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私の好きなミルクさんの歌 008

今回の歌も夏を意識させるものを選びました。

・過ぎ去った残り香だから愛おしい上がった後から匂う雨とか

ただの出来事描写で終わる短歌はほんとうにたくさんあります。
「奥村晃作」さんの”ただごとうた”などが有名ですが、ミルクさんに言わせれば「短歌ですらない」とのこと。
解釈や心情、心の動きのような繊細な要素まで、まるごと読者に投げすぎているというのです。ただの出来事ならば新聞の記事となんら変わりない、どれだけ31音にのせようともそれ自体がファンタジックになったりノスタルジーを醸し出すことはありません。
そう思ったり感じたりするのは読者が勝手に妄想しているだけで、新しい発見や気付きに影響を及ぼすことはないのだと思います。「通り過ぎた景色」だけで良ければわざわざ短歌にする意味もないでしょう。読んだ後に能動的に(心や体が)何かを求めたり探し始めたりするような歌でなければ、二度とは読み返されないはずです。

この歌も、先の錆びたクリップの歌と同様に詠われているのは、ごくごく当たり前の出来事です。

上句と下句に共通してあるものは、今此処に残っていないものへの郷愁にも似た感覚でしょうか。
「あの時、声を掛けていればよかった」
「あの時、振り返っていればよかった」
「あの時、話しておけばよかった」
「あの時、触れておけばよかった」
「あの時、聞いていればよかった」
「あの時、写真にとっておけばよかった」
人生ではこのような場面に何度も遭遇することでしょう。

過ぎ去って、愛おしいものは沢山あるでしょう?と敢えて呼びかけて、
たとえば上がった後から匂う雨とか と例をあげて問いかける。
しかも最後は「とか」でぷつっと切られて、他にもこんなことは沢山あるということを匂わせて終わっています。
読者はいやおうなしに、思索のスイッチを入れるわけです。

詠われている状況が確認できたら「ふうーん、そうね。」で終わる大半の出来事報告の歌とは異なり、直接読者の嗅覚に訴えかけるような構成、「残り香」「匂う雨」も見事ですが、匂う雨が導き出す夏の夕立感が半端ないです。むせかえるような陽炎が見えるんじゃないかという程、臨場感に満ちています。
感じようとしなければ感じられない匂いのない雨も、上がったあとに強烈な「雨の仕業」という痕跡を残します。匂いはその一つの要素ですが、雨に限らず見過ごしている(感じ損ねている)ものが他にもたくさんあるのではないか?という問いかけになっているのです。
残り香を使った歌は多くありますが、たいていは誰それの髪とか、何とかの香水とか、誰かの汗とか、食べた料理の匂いとか、作者の行為や体験にべったりと張り付いたものが殆どだと思います。あまりに自分自身に纏わり付いた事象は、読者の思索のトリガーになり辛いと思います。要素が特定のものに絞られれば絞られるほど、個人の感覚の尺度に依存してしまうので、妄想や想像でしか受け止められなくなり、最後には「自分には関係のない他人事」という判断を下してスルーしてしまうのでしょう。

ミルクさんの作歌の一つのテーマでもある、「読者に追想、追体験させるきっかけとなる短歌」の一つの形がこの短歌だと言えると思います。

「自分だけのこと」は一旦横にどけておいて、思索のスタートに大きな間口を用意する。
しかもとてもリアリティに満ちていて、ライブで起こっているかのような臨場感もある。

簡単な言葉しか使われていないのに、内包している要素がとても刺激的で意味深いというのは、私が最も気に入っているミルクさんの歌の特徴でもあります。クリップの歌然り、この歌も然りです。

この歌を読めば、一旦必ず深呼吸する自分がいます。
無意識のうちに雨の匂いを探しているのです。

ミルクさん 短歌のリズムで  https://rhythm57577.blog.shinobi.jp/