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ライズなし  The Poer Of Love をめぐるストーリー

男は古いオービスの竿を持ってサンフランスコにいた。
チャイナタウンの入り口の門をぬけ、ブッシュストリートを渡り100mほど進んだ左手にオービス・ショップはあった。男は1階のアウトドア・ウェアを扱うフロアを抜けると、2階の釣り道具売場へ上がり、古いオービスの竿を店員に差し出した。
「この竿の修理を頼みたいんだ」
8フィート、6番、3ピース。「トラウト」と名づけられたその竿は、男のものではなく男の友人の預かりものであった。長めの竿が流行の最近ではあまりぱっとしない竿ではある。
もちろん男は友人の竿を直すためにサンフランシスコへ来たわけではない。男は女と話しをつけるためにサンフランシスコへ来たのだ。

男と女は大学3年の冬に合コンで知り合った。男は合コンまっ盛りの当時でさえ、その手の飲み会にはほとんど参加したことがなかったが、少しは大学生らしいことをしようと思っていた時期でもあって、また釣りの季節からも外れていたこともあったので友人の誘いに乗った。
男は女のその挑戦的な目に自分にないものを感じた。男のできる話といえば、当時も今も川と魚とフライの話ぐらいである。女は男の釣りの話を目を輝かせて、嬉しそうに聞いた。釣りの話を楽しそうに聞く女に、男は少し面くらったが、それは新鮮で嬉しいことだった。
女は大学で工業デザインを専攻しており、その話を熱っぽく語った。女の話はそれまでに男が触れたことのない世界の話ではあったが、その内容というよりも、好きなことを話す女から発する不思議なエネルギーに引き込まれた。コンパがはける頃にはお互いの連絡先を教えあっていた。一週間と空けずまた会う約束を交わしていた。お互いに「何かやりたいこと」があることが二人を惹き付けた。もっともその方向は逆であったにせよ、である。
女の夢は工業デザイナーとして独立し、成功をおさめることであったが、男のしたいことといえば、ただ釣りだけであった。世の中の成功にはさしたる興味もなく、どちらかといえば、そうはなりたくないとさえ思っていたのだ。男にとって、名が知れる、偉くなる、出世といったことは、そのことによって得られるものよりも、失うものの方が多いような気がした。ただ釣りに行く時間がなくなるだけのように思えた。
2人の関係は、恐るべき対比の上に成り立っていた。あるいは全く反対であったからこそ2人はうまくいっていた、と見ることもできる。

数度のデートの後、二人は付き合い始めた。そのことを知った男の友人達はこぞって
「おまえには、もったいない」
と羨んだ。当の2人には全く頓着しなかったが、はためには随分と不釣り合いなカップルと映ったようである。
女は国立大学を出ると大企業に総合職として入社した。そして万人受けする美人ではなかったが、常に言い寄ってくる異性が絶えることはなかった。本人はそれで調子にのって天狗になるわけでもなく、かといって疎ましく感じているわけでもなかった。
男は付き合い始めた当初から、言い寄ってくる異性の話をよく聞かされた。その度に男は、女の意図が計れず、
「こいつは何が言いたいのだろう」
と勘ぐってみたが、それは全く意味のないことだった。女にはそれにより、男の嫉妬心をかきたててやろうという考えがあるわけではなく、子どもがその日あったことを一生懸命親に話すように、ただあったことを男に話していただけだったのだから。そのことに気づいた時、男は女を、男がいつも相手にしているスレッカラシの渓流魚ではなくて、人里離れた渓流に泳ぐ無垢な岩魚のように思った。
一方、男の方は学生数が何万人もいるマンモス私立大学を卒業して、中堅の専門商社に入社し、営業の仕事に就いた。二人が大学を卒業した年は、バブルの始まりの時であって「超」のつく売り手市場であった。男は普通ならスーツに身を包み、就職活動に専念すべき時期に、パック・ロッドをバイクにくくり付け、東北の渓流を渡り歩いていた。
男は周囲がにわかに就職に向けて騒がしくなる中で、川が気になって我慢ができなくなった。就職となったら、昨日までの態度をコロッと変え、思ってもいないことを調子よくしゃべることに、男は抵抗があった。
そもそも男は仕事で一旗上げようといった上昇志向がはなはだ希薄な人間であった。男の望みといえばただ一つ、ただ釣りができれば良かったのだ。それに、
「今年は超売り手市場なのだから、まあなんとかなるだろう」
とも、男は思っていた。
結果、男の思惑通りに、世間での知名度が低い割には堅実な中堅の専門商社へ潜り込むことに成功した。

社会人になってからは、ニ人が会うのは平日に限られた。週末は男が釣りに行ってしまうからである。男が釣りに行っている間にも女はコツコツと自分の勉強を続けた。
「なぜ俺なんかと付き合っているんだろう」
と男は不思議に思うことがあった。自分の「甲斐性の無さ」を自覚していた男としては 極めて自然な疑問である。時に女にその疑問を投げかけてみることもあった。女は
「好きなことがあるというのは素晴らしいことだし、あなたから釣りをとったら何が残るの。あなたは自分の好きなことをしていればいいの」
と、およそいつも、このような答えを男に返した。
たとえ何と言われようとも釣りに行くのを止める気はなかったが、そう答えられると後ろめたさのようなものを感じた。そしてますます女にのめり込んでいくことになった。
男が釣りに行く回数が減り始めたのは女と出会って8年目のことである。

その年、女は会社を辞めた。アメリカに留学するためだった。
女は大学時代から留学を考えていたが、社会人になってからは一層その思いが強くなっていった。会社には女性の管理職は見当たらず、たとえそのまま働き続けていても会社でのポジションは知れていた。そしてそれは女の考えていたものとはかけ離れてたものだった。男と違いポジティヴな思いを抱いて入社した女ではあったが、女の幻想は少しずつ崩れていった。
日本の大企業の多くがそうであるように、女の会社でも留学制度があった。留学希望者を社内で公募し、選考をパスすれば給料をもらいながら留学にかかる費用を会社が負担してくれるという制度である。しかし女の会社では女性の留学が認められた前例はなかった。ならば会社を頼らず、個人でその道を目指さなければならない、と女は次第に思い詰めるようになった。そのことにより、女の留学への思いはさらに強くなっていった。
社内の留学生の選考結果が知らされた日に、女は自分の考えを男に打ち明けた。女が留学するということは、数年間離れて暮らすということを意味した。男の心境は複雑だった。だが一体、誰が女の夢を壊す権利があるのだろう?嫌な顔もせず、毎週末釣りに行かせてくれる女に対して、男はダメだとは言えなかった。それどころか男は、久しぶりに見せる女の晴々とした顔を見ているうちに、積極的に応援したい気持ちさえ生まれてきたのだった。
女が会社を辞めてから、女の留学のための学費と生活費を捻出するために、男は釣りに行く回数を減らさざるをえなかった。アメリカの大学院の授業料は、日本の私立大の学部の四倍もするのだ。生活を切りつめるのは苦痛ではなかったが、釣りに行けないことは男を時に憂鬱な気分にさせた。だがそれも女が奨学金を獲得することで半分は解消された。女は返済義務のない奨学金制度の情報をせっせと集め、見事にある省庁が主催する奨学金制度に受かった。男は女の行動力と運の強さに舌を巻いた。
しかし金銭面での問題が解決しても、以前ほどには釣りに行けなかった。その理由は、女の相手をしなければならなかったからである。もともと感情の激しい女ではあったが、会社を辞めてからはさらに情緒不安定な傾向に拍車がかかった。生まれて初めての、組織に属さない何の保証もない生活を思えば、それも無理からぬことではある。男は耐え切れず、二、三回発作的に女に黙って釣りに行ってしまったことがあったが、それ以外は愛情と義務感で女の相手をした。

一年後、女は一人でアメリカへ発った。男は一緒に行くことも考えたが、それには仕事を辞めて行くしかない。世間体は別としても、男はとりたててアメリカでするべきこともなかったし、また経済的に無理な話であった。
成田での男の心境は複雑だった。いざ実際に女と離れるとなると、やはり淋しさと不安を覚えた。しかしここでその時の男の気持ちを複雑にさせたもう一つの感情は開放感であった。
「これでまた前のように釣りに行ける」
そう思うと心が軽くなった。女がアメリカにいれば、会いに行くついでにイエローストーンにも行けるだろう、とも思った。
釣り畜生。
女のことを想う気持ちはあるにしろ、全くあきれた男ではある。
そして、その一年後、男は女と最後の話をつけるためにサンフランシスコに行くハメになったのだ。女からの国際電話の間隔が空きはじめても、男は気づかなかった。忙しいだろう、ぐらいに思っていたが「忙しいから電話ができなかった」訳ではないということを、男はサンフランシスコへ行く一カ月前の電話で知らされた。簡単な話だった。女に新しい男ができたのである。男は高巻きで足を滑らせ、滑落していくような気分を味わった

さて、オービス・ショップの2階である。東洋系の店員との製造中止モデルの竿の修理についての話は、一人の中年男によってつかの間中断された。
その中年男はふらりと店内に入ってくると、ランディング・ネットの前で立ち止まり、それらを手に取って、さほど迷う素振りも見せず1本を選んで、キャッシャーの前に立った。男の相手をしていた店員は、そのために男との話を一時中断した。
男は、そのネイビーのジャケットとチノパンといういでたちの男を目で追っていたが、たいして迷うことなくランディング・ネットを決めた中年男を見て、
「きっと金回りがいいんだろうな」
と思った。というのもオービスショップは日本人が思っているよりも高級な店で、つまりはランディング・ネットとはいえ決して安くはないからである。
店員と親しげに会話を交わして、その中年男が1階へ降りてゆくと、店員は
「ヒューイ・ルイスを知っているか」
と男に尋ねた。
「パワー・オブ・ラブの?」
と聞き返すと、店員は一瞬思案げに視線を空に走らせた後、男に視線を戻し大きく肯き、「そうだ今の人がそのヒューイ・ルイスだよ」
と男に言った。
パワー・オブ・ラブ。それは男が女と出会った頃に流行った曲だ。映画「バック・トゥ・ザ・ヒューチャー」の主題歌でもあった曲である。
3回目のデートの時、不器用な男が選んだ映画が「バック・トゥ・ザ・ヒューチャー」だった。その映画を観た後、その夜から二人の関係は始まった。
相変わらず映画にも音楽にも興味がない男ではあったが、ロマンティックとはかけ離れたその映画とともに、その主題歌であった「パワー・オブ・ラブ」は男にとって忘れられないものだった。

親切な店員はレジの上のメモとボールペンを差し出して、サインをもらって握手をしてこいよ、と男を促した。男はメモとペンを受け取りヒューイ・ルイスの後を追おうとした。しかし男は結局、ペンとメモを握りしめた手のひらにジットリと汗をかいて立ちすくんでいただけだった。頭の中ではパワー・オブ・ラブが鳴り響きグルグル回っていた。
男は最初、ぜひ彼と握手をして話をしたいと思った。男は、こんな幼稚な思いに囚われた。
「ここで、今ヒューイ・ルイスと言葉を交わせば、女の気持ちを変えることができるかも しれない、何せパワー・オブ・ラブなのだから」
しかし、男は次にはこう思ったのだ。
「今さらパワー・オブ・ラブはねえだろう」

ヒューイ・ルイスは一階で他の女性の店員としばらく言葉を交わし、男が躊躇している間に外へ出た。
「ヒューイ・ルイスはサンフランシスコに住んでいて、常客なんだ」
と店員は言った。
店員はオービスの本社へ電話で問い合わせまでしてくれたが、製造中止モデルのその折れた「トラウト」は結局、直らなかった。格安で、新品の2ピースの同じモデルとの交換を勧められたが、持ち主の気に入っている点は、3ピースであったことを思い出し、男はそのまま日本へ持ち帰ることにした。

女は最後まで男とまともに視線を合わせることはなかった。いや確かに目は合っているのだが、男はその視線からは何も感じることはできなかった。しかし女には何かに怯えているような落ち着きのなさは微塵も感じられなかった。もはや男の目の前に座っているのは男の知らない女だったのである。男は女を一目見た瞬間に全てを理解した。折れた竿は直しようがないことを。もはや答えは変わりようがないのだ、と。
女との話は1時間ほどで終わった。アメリカに行く時に男が預かった女のいくつかの荷物の処分の仕方について話しをすると、10分もかからずに用件は済んだ。残りの時間に、男は釣りの話をした。
用意してきた恨みの言葉をいくら吐いても、何も変わりはしないと思った男が、選んだのは先週行ってきた伊豆の渓流の話だった。
二人は、また明日会おう、という雰囲気で手を振って別れた。

今日は修羅場になるかもしれない、と女は思っていた。約束の場所に行くと男は所在なさげに待っているのが見えた。結婚する前もいつもそうだった。女はどうしてか、いつも時間に遅れてしまうのだ。男は約束の時間の5分前には着いているタイプだった。女はイライラしながら待っている男にいつも「ごめん、ごめん」と謝っていた。それでも女は時間に遅れることに対して抵抗はなかった。しかし今日、初めて「悪いことをしたな」と思った。
女はアメリカに来て世界が広がった、と思っていた。日本にいた頃の自分の周りに比べて、ここのみんなは輝いているように思えた。留学をして学位を取得して自分の人生を有利に生きる。男の言葉で言えば「制度の中で生きてゆこうとしている人達」だったが、会社勤めをしている男のそんな言い草はおかしいと思うようになっていた。なぜなら「あの人は最初から逃げているんだから」と女は思った。それに比べ「少なくともここにいる留学生達は闘っている」と。
週末が近づくとそわそわしだして、金曜の夜にコソコソ家を抜け出して釣りに行くだけの男。それでもいいと女は思っていた。女は包みこんでくれるような男の愛を感じていたし、緊張感を和らげる男のジョークのセンスも好きだった。男と一緒にいると女は安心できた。
しかし、アメリカに来て女の世界は広がった。そしてその彼に会って世界が変わった。女が求めていたのは、安定ではなくて変化だった。
彼と女は言葉の違うアメリカでのタフな留学生活の中で協力し合った。彼は女には日本に男がいることを知っていた。二人のの協力関係を別の関係に変わるように仕向けていったのは女からだった。
彼がいなければ、残りの留学生活をやってゆける自信はもはや女にはなかった。それに女には卒業後もこの国に留まりたいという欲望が芽生えていた。
「アメリカには、少なくとも日本よりは実力さえあれば性の違いを超えて認めてもらえる土壌がある。そのためには、心の安らぎを与えてくれる日本に住んでいるあの人よりも、強引に引きずり回すエゴイスティックな彼のエネルギーが必要なんだ」
そう女は思うようになった。
きっと男には事務的に接することになるだろう、女は思った。中途半端に優しくするよりも、距離を置いて接するということが、最後の優しさだと女は思った。
最後だというのにまた釣りの話をしている男を見ながら、女は少しだけ呆れた。そして、昔、男の釣りの話を楽しく聞けたのは釣りに興味があったんじゃなくて、楽しそうな男を見ているのが好きだっただけなんだ、と気づいた。
男には釣りがある。釣りがそんなに楽しいのか女には理解できなかった。でもきっと男は釣りとつながっている限りきっと幸せなんだ、と女は思った。

女と別れた次の日、男は釣りをするために、ヨセミテへレンタカーのハンドルを向けた。それはアメリカに来る前から考えていたことだった。釣りをすれば気分が晴れる、と男は思っていた。しかし、情報を何も入手せずに行き当たりばったりの釣りで、着いてみると国立公園内はまだ禁漁だった。その上雨が降っていた。
仕方なく公園の外のマルセード川の下流で釣りをすることにした。一時雨が途切れたのを見計らって、男は増水気味の川岸に立った。男の立っている場所から流れをはさんだ対岸寄りで飛沫が飛んだ。それは男が待ちに待ったライズだった。男の心に小さな、しかし力強い火が灯った。男は次の飛沫を待った。
風が強く吹き始め、空がゴロゴロと鳴きはじめ、光った。男は野球のボールを投げつけられたような鈍い衝撃を背中に感じた。ボールは誰かが男に向かって投げつけたものではなく、空から降ってきた雹(ひょう)であった。日本では見たことがないようなピンポン玉ぐらいの大きさの雹だった。ピンポン玉は川面から川岸から道路からあたりかまわず跳ね回った。ライズなどもはや起こりようがない。
空は一層暗くなり、水かさはますます増えていった。その嵐の中でまだ男は待っていたのである。一体、男は何を待っていたのか―――。男自身にも何を待っていたのかは分からなかった。
男はオービス・ショップでのことを思い出していた。あの時ヒューイ・ルイスと握手をし、言葉を交わせば何か変わったかもしれないな、と半ば真剣に思って、そしてあの時と同じようにすぐさまその考えを打ち消してみたりした。
男は泣いていた。雹に打たれ、嵐の中で声にならない声を上げて泣いていた。そして大声をあげて泣いた。雹はなおさら激しく男を叩きつづけた。
男にとって、釣りとは救いであったのか、あるいはただ男を不幸にするだけのものだったのか。ただ、男は深い悲しみに途方に暮れながらも、こう思ったのである。
「早く山女魚釣りてえなあ」
と。そして、
「これからもこんな風に釣りをして生きていくしかないんだろうな」
と。
涙の枯れた男の口元はしかし笑っているように見えた。

フライの雑誌 40号 1997年初冬号

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