一九九八年初夏、ヘンリーズフォーク

 一度だけ中沢さんと一緒に釣りをしたことがある。
「よかったら、南米の帰りにアメリカで一緒に釣りをしませんか」
 というメールを編集者の倉茂さんから受け取ったのは一九九八年の四月、サンティアゴでのことだった。ぼくはまえの年の十一月からパタゴニアを釣り歩いていたが、チリの首都サンチィアゴまで戻っていた。そこで次の行き先も決められないまま漫然と時間を過ごしていた。パタゴニアの釣りシーズンは終っていた。
「そうか、その手があった」
 北半球では、まさに鱒釣りの季節が始まったばかりだ。日本に戻るにはどちらにしろ北米経由になる。ぼくはぜひよろしくお願いしますと返信した。大勢での釣りになるという話だった。
 もっとも最初はごく少人数の釣り旅行だったらしい。それが大人数にふくれあがったのには理由があった。
 まず、フライロッドビルダー、マッキーズ店主の宮坂さんが友人数人とイエローストーンに釣りにいく計画があった。その話を聞きつけた中沢さんがぜひ同行したいと電話を入れた。するとそれを隣で聞いていた編集者の倉茂さんも「ぼくもいいですか」と控えめに、しかし強く申し入れた。そしてまた話を聞きつけた別の人が手をあげた。宮坂さんは断る理由もないので「いいよ、大勢のほうが楽しいでしょう」と首をたてに振りつづけた。航空券の手配は各自で行い、現地集合、現地解散の自由な個人旅行の旅ということであった。
 最終的に、日本から、米国内から、南米から、途中参加者も含め一〇人以上の日本人の釣り師が行くことになった。宮坂さんもいったい誰がくるのか、正確には把握してなかったらしい。そしてぼくたちは、一九九八年の六月末にイエローストーンのコテージに集結した。
 最大年齢差三〇歳、職業は公務員、会社員、医者、編集者そして無職という構成であり、上と下、左と右にやたらに広い集団となった。
 ぼくにとって、中沢さんと編集者の倉茂さんだけが以前からの知人だった。
 最初に中沢さんと言葉を交わしたのは、その五年前のことになる。

 一九九三年、真夏の東京。当時、ぼくは戦前に建築された古いビルで働いていた。アスファルトが溶け出しそうな酷暑の昼下がり、二十八度に設定された古いエアコンは唸り声をあげて温風を吐き出していた。職場の風紀を乱さないことに心を砕く小うるさい係長は席を外しており、課長は目を閉じて今にも船を漕ぎだしそうなようすだった。
 ぼくは、じわりと汗ばんだ手で受話器を握って関係先へ電話をかけるふりをしてフライの雑誌社へ電話をかけた。三年前の釣り旅行のことを書いた文章を投稿するためだった。
「はいフライの雑誌社です。ただいま出払っております…」
 と留守番電話の音声がながれた。伝言を残そうとしたが、
「ご用件がある方はのちほどおかけなおしてください」
 とメッセージがつづいた。それが中沢さんの声を聞いた最初である。「出払っている」という媚びのない言い回しと、伝言は受けつけない、つまり「本当に用があるんなら、かけなおしてくるでしょ」という態度が誌面から想像していた『フライの雑誌』らしいと思った。
 ぼくは、のちほど連絡をすると一枚目に書き加えて、原稿をフライの雑誌社へFAXした。その翌日中沢さんの方から連絡があった。
「読ませてもらいました。いいです。掲載させてもらいます」
「どうも、ありがとうございます」
 ぼくは小躍りしたい思いで礼を言った。
「ただ少し手を入れたいので、少し時間をください」
 と言って中沢さんは電話を切った。
 数日後に中沢さんから送られてきたFAXを弾んだ気持ちで見ると、やたらと線が引いてあった。「この部分をもっと書き込む」等の具体的な指示が随所にあり、また言葉が入れ換えられ、構成も変更され、量的にも二分の一が削除されていた。もちろんぼくの原稿は、投稿するまでに自分自身で何度も読み返し推敲をかさねたものである。
 ぼくは中沢さんに抵抗したが、その度に中沢さんに諭された。もっと膨らませたらよい理由、削除された個所が必要がない理由を、ぼくはていねいに説明された。
「○○さんや、××先輩というのは浅野くんにとっては大事かも知れないけど、読む人にとっては関係ないでしょう」
「たとえば、会社の女の子にわかるように書いてみればいいんですよ」
 残念ながらぼくには言い返す言葉がなかった。シブシブでもしたがうほかない。
 ぼくの文章はさらに絞られ、膨らませられ、六回ほどやりとりをへて、最後には三分の一ほどになった。もはや自分の書いたものとは思えなかった。精神の筋肉トレーニングを受けたような気分で、ヘトヘトになった。
 しかし、いざ活字になったものを目にすると、オリジナルに比べてはるかに読みやすく、煩雑物がとりのぞかれ、少なくとも第三者が読むにたえる客観性をそなえたものになっていた。言いたいことは中沢さんによって書かされていたのだ。
 それからぼくは『フライの雑誌』に投稿をするようになった。『フライの雑誌』に自分の書いたものが掲載されるのはうれしいことではあったが、それ以上に中沢さんとのやりとりがスリリングだった。
 中沢さんに一文字も直させない原稿を渡すことがひとつの目標にもなった。

 コテージの部屋割りを決め、荷をほどいた。そしてイエローストーンの町のスーパーへの買出しを済ませると、ぼくたちはひとりずつ順番に自己紹介をすることにした。
「浅野くんは、パタゴニアでゲップが出るほど釣りをしてきても、まだ釣り足りないってさ」
 中沢さんは、ぼくの自己紹介の後に他のメンバーにそうつけ加えた。
「釣り足りない」とはぼくの本心ではあったけれど、その一方で釣りに対して醒めた思いもあった。その醒めた思いとは、無期限の釣りの時間を与えられた人間がたどりつくひとつの着地点でもある。中沢さんも『フライの雑誌』を創刊する前に仕事もせずに釣りだけの日々を送ったことがあるという。中沢さんは、その「醒めた思い」と「それでも釣りたい」という気持ちを共有できる数少ない人でもあった。
 ぼくたちの狙いはグリーンドレイクのハッチに狂っているはずの二〇インチオーバーのレインボーだった。翌日からの釣りに期待を膨らませながら夜半にはみな部屋に引き上げた。そして五日間のヘンリーズフォーク通いが始まった。
 初日。朝食を済ますと、ぼくたちは四台の車に分かれてヘンリーズフォークへ向かった。川幅一〇〇メートルほどの流れは、藻をゆらゆら揺らせながら、強い朝日を浴びて銀色に輝いていた。
 ぼくたちは急いでウェーダーを履き、ロッドをつなぐのももどかしく銀色の流れに散っていった。目の前でライズが起きた。熱い一日がはじまった。
 しかしパタゴニアで無垢な鱒を相手に大雑把な釣りをしてきたぼくは、むずかしいヘンリーズフォークの初日は完敗だった。
 その夜のこと。ぼくは他の人に使ったフライと釣り方を聞いた。もともとマッチ・ザ・ハッチの釣りはそれほどのめり込めない性質ではあるけれど、それにしても自分だけが釣れないのはなぜなのだろう。
「じゃあ、明日は浅野くんが釣れるように一緒に釣ろう」
 すっかり肩を落としたぼくに、中沢さんはそう言ってくれた。釣り師はそれぞれ自分の釣りに自負があるものだろう。だからこそ、そこそこの経験のある釣り師には「教えてあげよう」とは言えない。しかし、ただひとり一匹も釣れなくてがっくり肩を落とすぼくに、中沢さんはあえてそう言ってくれた。

 コテージからのヘンリーズフォーク通いが続いた。その日は中沢さんとモンタナ大学の大学院生の上田さんとぼくが同じ車に乗った。上田さんの専門は魚類学であった。車中では、米国の河川の現状、良い川の作り方、日本の河川環境の改善法、といった話で中沢さんと上田さんの話は盛り上がっていた。中沢さんは上田さんに、さっそく原稿を依頼していた。
 ヘンリーズフォークに着くと、最初こそぼくたち三人は近くで釣っていたが、じきにそれぞれ好きなポイントに散った。ヘンリーズフォークはスプリングクリークのような流れなので、鱒があつまる特別によい淵があるわけでもない。そうと頭ではわかっていても、人の少ない方へ、ぼくの足は駐車場から離れた下流方面へむかった。
 しばらくして、ぼくがライズを追って川の中ほどまで立ち込んでいると、ぼくよりもさらに下流に向かう上田さんらしき姿が見えた。上田さんのお気に入りの場所があるのだろうか、ふとそんな気がおこり、ぼくはついて行こうかどうか迷ったが、目の前のライズから離れる訳にはいかなった。
 その日は特にライズが多かった。
 ふと気がつくとあたりはすっかり暗くなっていた。汗ばむほどの日の光は失せ、冷たい夜の冷気が降りてきていた。我われは帰る時間の約束は交わしていなかった。車のキーはぼくが持っていた。二人が車に入れずに寒さにふるえている姿を想像した。
 ぼくは川からあがると、早足で川岸につけられた小道をたどって駐車場へ向かった。駐車場から川へのエントリーポイントあたりで熱心にライズに向かっている中沢さんを見つけた。まだ釣りをしていたのだ。
「中沢さん、帰りましょう」
 と岸から声をかけると、中沢さんは名残惜しそうにリールを巻いて岸に上がってきた。
「きっと上田さん、車のところで待ってますよ」
 とぼくは言った。
 そうして二人で車に戻ったが、上田さんの姿はどこにも見当たらなかった。仲間うちの二台はすでになかった。ちょうど帰り支度をしていた宮坂さんに上田さんのことを聞いたが、見てないよ、ということだった。
 そのまま宮坂さんたちの車を見送り、ぼくと中沢さんは車のエンジンをかけ車の中でしばらく待つことにした。
「たぶん、もう他の車で帰ってるよ」
 と中沢さんが言った。
「いや、もう少し待ってみましょう」
 その数日間で自分が乗ってきた車でもどる、という不文律のようなものができていた。上田さんらしき人が下流に向かうのも見た。もし先に戻ったとしても、ぼくか中沢さんに声をかけていくのが自然であろう。
 周辺には数件のレストランとモーテルとフライショップがあるだけである。昼間でも少ない交通量は、日が沈んだ後ではなおさら少なくなる。そこからコテージに戻る手段は車以外にはない。
 駐車場は夜の闇につつまれ、すでに我われの車しかなかった。確かにそんな時間まで戻ってこないのも不思議だった。コテージには電話がないので確認のしようもない。
 二〇分ほど待っただろうか。結局ぼくたちはコテージへ戻ることにした。

 コテージに向かう車中でぼくは中沢さんに、前日のあるできごとについて聞いた。
 中沢さんと編集者の倉茂さんとぼくが川岸で休んでいた時のことである。
「ああ、どうも、こんにちは。釣れましたか?」
 鼻の下にヒゲをはやした小柄なひとりの日本人が、ニコニコと愛想よく中沢さんに声をかけてきた。あいさつは中沢さんに向けられたものだったがぼくも、こんにちはとあいさつを返した。
 その日のヘンリーズフォークはグリーンドレイクのハッチに合わせて来た日本人であふれていた。それまでも釣り雑誌で見たことのある人たちが中沢さんに声をかけていった。だが、その人の名前がぼくには思い浮かばなかった。
 一方、編集者の倉茂さんはその人が近づいてくるとプイっと背中を見せて、全く言葉を交わそうとしなかった。
 いつもお世話になっています、今度また何か書かせてください、と中沢さんに話しているその人の顔を見ているうちに、ぼくはようやくそれが誰なのか思いあたった。そして倉茂さんの反応にぼくは納得したのだった。
 その人は『フライの雑誌』に連載されていた島崎憲司郎さんの記述を拝借して、さも自分の意見のように他の雑誌に発表した人物だった。確か中沢さん自身もその件ではあるまじき行為と書いていたはずだ。それほど時間の経った話でもない。しかし中沢さんは、相手をこばむことなくごく自然に対応していた。
 ぼくは助手席の中沢さんに率直にその疑問を投げかけた。
「うーん。相手が素直に詫びて、非を認めればね。こんな言い方というのは何様のつもりというか、ホント不遜な言い方なのだけど、許すというかね、不問に付すというかね」 中沢さんは少し考え込むようにして、そう言った。
「しかし、倉茂さんもせめてあいさつぐらいした方がいいですよね」
 とぼくが、それこそ不遜に言うと、中沢さんはこう言った。
「うーん、そうなんだよ。それがアイツの良いところでもあるんだけど。ただ、もうクラシゲもいい大人なんだし、ちいさな子どもに対してニンジンもピーマンも食べなきゃダメですよ、と言うようなことはできないしね。たぶん、そうした方が倉茂にとってももっと楽しくなるだろうし、良いと思うんだけどね」
と少し残念そうに中沢さんは答えた。

 ヘンリーズフォークからコテージまでは四〇分ほど時間がかかった。上田さんはいなかった。ぼくと中沢さんはトンボ帰りで上田さんを探しにヘンリーズフォークへもどった。
「えっ、置いてきちゃったの?」
 という宮坂さんの他意のない言葉が胸に響いた。
 もし上田さんがコテージにいたら、それはそれでぼくは腹が立っただろう。だがもどっていないとなると、ぼくは気が気ではなかった。一方中沢さんはまったく何とも感じていない様子だった。
「マズイですよ。本当に悪いことしちゃった」
 とぼくが言うと、
「まあ、焦ったって仕方ないだろう」
 と中沢さんは言った。焦りながらハンドルを握るぼくの隣で中沢さんは、まったくぼくに同調することなく平気な顔をして座っていた。同じ道とは思えないほどヘンリーズフォークが遠く感じられた。
 ようやくヘンリーズフォークに到着し、駐車場につづく道へ入るために減速した時だった。道の脇のモーテルの玄関から人が出てきた。上田さんだった。どっと安堵の気持ちが湧きあがった。
 すると中沢さんは車が止まるか止まらないうちに、さっとドアを開けて車を降りて上田さんに駆け寄っていったのだった。
「ごめんなさい。もう先に帰ったと思って。本当に申し訳ない!」
 えっ? ぼくは不意打ちを食らった。中沢さんのその見事な謝りように、車中での態度とのギャップにぼくはほとんど裏切られたような気持ちにさえなった。すっかり謝るタイミングを外されたぼくは、車からおずおずと出ていった。
 アレはいったい何だったのだろうか。中沢さんの優秀なビジネスマンの一面を見た、とその時のぼくは感じた。きっとそれはそうなのだろう、悪いことではない。経営者の能力がなければフライの雑誌社はとうに存在していなかったに違いない。
 しかし今思うと、おどおどする自分と、置いてきぼりにした上田さんへの両方への気づかいだったとも思える。たぶん、その両方なのだ。

 ぼくは中沢さんと頻繁に会っていたわけではない。だが、中沢さんはぼくのことをよく理解してくれていたのだな、と感じられることがあった。
 ぼくは計二年ほど南米を放浪し、釣りを含めた多くのすばらしい経験をした。また思い通りにいかない嫌な思いも同等にした。その両方を噛んで含んで消化して、そして南米の虜になった。そのまま日本に帰らずに南米で暮らすことを選択すべきか真剣に思い悩んでいた。しかし当時、
「浅野くんは、きっと日本にもどってくるよ」
 と中沢さんは言ったという。その言葉とおりに、今ぼくは日本にいる。

(フライロッドを片手に雑誌をつくった: 27人が語る、「FFJ」と「フライの雑誌」をつくった編集者のこと 中沢孝とその時 単行本 徒渉舎 2005/7/1)


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