけですから、仮に雄島に20歳でやってきたとしても、仏舎利を寄進されたのは116歳という事になります。
いくらなんでもこんなに長生きはしていないはずです。

この事から、実は見仏上人は2人から3人はいたのではないかと言われているのです。
優れた能力を持った僧を(二代目)見仏上人と呼んだのか、弟子がその名を継いだのかしたのでしょう。そうすれば辻褄があいます。
少なくとも鳥羽天皇に松を贈られた見仏上人は平安時代、北条政子に水晶五輪塔を寄進された見仏上人は鎌倉時代の人です。

前回も出てきた西行法師は、実は見仏上人に会っています。
となると、西行が会った見仏上人は年代的に2代目という事になります。
では、どこでどのようにして出会ったのでしょうか。

西行法師の撰と言われている(実際は作者不詳)説話集撰集抄せんじゅうしょうによると、諸国遍歴中の西行は、能登稲津で自らを「月まつしまの聖」と名乗る人物と出会っています。

岩窟で帷子かたびらのみで修行中のそのひじりが、「毎月10日ばかりここに必ず来るが、本来住んでいるところは松島である」と言うのを聞いて「あの有名な見仏上人があなたなのですね」と覚り、「私は西行という者です」と言うと「ああ、耳にしたことがある」と言われます。
西行は別れるのが辛く、むせび泣きながら、その場をはなれて松島を目指したとされています。
そして二か月ほど松島に滞在したと言っています。

一方、はるばる松島までやってきましたが、例の西行戻しの松の一件で、引き返して行ったという話も残っているのです。
恐らくこちらは後世の作り話で、西行は実際に松島に来たのではないかと思っています。
土地の人が、あの有名な西行が来たが、地元の子供に負けて帰って行ったと話を作り、マウントを取ったのが広まったのではないでしょうか。

ところで、なんで毎月10日も松島から能登へ来れるのか?と思った方もいるかもしれませんが、見仏上人は「月まつしまの聖」もしくは「空の聖」の別称があるのです。
見仏上人の不思議な力には飛行術が含まれているので、松島から能登などひとっ飛びなのです。

この西行と見仏上人の出会いは、撰集抄に書いてあるので、ネットで検索するとみな同じ内容の話がヒットします。
ところが、能登稲津という場所はいくら調べてもありません。
そこで撰集抄を見ると「能登国いなやつのこほりのうちに」とあります。
「いなやつ」で調べると、石川県の輪島の近くに「稲屋津神社」という神社があり、海の近くです。
そんなわけで、僕はこのあたりの海岸線にある岩窟で、見仏上人と西行法師が出会ったのではないかと思っています。

①のピンが立っているところが稲屋津神社 どうでしょうか?

出会っただけで西行が感涙にむせぶぐらいなので、当時見仏上人の名前は知れ渡っていたのでしょう。
となると、やはりかなり霊験あらたかなお坊さんだったのか、徳が高いと有名だったのではないでしょうか。
そうでなければ、鎌倉にも京にもお寺はたくさんあり、名僧高僧も大勢いるのに、北条政子がわざわざ仏舎利まで寄進して、供養を依頼する事はないかと思います。

時代が下がって、江戸時代に芭蕉と曾良が「おくのほそみち」の旅で松島にやってきます。
雄島編でも写真を載せました。
芭蕉は「おくのほそみち」で瑞巌寺に立ち寄った際、次のように記しています。

「かの見仏の聖の寺はいづくにやと慕わる」
(あの見仏上人のいたお寺はどこにあるのだろうかと心が惹かれた)

こうして江戸時代の俳聖にまで知られていた見仏上人ですが、資料も少なく実態もよくわかりません。
しかし歴史の端々にその痕跡を残し、今に伝わっているのです。

宮千代伝説から始まった長い旅でしたが、ここらで筆を置きたいと思います。
最後までお読み頂きありがとうございました。

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