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最後のトラ・トラ・トラ

1945年8月15日正午、ラジオから玉音放送が流れました。
長かった戦争が終わったのです。

戦争が終わったその日の午後、沖縄方面へ向けて飛び立つ11機の特攻機がありました。

***

宇垣纒うがき まとめ中将は昭和20年2月、第5航空艦隊司令長官に親補されました。

宇垣纏中将

航空艦隊とは、航空母艦を中心とした艦隊ですが、この頃日本には既に航空母艦も無く、あったとしても、空母の離着艦ができる腕のあるパイロットは殆ど残っていませんでした。

宇垣中将は連合艦隊司令部より、第5航空艦隊の任務について説明を受けました。それは練習機などを含む2,000機の兵力で、全機特攻を行うというものでした。

既にパイロットの質は低下しており、ようやく飛び上がれるだけの初期訓練を終えた飛行兵が、次々と沖縄方面に向かって飛び立って行ったのです。
その都度、宇垣中将は機影が見えなくなるまで帽子を振っていました。

命と引き換えに相手に大きなダメージを与える狂気の作戦でしたが、アメリカ軍のレーダーによって艦船に接近する前に迎撃され、それをかろうじて潜り抜けても、艦船の打ち上げる対空砲火で撃墜され、殆どが敵にダメージを与えることなく散っていきました。

そもそもが、最高速度200km台の練習機に重い爆弾を積ん飛んだところで、敵の戦闘機から逃げられるわけもありませんし、アメリカ軍の機銃弾や対空砲弾にはVT信管という信管が使われており、これは命中しなくても、物体の近くに行くと破裂するというもので、日本の対空火器に比べると、格段に効果的でした。

このような状況でしたので、殆どが無駄死にに終わる事が解っていながら、誰も大きな流れに逆らう事はできず、宇垣中将も毎日若い将兵が飛び立つのを見送る事しかできませんでした。

やがて敵の攻撃が激しくなり、基地を大分へ移します。

広島、長崎に原爆を落とされ日本はいよいよ劣勢に立たされます。しかし8月11日に大本営からは、積極的に特攻を行うよう指令がでます。

ところがその頃、サンフランシスコ放送で、日本がポツダム宣言を受諾し、無条件降伏するという放送が流れます。
これは国の内外を問わず、受信設備のある基地では傍受する事ができました。

これにより前線基地では、日本は降伏するという情報が流れますが、中央からは戦闘をやめるような指示は出ません。近々降伏するとわかっていても、特攻機を送り出すしかありませんでした。

そして8月14日、大本営からソ連、沖縄に対する積極的な戦闘行動は停止せよと命令がありました。いよいよ降伏するらしいという事が誰しもわかりました。

その日の夕方、宇垣中将は参謀を呼び命令を伝えました。

「明日の夕方自分が指揮官となり、沖縄のアメリカ艦船に特攻を行う。5機を用意せよ」

明日の正午には無条件降伏をすると海外の放送では流れています。参謀は翻意を促しますが、宇垣中将は聞き入れません。

このやり取りは翌15日になっても続けれますが、宇垣中将の考えは変わりません。宇垣中将は、隊長中津留なかつる大尉を呼び、自分が指揮官として特攻作戦を行う事を告げます。

中津留大尉は兵舎に戻ってこの事を隊員たちに告げました。
そして正午、ラジオで玉音放送を聞いたのです。

夕方4時、宇垣中将は日本酒で別れの杯を交わした後、飛行場に向かいました。そこで隊員達に訓示を行おうとした時、隊員の数が多い事に気が付きます。

特攻に使用する艦上爆撃機彗星は二人乗りです。5機ならば10人の搭乗員になるはずですが、そこには22人の搭乗員が整列していました。

数が多いではないかと問うと、搭乗員たちは一斉に「自分たちも一緒に行きます」と手を挙げました。

こうして11機の特攻機が飛び立つことになりました。

長官が中津留大尉の1番機に乗ろうとした時、後部座席に乗るはずの遠藤秋章えんどうあきちか飛曹長が「自分の席です」と言って譲らず、宇垣中将が乗り込んだ狭い座席に無理矢理乗り込みました。

11機の飛行機に23人が乗り込み、17時過ぎ彼らは飛び立って行きました。

宇垣纒中将、中津留達雄大尉、遠藤秋章飛曹長、伊藤幸彦中尉、北見武雄中尉、池田武徳中尉、川野良介中尉、内海進中尉、磯村堅少尉、大木正夫上飛曹、山川代夫上飛曹、山田勇夫上飛曹、渡辺操上飛曹、後藤高男上飛曹、前田又男一飛曹、中島英雄一飛曹、川野和一一飛曹、日高保一飛曹、藤崎孝良一飛曹、吉田利一飛曹、二村治和一飛曹、松永茂男二飛曹、東原浩一二飛曹

地上の見送る者たちは、全員帽子を振って見送りました。

やがて18時30分 磯村機より「敵水上部隊見ユ」の発信があり、続いて「突入」が発信されました。

19時24分には、予め司令部で起案して宇垣中将の許可を得ていた決別電を、宇垣中将の名前で基地より発信し、さらに19時25分「ワレ奇襲ニ成功セリ」が宇垣中将の乗った一番機より発信されました。

そして20時30分中津留機は突入しました。

最終的に突入したのは中津留機、伊藤機、北見機、池田機、内海機、磯村機、中島機、吉田機の8機で、川野機と二村機はエンジン故障で不時着、日高機は特攻ではなく、陸上基地に爆撃を行った後不時着し、日高一飛曹はその時に亡くなりました。

「ワレ奇襲ニ成功セリ」の無電は、機上でモールス信号を打ちます。

そのためこのような長い文章を打つのではなく、予めこの文字を連打したら、この意味という具合に決めておきます。

この「ワレ奇襲ニ成功セリ」は トラ・トラ・トラ とモールス信号を打つのです。

そう、これは太平洋戦争の開戦時、ハワイ真珠湾攻撃の際に発信されたものと同じです。

つまり、この戦争はトラトラトラで始まりトラトラトラで終わったのです。

余談ながら、何故宇垣中将の乗った中津留機が20時30分に突入する事がわかるかというと、特攻機は突入の際、通信機のキーを押したままにします。

受信側では「ツー」という音が聞こえ続けます。
これが途絶えた時が、特攻機が突入した時なのです。

残念ながら、艦船に突入した機は無く、戦果を上げる事はできませんでした。(米軍の非公式発表で、水上機母艦1隻に被害が出たという記録はあります)

宇垣中将は、日ごろから若い特攻隊員たちを送り出す時に「お前たちだけを行かせはせいない。自分も後から必ず行く」と言って送り出していました。戦争に負けた今、その約束を守ったとも言えますし、武人としての責任を取ったとも言えます。

これが無ければ、基地ではひどい混乱になっていただろうという人もいます。
若い隊員たちを毎日特攻に送っておいて、はい今日で終戦です解散!では若い者は収まらないだろうと、それが宇垣中将の特攻で抑えられたと言うのです。

しかし、一方この行為に疑問を持ち、非難する人も多くいます。

戦争が終わり、やっと助かった17人もの若い命を道連れに死ぬ必要はあったのかという事です。責任を取って死ぬのであれば一人で自決すればいいだけです。

特に遺族の方はその思いが強いでしょう。

生前義父がわざわざ僕に書いてくれたレポートにもその事が書いてあります。

義父の中学時代の英語の先生だった伊藤慧美子さんから、同窓会の時に聞いた話だそうです。

この方は、この時の特攻に参加した伊藤幸彦中尉の妹さんで、「兄は終戦を知らされていなかったのでしょうか」と。
「司令長官としてのけじめだというのであれば、なぜ一人で出撃しなかったのでしょうか。宇垣中将の最期を美化して欲しくない」としみじみおっしゃっていたそうです。

その妹さんが詠まれた歌を記して終わります。

戦死せし 兄の使ひし 広辞林 短歌をば学ぶ われの座右に

特攻の 責任とりし 長官は 十七名を 死の道連れに

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