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No.147 1999年 泉麻人氏の『楽しい社会科旅行』を読みながらフィールドワークを楽しむ

 1999年4月、泉麻人氏の『たのしい社会科旅行』(新潮社)が発行されました。泉氏は作家・コラムニストで当時テレビに出演しているところを何回か拝見していました。日本私立小学校連合会の東京の組織、東京私立初等学校協会の社会科部会の研修でお会いしたこともあります。とてもユーモアがありお話も上手な方でした。
 『たのしい社会科旅行』は社会科を専門教科にしている私にとってはとても関心があり、カバーにあった作者のことば「ありし日の社会科の時間に学習した、鉱山やダムの土地を、その目で確かめてみましょう。忘れていた何かが、きっと見つかるはずです。おいしいラーメンを食べ歩くだけの旅に、物足りなさを感じているあなたに、この本は良い手引きになるに違いありません。旅のお供に一冊。」はフィールドワークを重ねてきた私にとっても魅力的な言葉として映りました。

 1999年4月~2000年3月まで、学院からサバティカル(自由な研究期間)を頂き主に全国各地の国立大学附属小学校の授業を参観すると共に各地のフィールドワークをする予定の私にとってガイドの役割を果たして下さいました。その時に私が訪ねたのが、函館、青函トンネル、金沢、富山、大阪、京都、坂出、琴平、瀬戸大橋、橋本(和歌山)、長崎、高島、青森、三内丸山、酸ヶ湯温泉、沖縄本島、宮古島、八幡平、白馬、伊東、青森放送(教科書取材)、尾鷲(教科書取材)、柏崎刈羽原子力発電所、ソウルなどでした。
 『たのしい社会科旅行』の9つの章の始めには、訪ねた地域周辺の地図が挿入されており本文を読むためのサポーターのような役割を果たしており引用させて頂きました。それぞれの章で紀行された場所とその場所に関する私のフィールドワーク経験を記述します。
 
人形峠と鳥取砂丘巡礼

 人形峠と鳥取砂丘紀行が書かれています。私も小学生の頃地図帳を見ていて「人形峠」という面白い地名とウランの名前に「何があるのだろうか」と不思議に思っていました。もちろん、人形峠には行ったことがありません。鳥取砂丘には1973年の大学1年生の時に訪ねています。
 
生糸と銅の街を歩く

 富岡製糸場と足尾銅山紀行が書かれています。私は足尾銅山には1983年に、富岡製糸場には2013年に訪ねています。世界遺産に登録された2014年の1年前でした。わたらせ渓谷鐡道、上信鉄道の乗車も楽しめました。

富岡製糸場 2013年

瀬戸内の春を食う

 小豆島と本初子午線が通っている明石紀行が書かれています。私は小豆島に2019年に、明石には2014年に訪ねています。東経135度の日本標準時子午線が通る明石の天文科学館を見に行きました。泉氏の紀行では天文科学館が工事中で見ることはできなかったようです。

小豆島「二十四の瞳映画村」 2019年

「紅葉とダム」のテーマパーク

 宇奈月温泉からトロッコ電車で欅平(けやきだいら)と立山から黒部第四ダム紀行が書かれています。私は逆のコースでしたが、2017年に訪ねました。黒部第四ダムは圧巻でした。

黒部第四ダム 2017年

幕末・明治の「トレンド・タウン」訪訪

 秋吉鍾乳洞、萩の松蔭神社、下関、門司港、新日鉄八幡製鉄所紀行が書かれています。前回までと少し違い本格的な紀行文が読み取れました(私見です)。私は下関と門司港を2012年に訪ねました。東京の世田谷区にも松蔭神社があり、松下村塾も建てられています。こちらは2回ほど行ったことがあります。

門司港駅 2012年

濃尾南北「水づくし」の旅

 濃尾平野の輪中、郡上八幡、養老紀行が書かれています。私は輪中の町として海津町(当時)を1982年に訪ねています。ちょっとしたエピソードとして、私が海津町の町役場に行き名刺を渡して輪中を理解するためにどのような場所に行ったらいいかお聞きしたら、当時の町長さんが出ていらして「美智子様の学校の先生ですか」とおっしゃり町役場の車を出して下さり運転手さんに案内をしていただきました。交通手段がなかったのでとても助かりました。このエピソードは輪中の暮らしで海津町を学ぶ時いつも子どもたちにしていました。
 
長野・上越 雪中の洞窟紀行

 善光寺、高田、小布施紀行が書かれています。善光寺は3回行きましたが、最近では2023年に訪ねまし。高田は行ったことはありませんが、豪雪地帯として十日町に1992年に、津南町には2008年に行きました。また、小布施は2023年に湯田中温泉に行く途中長野電鉄の車内から景色を見ました。

豪雪の津南駅 2008年

根釧あばしり 幻の「さいはて」を求めて

 根室、釧路、津別、網走紀行が書かれています。私はこの中で釧路しか訪ねたことがありません。教師になって1年目の1981年8月でした。この時こんなエピソードがありました。釧路から鉄道を乗り継いで、青函連絡船で青森に着き東京に帰る予定でした。しかし、台風が直撃して釧路から帯広までしか動きません。帯広の民宿に2泊し帯広空港から羽田空港まで飛行機で帰りました。2日目には台風もだいぶ弱まり当時帯広から広尾まで広尾線に乗りローカル線の旅をしました。途中の駅には当時有名になっていた「愛国駅」「幸福駅」があり電車から降りる時間があったように思います。これも思い出の一つです。
 
嵐の薩摩・種子島

 知覧、枕崎、指宿、種子島紀行が書かれています。私はこの中で知覧しか訪ねたことがありません。本文に次のような文章がありました。「現在、館(特攻平和会館)が建っている周辺一帯に太平洋戦争時、沖縄に向けて特攻機が飛び発っていた知覧基地があった。館内には、当時使用された零戦やレプリカの隼……などの戦闘機、沖縄の海に散った千三十五人の若い隊員たちの遺影、遺品の数々が展示されている。」私もこの特攻平和会館に行きましたが、多くのことを考えさせられました。
 
 この『たのしい社会科旅行』はその後、私がフィールドワークする際の参考書として活用させて頂いています。

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