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レディー・エマ・ハミルトンの生涯

3年ほど前、バラ園で「レディ・エマ・ハミルトン(Lady Emma Hamilton)」と名付けられた、オレンジ色の香りの良いバラに出会いました。その名前のもとになった人物については「英国では有名な人なんだろうな」と思っただけで、特に調べることはしませんでした。

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(写真:レディーエマハミルトン)


そして先日、読んでいた書籍「図説英国貴族の暮らし」「英国流旅の作法」に、このレディ・エマ・ハミルトンが出てきたので記事を書くことにしました。

目次
・エマ・ハートについて
・愛人チャールズ・グレヴィルとの日々
・絵画のモデル
・愛人チャールズ・グレヴィルとの別れ


エマ・ハートについて
時代は1765年、エマ・ハートはイギリスの北西部チェシャー(Cheshire)で生まれました。生まれた時の名前はエイミー・ライオン(Amy Lyon)でしたが、後に愛人に付けられた名前「エマ・ハート」が有名ですので、エマとします。

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(写真:チャシャーの位置)

エマの父ヘンリー・リヨン(Henry Lyon)は鍛治職人をしていましたが、エマが生まれて2ヶ月後に亡くなったようです。母メアリー・キッドに育てられたエマは美しく成長し、12歳になると家政婦として働き始めましたが、どこも長続きしませんでした。右葉曲折あった後、エマはチャールズ・グレヴィルの愛人となり、同居するようになりました。

愛人チャールズ・グレヴィルとの日々
ここでエマの愛人となるチャールズ・グレヴィル(Charles Francis Greville,1749-1809)について紹介します。チャールズは初代ウォリック伯爵フランシス・グレヴィル(Francis Greville, 1st Earl of Warwick)の次男として生まれました。

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(写真:チャールズ・グレヴィル)

エマはそれまで「エイミー・リヨン」と呼ばれていたのですが、チャールズが名前を「エマ・ハート(Emma Hart)」にするよう要望したので、以後エマとして呼ばれるようになりました。チャールズはエマの母親を家政婦兼お目付け役として同居させ、エマに落ち着いた色の控えめな服を着させ、社会生活を避けさせました。そしてエマに上品な発音を教え、礼儀作法など社交界で必要となる知識を与え、しばらくすると友人たちを彼女に会わせるようになりました。


絵画のモデル
チャールズは後の王立美術学校の初代校長となるジョシュア・レノルズ(Joshua Reynolds,1723-1792)や、友人の画家ジョージ・ロムニー(George Romney,1734-1802)にエマの肖像画を依頼していています。

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(写真:画家ジョシュア・レノルズ24歳頃の自画像)


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(写真:画家ジョシュア・レノルズによるエマをモデルにした絵画
"Cupid Untying the Zone of Venus")





特にジョージ・ロムニーはエマの虜になり、エマの肖像画を様々なポーズで60作以上描きました。出会った当時のロムニーは47歳、エマ・ハートは17歳でした。

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(写真:画家ジョージ・ロムニーによる自画像,1795年 )

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(写真:画家ジョージ・ロムニーによるエマの肖像画,1782年)


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(写真:画家ジョージ・ロムニーによるエマ,1782年)


愛人チャールズとの別れ
1783年8月ロンドンのチャールズの家に、チャールズの母の弟で叔父のナポリ特使ウィリアム・ダグラス・ハミルトン(以後ハミルトン卿)が訪ねてきました。昨年、妻を亡くしたばかりのハミルトン卿は美しいエマに心を奪われました。そうしてハミルトン卿は何度もエマに会おうと、チャールズの家を訪ねるのでした。

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(写真:ウィリアム・ダグラス・ハミルトン)

やがてチャールズは財政を補おうと裕福な貴族の女性と結婚しようと思い、邪魔になった愛人エマを叔父のハミルトン卿に引き取るよう説得しました。一方のエマには、チャールズ自身が仕事でスコットランドに行ってて留守の間、ナポリの叔父ハミルトン卿の別荘で長期休暇を過ごすようにと提案しました。チャールズに言われるがままに母親を伴い、エマは1786年4月26日21歳の誕生日にナポリに到着しました。エマはこの時まだチャールズと結婚するつもりでいたのですが、ハミルトン卿はエマにこう伝えたのでした。


「もうチャールズは戻って来ない」



次回に続きます


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