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みちのくオリエンタリズム-「みちのく いとしい仏たち」

東京ステーションギャラリーでの「みちのく いとしい仏たち」。中央的な仏像に慣れた目には新鮮とも言える造形的魅力を持つ仏像を通し、東北の人々の生活に根差す真摯な祈りに触れる展覧会。展示された仏像は非常にすばらしく、それこそ胸が詰まるような思いで見たが、その横に添えられたキャプションが最低だった。作品は年間ベスト級だが、展示はワーストかもしれない。なんたること。

私はそもそも客観性を欠いたキャプションを好まないし、エモさを押し売ってくるような解説も嫌い。でも、それだけであれば好き嫌いの話で終わる。だけど今回の展示はそういうレベルの話ではない。キャプションに踊る「かわいい」「稚拙」と言った言葉は、「うーん、こういうの好きじゃないな」ではなく「これ、普通に問題あるでしょ」なのだ。そう、ハッキリ言ってこんなの一種のオリエンタリズムでしょ、って話なのよ。

解説では「これまで中央的美の観点からは不当な扱いを受けてきた民間仏にスポットライトを当て、枠に嵌まらないその魅力を伝える」的なニュアンスのことが書いてあったけども、何度も何度もくどいほどキャプションで繰り返される「稚拙でかわいい仏像」という視点は、「中央的美の観点が下す一種のオリエンタリズムに基づく不当な扱い」そのもの。稚拙、かわいい以外にも多くの表現が明らかに東北を下に見た表現、または自虐とでも呼べる言葉のセレクトであり、「見下してるつもりも、見下されてるつもりもないですが」ってんなら、じゃあなんでそんな言い方するんかな〜としか言いようのない……言ってみればディスり、に近い言葉が多く書き付けられている。今日日推しに対する愛あるディスり(笑)は寒いし流行んねぇし普通に失礼なんだよなぁぁぁぁぁ

信仰対象である民間仏にそんな言い方は不敬、とかそういう話ではない。また、キャプションがカジュアルで主観的でユーモア(笑)に溢れたものだから不快だったのでもない。こういった分野を取り扱う際のまなざしと言葉に、無意識の差別や権力志向が含まれていないかという自省は必須じゃあないんですかね。必須じゃなくて実際には無頓着、もしくは無頓着だと思われても構わないってんですか?いくらカジュアルな展覧会であっても、キュレートする側はまなざす側としてそこにオリエンタリズムやマイクロアグレッションが存在する可能性に対して常に意識的であるべきだし、意識的であって欲しい。のに、この展示におけるキャプションや解説は周縁の人々と、その人々の作品に「かわいい」「稚拙」と言った言葉を当てはめることのグロテスクさに全く無頓着であるか、無頓着であるようにみえる。みちのくを周縁化しているのは誰なんでしょうね。「田舎の人の作った仏像、へたくそだけどかわいいでしょ」なんてエライ先生がシラフで言ってんなら大問題だよ。また、そういう視点と言葉で民間仏を扱っても良いんだという価値観を見る人に刷り込んでどうするんだ。ステレオタイプの再生産じゃないか、という腹立たしさもある。展覧会として集客のためにキャッチーさを優先することは仕方ないけども、まさかキャプションや解説までこの有り様とは……もうちょっとこう、ね、あるでしょ…(今燃えてる大吉原展もそんな感じだわ)

とは言え、どうも世間的にはこのキャプションは大人気のよう。「愛ある解説」という表現もチラホラ見たけど、私も実際「民間仏に対する、おそらく監修の先生の(同郷が故に自虐も含む)溢れ出る愛」があったことは疑っていない。愛のある展示だったと思う。でも、無意識の差別や先入観に支えられた「愛とか言うもの」は普通にあるでしょ、って話(私事だが、私の推しは東南アジア系のミックスの北欧人で、褐色の肌をしている。私は彼のことを「愛して」はいるけども、彼の外見と出自にエキゾチックな魅力を感じていないというと残念ながら嘘になる)。あと、こんな上から目線の表現がユーモアなんだったら、そんなユーモアはマジでいらんのよねぇ。

正直、自分が何か…美術品や工芸品、映画や音楽、風景でもなんでも、何かを見る際、自身の眼差しから無意識の偏見や優越性や差別感情といった色眼鏡を完全に外したり、色眼鏡をかけていることを自覚するのはすごく難しい。この投稿では私は「こんなんアカンやろ」と言う立場にあるが、それはたまたまであり、いつもコレクトなポジションにいるとは限らない。一方で美術館や博物館における展示は、今回のように色眼鏡そのものにもなり得るが、昨年の西美の「スペインのイメージ展」のように色眼鏡への問題提起をし、新しい気付きをくれることもある。後者のような良質な展示に出会えることを祈って、また展覧会に足を運ぶしかないですね。

最後にこれはクソデカ大声で言っておきたいのですが
・展示作品はマジで素晴らしいです。あとかわいいのも本当です。そのこと自体は否定していません(ただし、造形的には一種の洗練を感じるものもある。キャプションに誘導され過ぎないで見て欲しい)
・キャプションは「かわいさやユニークさだけでなく、民間仏の背景には東北の人々の中にある真摯な祈りがある」ということを伝えることには大成功しています(ただし、作品のパワーが強いので、キャプション読まなくても十二分に伝わります)



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