無門関 ZEN & POEM〈14〉南泉斬猫
「南泉和尚は趙州和尚の師匠。この公案はすごく有名なハナシ」
「坊さんが殺生はマズイんではないかい?」
「その点に関しては、いろんな説明がされてるけど・・・。キミたちが考えるモラルとか常識とは別次元に禅体験はあるのだ、とか、南泉はネコを斬ると同時に南泉自身をも斬ったのだ、とか、あるいは雲水たちの分別心を斬ったのだ、などなど。いずれにしても、くるしい言い訳という気がするけど」
「ネコに罪はなかろう」
「まあ、南泉を弁護することはできんね。雲水たちの分別意識を斬り捨てるためにはネコを斬ることは良い手段だけど、殺生は仏道に背くこと。これはどうしようもない。どうしようもない立場で矛盾に引き裂かれている、というわけでボクはこの公案を五則の【香嚴上樹】と同じく、自己言及の不可能性を表しているものとして読んだ」
「すると趙州が草履をアタマに載せたのは?」
「これもいろんなひとがいろんな解説をしてくれてる。趙州のした行為の意味内容よりも、南泉のハナシに対して咄嗟に行為で反応を示した趙州は、沈黙してしまった雲水たちと比べてサスガだ、とか、地を踏みつけている草履をアタマの上に置くことによって、ネコなんか斬ってアナタは地獄に落ちますよ、と暗に南泉を批判してるのだ、とか、逆に、草履を帽子として使ってもなんの不都合があろうか、かりそめの名に迷ってはいけない。和尚よ、アナタはネコを斬り捨てることによって、迷いを斬り捨てた。そのことによって、アナタは真実を甦らせたのだ、と南泉を賞賛しているのだ・・・などなど」
「そんなもんかね」
「ボクはこれらの説にあんまりおもしろみを感じないんで、【香嚴上樹】のときと同じく、勝手読みするけど、まず南泉が『お前たち、なんとか言ってみよ。うまく言えたらこの猫は救われるが、言えなければ、斬り捨てられようぞ』と言ったのは、じつは『さあお前たち言ってみよ。お前たちは何者だ?』という問いかけであった、と考えたい。そしてその問いに対する答えとして趙州の行為があった。
つまり、趙州がした自分の履いてる草履を自分のアタマに載せるというのは、自分で自分を抱え上げようとするようなこと、あるいは自分の座っているイスを自分の腕で持ち上げようとするようなこと、で自己言及の不可能性を象徴する行為であり、『南泉和尚よ、己が何者かなどという問いに誰がコトバを持っているというのです?無理、無理、無理!』と言っているような気がするよ」
1998/12/10
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