レディー・エマ・ハミルトンの生涯 その1少女時代
前回の記事の続きを書こうと思っていたのですが、今回から少し詳しく書いてみることにしました。どうぞお付き合いくださいませ。
英国で波乱万丈の人生を送ったレディー・エマ・ハミルトン(Emma, Lady Hamilton, 1765 – 1815以後エマ)は美しさと頭の回転の良さを生かし、貧民から上流階級に上り詰めた女性でした。
エマはナポレオンと戦ったネルソン提督の愛人としてよく知られていますが、画家ジョージ・ロムニーのお気に入りのモデルであり、ナポリ王妃マリア・カロリーナ・ダズブルゴ(仏国王妃マリー・アントワネットの姉)と親しいお友達でした。
エマの死後300年ほど経っているのですが、その劣らぬ人気さからか香り高いバラにつけられました。
目次
-プロローグ
-北東ウェールズの貧しい子供時代
-ロンドンでの暮らし、演劇に出会う
プロローグ
まずエマ・ハミルトンが生まれた1765年前の大雑把な時代背景を説明してから、エマについての話を始めたいと思います。
オーストリア継承戦争(1740~48)でオーストリア(マリア・テレジア)はプロイセン(フリードリヒ2世)にシュレジエンの土地を奪われしまいました。
シュレジエン(現在のポーランド南西部)は、鉄・石炭などの地下資源が豊富な上、穀倉地帯を持つ場所でしたので魅力のある土地だったようです。
そこでオーストリアはシュレジエンをプロイセンから奪回するため、ヨーロッパ中を巻き込んだ七年戦争(1756-63)が起きました。
プロイセンはイギリスと同盟を結び、オーストリアはフランスやロシア等とと同盟を結びました。この戦いではオーストリアはシュレジエンを取り戻すことはできませんでした。
次にイギリス国内の動きです。
三角貿易で資本を蓄積したイギリスは、産業革命(1760年代-1830年代)が少しづつ始まりました。
1733年にジョン・ケイによる「飛び杼」が発明されて綿織物の生産量が急激に増えました。
その結果、綿糸が不足したので1764年頃ハーグリーヴズの多軸紡績機(糸を一度に8本紡ぐことができる機械)が発明されその後、次々と様々な機械が発明されていきました。
その他、英国でも陶磁器産業が始まりました。
18世紀前半、既にドイツ、オーストリア、イタリア、フランスでは国産磁器が作られるようになっていたので、後を追う形で英国の陶磁器産業が始まります。チェルシー窯(1745)、ボウ窯(1747)、ダービー窯(1750頃)、ウースター窯(1751)、そして日本でも大人気のウエッジウッド窯(1759)が創業しました。
1760年になると英国王ジョージ3世が即位し、1765年になると主人公のエマが生まれます。
エマ・ハミルトン(1765 – 1815)と年齢の近い、歴史上の有名人を以下に並べてみました。
-フランス王ルイ16世(1754年8月23日 - 1793年1月21日)
-マリー・アントワネット(1755年11月2日 - 1793年10月16日)
-ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年1月27日 - 1791年12月5日)
-英国王ジョージ4世(1762年8月12日 – 1830年6月26日)
-ナポレオン・ボナパルト(1769年8月15日 - 1821年5月5日)
-ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年12月16日頃 - 1827年3月26)
おおよその時代背景を思い浮かべながら読んで頂ければと思います。
北東ウェールズの貧しい子供時代
エマは1765年4月26日、イングランドのチェシャー州ネストン(Neston in Cheshire)近郊の貧しい鉱山村ネス(Ness)で生まれました。
炭鉱の鍛冶屋を営む父ヘンリー・ライオン(Henry Lyon)と、母メアリー・キッド(Mary Kidd)の間に生まれました。
エマは生まれた時「エイミー・ライオン(Amy Lyon)と名付けられましたが、後に「エマ・ハート(Emma Hart)」と名乗るようになり、エマ・ハートとしての名前が有名になります。後に改名するまで「エイミー」と呼ぶことにします。
エイミーは1765年5月12日にネストンのセント・メアリーズ&セント・ヘレンズ教会(St Mary's and St Helen's Church)でEmy Lyonという名で幼児洗礼を受けました。エイミー(Emy)はエイミー(Amy)の綴り間違いであった可能性が高いようです。
下の写真は聖水を赤ちゃんに浸す、もしくは頭に水をかけるための聖水盤(a holy water font, stoup)です。エマはここで幼児洗礼を受けました。
エイミーの誕生後2ヶ月後、父ヘンリーが亡くなりました。
未亡人となった母メアリーは赤子のエイミーを連れ、ウェールズ北東部フリントシャーのハワーデン村(Hawarden)に住む母方の祖母サラ・キッド(Sarah Kidd)のもとに身を寄せました。
エイミーの生まれたネス村とハワーデン村は15.7km程しか離れていないので、比較的近い場所に引っ越したようです。
ハワーデン村では、エイミーが生まれる4年前の1761 年まで、母方の祖父トーマス・キッドが亡くなるまで炭鉱労働者として働いていました。リヴァプール近辺となるこの地域は炭鉱の町だったようです。
祖父、父の亡き後このハワーデン村でエイミーは母、祖母サラ・キッド(Sarah Kidd)と3人で暮らし、子供時代を過ごすことになります。
エイミーの住んでいた家はパブ「フォックス・アンド・グレープス(FOX&GRAPES, 1726年創業)」と薬局との間にある、小さなわらぶき屋根のコテージだったそうです。
現在はフォックス・アンド・グレープスの駐車場になっているようです。フォックス・アンド・グレープスは現在も営業しています。
祖父トーマスの死により、家族は非常に貧しい暮らしをしていました。
エイミーの母メアリーはお針子として働き、祖母サラは荷車屋として働きました。しかし祖母サラが60歳となると、思うように稼ぐことができず家計が苦しくなり、母メアリーは1777年にロンドンに出て行ってしまいした。
母メアリーが居なくなった後、12〜13歳頃になったエイミーは同じハワードン村でメイドとして働き始めました。この家にはエイミーより4歳年下の少年が暮らしていたようで、後の外科医オノラータス・リー・トーマス医師(Honoratus Leigh Thomas, 1769–1846)の家だったようです。
しかし、メイドとして働き始めてわずか数ヵ月後、エマは失業しました。
イギリスの労働者階級の女性は12〜13歳になると家事奉公に出るのが一般的で、住むところや食事に困ることなく、少なからず給与をもらえる使用人は魅力的に映ったようです。そして田舎から都会へ出るための手段としても有効だったようです。エイミーもこの後、ロンドンに出て行くことになります。
ロンドンでの暮らし、演劇に出会う
1777年の秋にエイミーはロンドンの街に引っ越し、今度はブラックフライアーズ橋(Blackfriars Bridge)近くのタウンハウスで、別の医師の家族であるバッド(Dr Richard Budd)の家のメイドの仕事を見つけました。ここでは掃除、ブラシがけ、モップがけなど、肉体労働に明け暮れる生活を送ります。
この時のエイミーのメイド仲間、後に女優となるジェーン・パウエル(Jane Powell)と同じ部屋で過ごしたようです。エイミーは女優を目指していたジェーンの舞台練習に参加し、演技の勉強を始めました。ここではさまざまな悲劇の役を演じていたようです。
その後、エイミーは1年以内にロンドンのコヴェント・ガーデン(Covent Garden)のドルーリー・レーン劇場(Theatre Royal, Drury Lane)で新しい職を見つけました。
コヴェント・ガーデンはどのような地域だったかと言いますと、文化の中心地で芸術家、劇作家、詩人、俳優が、劇場に集まる貴族たちと肩を並べているような場所だったそうです。広場を中心としたこの地域は、同時に売春や犯罪がある地域としてもよく知られていました。
この場所でエイミーはリンリー家のもとで働いていたと思われます。トーマス・リンリー(Thomas Linley the elder, 1733 – 1795)は当時の演劇界で重要な役割を担っている人物でドルリー・レーン劇場で上演される楽曲を数多く作曲、編纂したそうです。
娘婿の劇作家リチャード・ブリンスリー・シェリダン(Richard Brinsley Sheridan, 1751 – 1816)とともに、ドルーリー・レーン劇場の主要な株を所有していたようです。
トーマスの妻メアリーは、ドルーリー・レーン劇場の衣装を管理していました。エイミーは衣装の管理のお手伝いをしていたようです。
その他エイミーは劇場で、さまざまな女優のメイドとしても働きました。その中には18世紀を代表する悲劇女優サラ・シドンズ(Sarah Siddons, 1755 - 1831)がいました。
その他にも、後に王太子時代の国王ジョージ4世(1762-1830)の妾となるメアリー・ロビンソン(Mary Robinson, 1757? - 1800)もいました。
ここで話は本筋と少し逸れますが、舞台女優ロビンソン夫人と王太子時代のジョージ4世がどのようにして出会ったのかご紹介したいと思います。
ロビンソン夫人は既婚者2人の子持ち、夫がとんだ浪費家で、債務者監獄に投獄されます。夫が釈放されると、ロビンソン夫人は一家の家計を支えるため女優として舞台に立つことにしました。
1779年、シェイクスピアの「冬物語」の女性主人公パーディタ役を演じていた21歳のロビンソン夫人に、16歳頃のジョージ4世は恋をしました。劇中のパーディタの恋人フロゼルの名を使って「パーディタ」宛に恋文を送ったそうです。王太子は自分の肖像画のミニチュアのブローチ(下の肖像画で持っているブローチ)も贈りました。そして王太子は自分が「20歳になったら2万ポンドを贈る」という証書を書いてメアリーに渡しました。
こうしてロビンソン夫人が王太子の愛人となっている間、エイミーはロビンソン夫人のメイドやドレッサーとして働いていましたので、もしかしたら愛人にとしての好待遇を見ていたかもしれません。
ロビンソン夫人と王太子の関係は1年ほど続き、その後1781年に王太子が恋の熱が冷めて情事を終わらせると、ロビンソン夫人は「恋文を公開する」と言って王太子をゆすります。結局ここでは国王ジョージ3世(王太子の父)が恋文を5000ポンドで買取り、「2万ポンドを贈る」と書かれた証書についてはロビンソン夫人に600ポンド、ロビンソン夫人の子供達に200ポンドの年金を支給することで折り合いがつきました。
社会的地位が極端に固定されていたこの時代、コヴェント・ガーデンは成り上がる可能性のある場所でした。運が良ければ卑しい身分の下働きの女性でも美貌と才能で、女優やクルティザンヌ(高級娼婦)として人前に出ることができました。ロビンソン夫人のように王太子の愛人になるチャンスもありました。
その一方で、性的な搾取の危険も隣り合わせでした。社会の最下層にいるエイミーにとって、この場所でメイドすることは自分の運命を切り開くための手段だったようです。
コヴェント・ガーデンのドルーリー・レーン劇場で働くことはエイミーにとって髪の毛のセットやお化粧の方法、演劇的な表情や身振り、衣装の仕掛け、自信に満ちた洒落た外見が持つ力などを学ぶ多くの機会をもたらしたと思われます。
ここで舞台スキルを身につけたエイミーですが、次回は「ヤブ医者」のもとダンサーをするお話を書きたいと思います。
参考
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